通常なら前線は移動するので降雨とエネルギー補給のバランスが安定して、豪雨は伴う場合はあっても、移動して逃げて行くのですが。
停滞してしまった故に、肥大化して大型線上降水帯へとモンスター化したのですが、エネルギーレベルだけで見るとそれは台風と同等で、暴風圏と強風圏を持たない大型台風が、動かずじっとその場に居座ったと比喩しても過言ではないようです。
余談ですが、台風は超低気圧なので雨は伴いますが雨量は定義に含まれず、あくまでも暴風圏と強風圏を基に台風と定義付けされます。
なのであくまで今回の豪雨の元は、モンスター化して大型線上降水帯へと肥大した、停滞秋雨前線です。
気象庁の黒良龍太予報課長は『前線の活動は非常に活発で、線状降水帯から発生するような気象状況が継続している』と記者会見で警告し、九州中四国の全域にレベル3~4の警報を発出しつつ、大雨特別警報と緊急安全確保のレベル5が九州中国4県で発令されて。
佐賀県の佐賀市や嬉野市、長崎県の長崎市や佐世保市、福岡県の福岡市や久留米市、広島県の広島市などでは『命の安全を最優先に』と再三警告していました。
佐賀県などによると複数河川で護岸が崩れ、武雄市を流れる六角川で氾濫が発生し、鳥栖市では排水施設が冠水のため停止、県は市街地が水に漬かる「内水氾濫」の危険性があると警鐘。
島根県と広島県を流れる江の川でも氾濫が発生し、山口県宇部市の厚東川ダムでは、流れ込んだ雨水をそのまま流す緊急放流が実施されました。
西日本を覆うモンスター秋雨前線の雨曇は東海・関東へも触手を延ばしており、ゆっくりと北東へ進みつつも末端は九州へ居残り、今後一週間程度は北九州から関東で停滞する見込みだと言います。
終戦記念日の今日午後6時までの24時間予想雨量は、東海300ml/h、関東甲信250ml/h、九州北部と四国・中国・近畿200ml/h、九州南部180ml/h、北陸と東北100ml/hとなっています。
その後、16日午後6時までの同雨量は、九州南部100~150ml/h、九州北部と関東甲信50~100ml/h、四国と中国、近畿、東海、北陸、東北およそ50ml/hと、西日本ではやや雨量が落ち着くものの、長崎・佐賀・福岡・広島では既に降り始めからの総雨量が8月1カ月分の平年値の3倍近くに達しています。
少量の雨や軽い地震程度でも、大規模な土石流災害が発生したり、堤防決壊の可能性が高いので、専門家は今後の雨の降り方が一時的に弱まっても、厳重な警戒の継続が必要と指摘しています。
さて、私は処理しきれなくなったストレスによって、脳疲労と適応障害を発症してしまったことは、既に今月初めに告白しているところですが。
8月13日には京都鉄道博物館へストレス発散の一環として、当初から予定に組み込んでいたのですが、上記の大型線上降水帯と化したモンスター秋雨前線に祟られました。
本来の予定では正午直前に到着予定だったのですが、山陽本線のダイヤの乱れで約3時間遅れの15時過ぎに現着。
普通ならやめるのでしょうけど、私もちょっと意地になってて、とにかく行くことが目的で、もし帰ってこれなかったら、帰れなかったら帰らなきゃいいじゃん・・・・これが本音です。
コロナにしろクソ雨にしろ、もういい加減にしてくれ!
しかし到着しても閉館までは2時間半を切っていますので、第一目標(笑)のクモル145系の特別展示へ。
運転席見学チケットは持っていなかったのですが、まぁ、それなりに満喫してから機関車トーマスコーナーへ。
そして梅小路機関車庫へ向かったら、丁度石炭線から転車台へハチロクが移動する頃合いでした。
時間的に動いているところはムリだろうなぁと思っていたので、たったこれだけでもラッキーでした。
来る時に傘が豪雨で破壊されたので、ミュージアムショップでエンブレム入りのビニル傘を買おうと思ったら、入店するのにこれまた長い列で。
長い列に並んで傘が売り切れていたら目も当てられないので、入口で入場整理されていた職員さんに、傘ありますか?と質問したら、傘だけだったら並ばなくても良いですよと(嬉)
現実逃避での訪問なので、誰にもお土産を買う予定が無かったので、ホントに傘だけ購入して梅小路京都西駅へ。
どうやら新幹線は定時運転されているようで、広島市内までの乗車券と18時7分発広島行きののぞみグリーン車を買って。
関空方面、北陸方面、山陰方面への特急列車は全便運休中ではありますが、京都駅で約1時間ほど過ごします。
毎回恒例のスパイシーマサラで夕食を済まして、コンコースをフラフラしていると、突然救急隊が現れて10番ホームへ向かって走って行くし。
奈良線は集中豪雨で運転見合せ中で、近鉄線や地下鉄線への振替輸送を案内してるし。
10分前に新幹線ホームへ上り、のぞみ97号へ乗り込むと、いつしか爆睡モード突入で、目が覚めたのは福山も発車していて三原辺り?
