まずは簡単に、電車の屋根に有る集電用トロリーポール(電棍:でんこん)と架線についての説明から…
架空単線式と架空複線式
1895(明治28)年2月1日に七条停車場(京都駅)~下油掛(伏見京橋)間で、日本で最初の電気で走る「電車」の営業運転を開始した京都電気鉄道の車両は、架線から受電してレールへ帰す、当時は(そして現在でも)一般的な架空単線式で集電ポールは1本だった。
デッキには法被を着た電車告知人(先走り)の少年が立っている。
※京都府立京都学・歴彩館『京の記憶アーカイブ』より
電車より早く走った 電車告知人(先走り)
その後全国的に近代化が進み電鉄会社も増え都市整備が進みレールへ帰した電気が地中の水道鉄管の腐食や電話線などに影響が出始めたことから架線を複線とし、片方の架線から受電してもう一方の架線へ帰す、現代ならゴムタイヤのトロリーバス方式の、架空複線式の2本ポールを採用するように定められた。
しかしこれは車両も架線も技術的にも費用的にも大変な事だった。
ライバル京都市電が開業したのは京都電気鉄道開業から17年遅れの1912(明治45)年(※日本で3番目の市電)だったので最初から2本ポールを装備し標準軌が採用された。
日本最初の市電は日本3番目!?
日本最初の京都電気鉄道は私鉄です
丸太町線の京都市電(右上)と堀川線の京電186号車は、どちらも2本ポールで、1978(昭和53)年発行「さよなら京都市電」には「大正初期」と書かれている。
※京都府立京都学・歴彩館『京の記憶アーカイブ』より
こちらも前掲「さよなら京都市電」に「大正初期」と書かれている堀川下立売の電車乗客待合所前の京電の152号車で、対向の車番号不明の電車と共に2本ポール車両である。
※京都府立京都学・歴彩館『京の記憶アーカイブ』より
「N電」と呼ばれた車両はN133号までしか存在しない。
競合から7年の1918(大正7)年に京都市に買収された京都電気鉄道に関する文書資料はあまり残っていない様で、この写真を始めその他残された写真からでは、どの程度までかは不明だが、市電とし烈な集客競争をしていた京電も2本ポールに対応していた事がうかがい知れる。
前書きが長くなりましたが、ここからが本題で…
勝者の論理
勝った者の言い分が正当化されて敗者の主張は退けられる事
これは国立国会図書館デジタルコレクションの1933(昭和8)年京都市電気局編の「京都市営電気事業沿革誌」の1033ページの記述。
「明治四一年二月許可を得て建設せる本市電氣軌道に於ては電車線路を直流五〇〇ヴォルト架空複線式とせるも大正七年七月買収せる京都電氣鉄道株式会社にては架空單線式を採用し居りし爲め漸次之が改修をなし大正九年五月の軌道構築工事許可と共に全部之を架空複線式に改めたり。…」と赤枠内は書かれている。
要約すると京都市電気局は「当社は開業時から架空複線式であるが、大正7年に買収した京電は架空単線式だったので順に複線式に改修して(2年後の)大正9年には全部の架線を複線式にした。」と読み取れる。
現在コロナ関連で休館中だが…
上記イベント関連で開催されたミニ講座において、資料を調査した京都市電関係資料調査会に京都電気鉄道の架線方式を尋ねたところ、やはり「市電買収後に改修した」との事だったので、前述の資料から、京都電気鉄道を含む京都市電83年間の歴史の中の23年間の資料の乏しい京都電気鉄道の一部分の事を取り上げて申し訳ないとは思いつつも、電気鉄道のパイオニアの苦労が歴史に埋もれてしまうのは残念な事なので、ポールについて再調査をお願いした。
なお、その後技術改良が進みレールに電気を流しても問題ないとの事で、京都市電の架空複線式は太平洋戦争の物資不足の頃から順次架空単線式に変更されている。