今日は長崎の平和祈念日 | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

今日は長崎の平和祈念日

『日本では、どうしても記憶しなければならないことが4つはあると思います。終戦記念日、広島の原爆の日、長崎の原爆の日、そして6月23日の沖縄の戦いの終結の日です』
ー 明仁上皇 ー

広島は平和記念日及び平和記念式典と表記しますが、長崎は平和祈念日及び平和祈念式典と表記します。

共に昔は"原爆忌"や"原爆記念日"と言われていましたが、原爆記念日ということばは近年ではほとんど使う人はいなくなりました。

長崎は修学旅行や単に旅行で訪問したに過ぎないレベルなので、ここからは広島での話しとなりますが。


実際に私が小学生の頃は、終戦から25~30年程度しか経っておらず、被爆者だった両親も若かったのと、あの惨劇を生き延びた人々も高齢者の比率が低かったのですが、一般的な会話では原爆記念日の呼称が使われていました。

教師もそのことばを使うので、当たり前のように私たち子どもも原爆記念日と呼んでいましたが、さすがにテレビや新聞では原爆の日と呼んでいたように記憶しています。

現在は原爆忌は少数ながら今でも使われる呼称ですが、原爆記念日という呼称はほぼ死語となっているようです。

広島では数年前まではまだ『核廃絶が達成されるまでは平和記念日と呼ばない』という人も比較的おられましたが、やはり核兵器禁止条約が発効した辺りから、原爆記念日と呼ぶ人をほとんど見かけなくなりました。

平和記念日ということばは中年~若年層や子どもたちの年代には定着しているようですが、高齢者には未だにしっくり来ない人もおられるようで、個々の呼称で呼ばれている方々も見受けられます。


そもそも平和記念日との呼称はいつから使われるようになったのでしょうか。

1946(昭和21)年、被爆から一周年を迎える8月6日に、民間によって広島平和復興祭が開催されました。

1947(昭和22)年からは祭典実行委員会による広島平和祭となり、浜井信三広島市長による平和宣言やGHQ マッカーサー最高司令官によるメッセージの読み上げなどが行われました。

この平和祭が平和記念式典の第1回とされていますが、今のような慰霊祭ではなく復興に向けたイベントフェスタの色合いが強いものでした。

この平和祭は毎年開催されましたが、1950(昭和25)年は6月25日に北朝鮮が38度線を越えて韓国へ侵攻したことを受けて、社会情勢が不穏だったことからGHQより中止命令が出され、第4回は開催されませんでした。


1951(昭和26)年は朝鮮戦争の真只中でしたが、GHQからは特に何の沙汰も無かったため平和祭は開催されたものの、浜井信三広島市長による平和宣言は行われませんでした。

1952(昭和27)年の開催からは平和祭改め平和記念式典となり、式典の式次第が作られて慰霊祭としての様相に変わりました。

しかし未だ焼け野原であった広島市民の活力源となるべく、忌まわしい思い出を払拭するようイベントフェスタ的なものも式典後に催されていたようです。

日本は高度成長期を迎えており、その波が広島まで届いた頃から復興フェスタは8月6日に催されなくなったようで、平和記念公園が開設された1954(昭和29)年以降は、慰霊の日として現在の様相で行われています。

1957(昭和33)年に東京発着のブルートレイン・特急あさかぜが走り始めると、広島も近大都市への再開発が加速していき、同年には旧広島城内の陸軍西部第二部隊営庭跡地に初代の広島市民球場も完成します。


1971(昭和46)年、現職の内閣総理大臣であった佐藤栄作氏が日本の内閣総理大臣として初めて式典に出席します。

どうやらこの時に、広島平和記念日という呼称が一人歩きを始めたようです。

広島平和記念式典は、現在の正式名称を広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式で、長崎は長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典と言い、略称として広島と長崎を区別するために、広島平和記念式典そして長崎平和祈念式典と記されます。

先に平和記念式典と平和祈念式典という呼称があり、現職総理大臣が参列するにあたり、全国区となった原爆記念日がそれぞれ平和記念日そして平和祈念日と、マスコミを通して広がって定着したもののようです。

広島市からの通達で『8月6日を平和記念日とする』とは無いため、恐らく長崎も『8月9日を平和祈念日とする』とは無いものと推測されます。


実際に定着するまでは時間がかなり必要だったようで、現実的に誰かが定着させようと活動していた訳でもなく、1971(昭和46)年と言えば私は7歳で、平和記念日という呼称を普段の会話で耳にするようになったのは、30代に入ってからだったように思います。