その後もうつらうつらしていて、車内放送が入ると広島運転所の明りが眼下に広がって、マツダスタジアムも見えて来て、あぁ降りないと・・・・と。
気がつくといつしか10号車は私1人の貸切になっていて、ホームへ降りたら喫煙所へまっしぐら(笑)
まずは目覚めの一服で、それからトイレへ行ってから在来線乗り換え改札口へ向かったらっ!
ちょうどシャッターが閉まり始めたところで、駅員さんによると『在来線はこれ以上運行できる状態ではないので、もう電車は無いのですが・・・・』と。
広電電車は動いているということで、乗り場まで行ったのですが、この満員電車🚃🚻🚻🈵な宮島口行きに乗る気力はなくて、タクシーで帰ろうかと。
しかし工事中の広島駅ビルの影響でタクシー乗り場は2台しかスペースがなくて、当たり前ですが待ってくれているタクシーなどは無くて。
反対側のバス停でタクシーを掴まえている人たちが数名いるのを見て、私も大州通りの2号線降り場へ向い、待つこと5分でタクシーに乗ることができました。
その運転手さんは本来休みの日だったらしく、雨で広島バスが全便運休するとのニュースを見て急遽、自主的に休日出勤したんだそうです。
JRが運休に入ってから海田市へお客さんを乗せて、その帰り路で私を拾ったらしいですが、高須駅前で私が降りた時、乗りたいというお客をそこでも掴まえたようで、この日はどのタクシーも忙しかったようです。
まぁ、私が広島駅へ到着したのは19時52分ですから、本来ならまだまだ人が動いてる時間帯て、広電電車は孤軍奮闘していたもののバスもJRも動いてなかったんですからねぇ。
ということで、終戦記念日としての記事内容ではありませんでしたが、2021(令和3)年8月のお盆は、平成30年豪雨 = 西日本豪雨の雨量を越える雨が降り、通常の8月の総雨量の3倍の雨だった・・・・そんな記録でお送りしました。
そしてそれを体験した瞬間は『雨の重さに耐えられず、傘が壊れてずぶ濡れになった』に尽きます。
豪雨の中で棄ててしまったので写真はありませんが、主柱はZに折れ曲がり支骨もグチャグチャでした。
『日本では、どうしても記憶しなければならないことが4つはあると思います。終戦記念日、広島の原爆の日、長崎の原爆の日、そして6月23日の沖縄の戦いの終結の日です』
ー 明仁上皇 ー
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Have you heard of war experiences?

戦争体験談、聞いたことある?
もちろん、ありますよ。
祖母方が軍閥系の家柄で、海軍・陸軍の佐官や官僚だったので。
戦艦大和・武蔵、空母赤城・瑞鶴・瑞鳳の司令官クラスの体験談でしたけど。
陸軍の体験談では、さっきまで普通に接していた友人が、戦闘中に肉片が残らないほどの姿に変わってしまった話しなど、語る方も涙声でしたが、子どもながら私ももらい泣きして聞いていました。
私が30代の頃は、たまに『戦争も行ったことの無いヤツが偉そうにっ!』と怒鳴っている声を聞いたりしていましたが。
そういう人を見つけると『戦争に行かれたんですか?』と、できるだけ話しかけていました。
突然、知らない若造からそう声をかけられたら、当然『おう、じゃけぇどーしたんなら』と半喧嘩越しに応えられるのですけど、その方々の生きた体験の声は、今もずっと私の中に耳に残っています。
体験を聞いてくれると嬉しそうに話し始めてくれる人もいましたが、苦虫を噛んだように渋い表情をして、決して話したがらない人も大勢おられました。
その時は、軍閥系の親戚から聞いた話しを、一緒に歩きながら一人言のようにしゃべっていると、突然半泣きになりながら重い口を開いてくれました。
まだ風営法も何も無かった時代だったので、居酒屋へ入って、相手の方が満足するまで聞いていました。
私が奢る時もあれば、相手の方にご馳走になった時もありましたが、私にとってとても有意義な体験でした。
零式戦闘機のパイロットと一式戦闘機のパイロットだった方のお話しも聞いた体験があります。
