西武新宿線は地下鉄乗り入れの夢を見るか・戦前編 | 書斎の汽車・電車

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 昨日、西武2000系のことを書いていて、頭から離れなかったのは、西武新宿線の地下鉄乗り入れ問題でした。

 ご存知の通り西武新宿線といえば、地下鉄との相互直通運転を行っていない路線であり、また公的な将来計画もないことになっています。あれだけの規模の路線で、地下鉄乗り入れ計画がないというのは実に珍しいといえましょう。

 

 とはいえ、戦前以来、この線が地下鉄と全く縁がなかったわけではありません。そこで今回は、まず戦前の(旧)西武鉄道時代に遡って、地下鉄乗り入れ計画について見ていこうと思います。

 

 大正15(1926)年2月18日付で、(旧)西武鉄道の高田馬場~早稲田(1M29C・2.2km)の鉄道敷設免許が下りました。当時(旧)西武鉄道は、東村山から高田馬場に至る村山線の建設を進めている最中であり、早稲田への路線も村山線の延伸という扱いでしたので、当然複線電化、軌間1067mm、一部地下線となります。駅は、高田馬場起点1095mに「下戸塚」、同1860mに「早稲田」、同2100mに終点「関口」が設置される予定でした。

 この早稲田線は、高田馬場駅から200mほど南下したあと向きを変え、現在の「大久保スポーツプラザ入口」交差点付近で地下線となり、現在の諏訪通り下あたりを早稲田方向へ向かうというものでした。『鉄道省文書』には、「市営地下鉄ト連絡セシムベシ」という文言があります。当時東京市が免許を得ていた市営地下鉄の5号線との早稲田駅での連絡(「乗り入れ」とは明記されていませんが、同じ地下鉄ですし、ただ同一ホームで乗り換え可能というだけではないでしょう)が考慮されていました。

 

 その後、昭和3(1928)年5月10日付で、経路の一部変更が認可されますが、早稲田線はなかなか着工に至りません。というよりも、着工以前に工事施行認可申請すらなされません。(旧)西武鉄道が昭和3(1928)年5月10日付で発した工事施行認可申請期限延長に関する申請書では、陸軍省用地内の工事方法が決まらないとあります。確かに、高田馬場駅の南側、戸山ヶ原は、当時広大な軍用地が広がっていました。(旧)西武鉄道は、大正15(1926)年3月31日付で、陸軍大臣宛に「請願書」を出し、善処方を求めています。どうやら経由地が、陸軍の大久保小銃射撃場の一角をかすめていたようです。(旧)西武鉄道といえば、東村山から箱根ヶ崎に至る線(未成)でも、在郷軍人会の射撃場が建設の障害となっていました。そう書くと、(旧)西武鉄道は軍部に邪魔されていたばかりのように見えますが、東村山~高田馬場の建設にあたっては、陸軍の鉄道連隊に工事を依頼し、建設費の節約につなげています(軍側は「演習の一環」として引き受けました)ので、軍部に翻弄されてばかりなどとはいえないと思います。

 早稲田線がなかなか具体化しなかったのは、軍部云々ではなく、景気の低迷と、早稲田で接続する予定の地下鉄が原因でしょう。この地下鉄は「5号線」で、池袋~早稲田~飯田橋~一ツ橋~東京駅~洲崎(12.6km)というルートは、中野、高田馬場には行きませんが、現在の東西線の前身といえます。東京市は、この線を含む4路線の免許を、大正15(1926)年5月16日に受けましたが、全5路線(1号線は東京地下鉄道の免許線)のうちの「5号線」です。建設の優先順位が低くなるのは当然のことでしょう。しかも東京市は地下鉄の建設そのものに着手出来ず、一部路線を東京高速鉄道に譲っています。(旧)西武鉄道とて、早稲田まで地下線を建設しても、いつまで待っても地下鉄が来ないのでは意味がなくなってしまいます。

 

 そうこうする内、(旧)西武鉄道は新たな地下新線の建設を計画します。昭和10(1935)年9月20日、「村山線延長敷設免許申請書」を提出します。これは、下落合駅より分岐し、小滝橋付近を経由し新宿駅に至る3.0kmの路線です。全線ほぼ地下式で、下落合から小滝橋までは神田川沿いに、小滝橋から新宿までは小滝橋通りの下あたりを通る計画だったようです。

 この線については、地下鉄への乗り入れ計画については明示されていませんが、新宿駅に地下線で乗入れる以上、東京高速鉄道新宿線(現在の丸ノ内線の前身)との乗り入れは、当然視野に入ってくるでしょう。

 ただ、この計画への当局の眼は、冷ややかでした。東京府は昭和11(1936)年9月22日付で、事業の成否は即断できないとしています。また、(旧)西武鉄道が着工に至らない未成線を多く抱えていることも問題視しています。そして「自動車運輸事業ニ及ボス影響等ヲ考慮ノ上免許スベシ」とまとめたのでした。鉄道省もまた、この計画には懐疑的だったようで、結局(旧)西武鉄道は昭和12(1937)年9月4日、「村山線延長敷設免許申請書取下願」を提出し、地下線による新宿延伸を断念しました。(認可は9月27日)しかし、ただでは転ばないのが(旧)西武鉄道です。同日付で、高田馬場~新宿という延長線(地上線です)の免許申請を行いました。これがすんなり認められたというわけではありませんが、戦後の西武新宿延伸の種はこの時播かれたといえるでしょう。

 

 その後も早稲田線は、工事施行認可申請期限の延長願を繰り返し提出する形で、免許そのものは生き残ってきましたが、戦後の昭和23(1948)年4月10日、とうとう「起業廃止」となりました。これに先立つ同年3月29日、高田馬場~新宿2.3kmが免許となっています。新宿延伸が決まった上に、東京の地下鉄網そのものも変化し始めましたし、早稲田への延長線は意味をなくしていたといえるでしょう。

 西武新宿線と地下鉄の関わり、戦前編はここまでといたします。戦後編は改めてお目にかけます。

 (旧)西武鉄道の沿線案内図に描かれた早稲田線です。実際には直線的な線形ではありませんでした。また、途中駅についても省かれていますし、終点は免許関連の書類によれば「関口」のはずですが、「早稲田」となっています。

 こちらはその表紙です。村山線東村山~高田馬場の開業間もない頃に発行されたものと推定されます。