旅にトラブルはつきものというが、僕もトラブルに見舞われたこと数知れず、台風豪雨で旅程の大幅な変更を余儀なくされたこともある。そのときの顛末記。

1982年は梅雨明けが遅く各地が豪雨に見舞われ、長崎では眼鏡橋が流されたりもした。7月某日の朝。その年に初めて発売されて間もない「青春18のびのびきっぷ」を懐に飯田線の旧型国電を撮りに高尾から中央本線各駅停車に乗った。3泊4日の気楽な旅になる…はずだった。当日は晴天で、昼前に伊那大島に到着。上片桐まで歩いて撮影ポイントを探しながら夕暮れまで撮影。夕食をとるため一旦飯田に行き、深夜に辰野まで戻った。辰野駅は中央本線の夜行列車が発着するため24時間営業している待合室で仮眠しようというわけだ。

(↓旅の1日目。2枚とも飯田線伊那大島-上片桐にて)

 

翌日も晴れて暑い日だった。早朝平岡駅に降りたち延々歩いて天竜川の対岸から撮影したり、金野•温田の各駅付近を歩き回って撮影したので一日が終わる頃には疲れ果ててしまった。本意ではなかったが、疲労回復のため飯田駅前の旅館に泊まることにした。夕食が付いて5,000円の宿だった。

(↓旅の2日目。飯田線平岡-為栗にて)

(↓飯田線金野付近にて)

(↓飯田線温田付近にて)


3日目の朝気合を入れて起きると無常にも雨が降っている。出鼻をくじかれた感じだ。それでも旅館代のモトを取るべく?!、駄科や三河槇原で撮影を続け、日が暮れた頃天竜峡駅から南の方に向かおうと電車に乗った。ところが強い雨風での倒木による架線切断のため途中の中部天竜駅で運転が打ち切られてしまった。乗客のほとんどは迎えの車で家路につくが、僕にはそんなアテがあるはずもなく、2日連続で宿に泊まる心と金の余裕もない。駅に残された数人とともに当直助役に泣きついたら「始発まで電車の中にいてもよろしい」とのありがたいお言葉。ロングシートに身体を伸ばして熟睡したのであった。

(↓3日目。飯田線三河槇原-柿平にて)

(↓飯田線三河槇原にて)

 

旅の四日目。台風が接近しつつあるのでさっさと帰宅すればいいものを、晴れたので色気が出てしまった。せっかく飯田線南部にまで来たのだから、朝夕にしか運用されないクハ85を撮ろうと三河東郷での撮影を皮切りに、東上•野田城で炎天下ヘトヘトになるまで撮影した。あまりの暑さに神社の石段に座ったまま木陰から撮ったりもした。その日は豊橋駅前のビジネスホテルに投宿することにした。TVでは大型台風接近を報じていたが、なんとかなるだろうとそのときは軽く考えていた。(次回に続く)

(↓4日目。飯田線三河東郷-大海にて。増結されたクハ85が先頭に立つ。)

(↓飯田線東上-野田城にて)