零式戦闘機は通称零戦、一式戦闘機は通称隼で、零戦は海軍の戦闘機、隼は陸軍の戦闘機です。
戦闘機のパイロットさんは戦後にアメリカ軍や他連合軍の退役パイロットさんと交流がある方も多く、後で話している内に同じ戦場同じ空域で戦闘相手だったと知ることもあったそうです。
戦争は勝っても負けても、人間が互いに殺し合う外交なので、心に深い傷を負います。
軍や国が兵士を労り栄誉を贈るのは、そうしないと戦った本人たちが一生背負った心の傷に耐えられなくなるからです。
私は東京オリンピックの中継で、広島平和記念式典関連の全国放送、そして広島での地元放送が縮小されると意義を申し立てていた人々へ、哀しい気持ちになりました。
1940(昭和15)年、戦争というきな臭い嵐が迫る中、東京都と日本政府は東京でのオリンピック開催権を返上しました。
戦争が終わり19年後、TOKYO1940から24年後となる10月10日、旧国立競技場の聖火台にオリンピアの炎が点火されました。
広島では1957(昭和33)年に、原爆ドームの隣へ旧広島市民球場が完成しますが、広島市の復興が進み市民の暮しにもゆとりができはじめた頃から、被爆死者へも野球を見せてあげたいという声が出始めました。
この声は無くなることはなく、旧広島市民球場の晩年には全被爆者と戦没者の英霊に、広島はここまで復興し国際平和都市を名乗り、地元にはプロ野球の球団があるんだと、8月6日の開催の声へと広がります。
しかし関係各所との調整がうまくいかず、この市民の声は実現することはありませんでした。
広島市民にとって、原爆ドームと旧広島市民球場が並び建つ景観は、広島という都市の歴史と被爆、そして復興と平和と未来へのシンボルでした。
2009(平成21)年4月1日、広島市民球場は新たに広島駅南東へ、JR貨物ヤード跡地と宇品線旧用地の一部を利用してオープンし、この年から原爆ドームからは遠く離れてしまいましたが、やっと広島市民の声だった8月6日の慰霊のリーグ戦開催が行われました。
先祖代々からこの地に住む広島市民の総意は、オリンピックによって平和記念式典関連の全国放送が縮小されるのら、これほどの慰霊はないと受け止めていました。
平和を望み、楽しい日々の暮し、そして泣いたり悲しんだりもあったであろう普段通りの普通な暮し。
そして突然それを奪われた人々。
日本で2度目のオリンピックを、世界的な平和の祭典を、自分たちのために中継や特番を犠牲にして欲しくないと、亡くなられた御霊はそう考えているはずなのは、この地を故郷とする者には共通の認識です。
昔々の話しになりますが、1967(昭和42)年10月から放送された空想特撮シリーズ『ウルトラセブン』についてですが。
登場するのは地球人の白血球を奪うスペル星人の回ですが、朝日新聞による過剰な言いがかりと、それに乗った被爆者団体による圧力で、円谷プロがオリジナルフィルムを廃棄した事件です。
詳細はウィキペデイアへリンクカードを貼りましたが、ここで登場する被爆者団体とは共産系で同和団体と癒着している特定の協議会のことですが、この団体が特撮モノに対して恫喝まがいの圧力をかけたのはウルトラセブンのみで、その後の放射能(放射線)や原水爆が関係する特撮やアニメには、被爆者差別との言いがかりはつけたことがありません。
実際にこの被爆者団体へ加盟していない大勢の被爆者からは、このウルトラセブン問題に対して『何度か見たが差別だと感じない』『なぜそんなに神経質になるのか分からない』『ぜひ子どもたちのために、くだらない封印などしてあげないで下さい』などのコメントが、インタビューによって当時出版されています。
これまでの出来事や今回のオリンピックTOKYO 2021の声にしても、被爆者や被爆2世そしてその遺族・家族と、端から見る被爆者そして核兵器反対には、少し隔絶があるように感じます。
そして1940(昭和15)年に生まれて1945(昭和20)年に5歳で亡くなった叔母の心に思いを馳せると、やはり広島平和記念式典関連の全国放送が縮小され、オリンピック関連の番組が多かったのは、あの戦争で亡くなった全ての方々への鎮魂と慰霊になったものと信じています。