前述と同じく私より世代の離れた下年代は、少し違うのかも知れませんけれど。

さて、8月6日も8月9日も核兵器による被害による死没者の慰霊の日で、被爆によって亡くなられたのは大多数は日本人なのは当然ですが、日本へ移住していた朝鮮人を始め、ドイツ人やアメリカ人など外国人もいました。

戦争で実際に核攻撃されたのは広島と長崎の両都市のみですが、実戦で使用するためには開発するための実験も必要です。

1945(昭和20)年、アメリカのニューメキシコ州で世界で初めての核実験が行われてから、昨年までに2050回以上の核実験が行われきました。

被爆直後の広島

アメリカはネバダ砂漠や太平洋でロシアはカザフスタンや北極海で、イギリスはオーストラリアや太平洋の島国で、フランスはアルジェリアや南太平洋の仏領ポリネシア・タヒチで中国は新疆ウイグル自治区で実施しています。

福島の原発事故で残留放射能について散々語られたので記憶に新しい人も多いでしょうが、1945(昭和20)年に原爆で受けた放射線は、1982(昭和57)年になってやっと観測されなくなりました。

人体の健康へ有害な放射線のレベルは、昭和20年代の内に薄れていたようですが、原爆ドーム及び島外科周辺では、自然界における放射線レベルを超える数値が、上越新幹線が開業する時代まで測定されていたということです。

戦後の核実験は原爆自体も威力を増しており、新型である水爆も開発されて放射線レベルは広島型・長崎型の比ではありません。

実験場は立入禁止となっているものの、黒い雨や死の灰は広域へと放射能を運び、植民地原住民や先住民族の暮らしている土地を汚染し、被爆者はその補償も医療も支援されず放置されました。(岩波ジュニア新書「核兵器はなくせる」著:川崎哲 より)


実際に調査も精査された訳でもなく、数字として概算ではありますが把握されているのは、ロシアがまだソ連だった時代に、470回以上の核実験が行われたセミパラチンスク(現在のカザフスタン共和国)には100万人以上の被爆者が存在しています。

また、忘れがちになりやすいのですが、日本人は広島・長崎に次いで第3の被爆者が存在します。

核兵器による放射線被害は"被爆"と表記し、施設など漏洩による放射線被害は"被曝"と表記します。

第3の被爆者・・・・それは水爆実験による死の灰を被った第五福竜丸の乗組員です。

1954(昭和29)年3月1日午前3時45分、アメリカが太平洋のマーシャル諸島・ビキニ環礁で行った水爆実験は、広島に投下された原爆のおよそ1,000倍の威力でした。


水爆実験を行うことを事前通知せず、突然の核爆発は周囲の有人島の住民を犠牲にし、第五福竜丸は爆心地から160kmほど離れた地点でマグロ漁を操業中に被爆しました。

【爆発の瞬間、西の空に強烈な閃光を見た乗組員の一人大石又七さんはこの瞬間を次のように証言しています。『夜明け前の静かな洋上に稲妻のような大きな閃光がサァーッと流れるように走った。(中略)光は、空も海も船もまっ黄色に包んでしまった』】(新潮社「死の灰を背負って - 私の人生を変えた第五福竜丸」 著:大石又七)

これらは遠い過去の話しでありません。

過ぎ去ったの歴史の一部ではありますが、もう終った記録でもありません。

北朝鮮では核実験を繰り返し、核弾頭搭載可能な弾道ミサイルの開発に成功し、ミサイル実験を繰り返していることも記憶に新しいところです。


目標は太平洋横断とアメリカ本土への核攻撃を安定的に行える性能の維持ではありますが、韓国や日本へ向けての核攻撃は既にいつでも行える状態であることを認識し、自覚するべきです。

また、東日本大震災において、原子力発電所の脆弱性も目の当たりにしました。

被爆地ヒロシマ・ナガサキそして被曝地フクシマを忘れてはなりません。

また、ヒロシマ・ナガサキ・第五福竜丸だけでなく、世界中に存在する被爆者そして被曝者のことを忘れてはなりません。

核兵器廃絶がイコール世界平和ではありませんが、恫喝道具である核兵器の廃絶は、核に頼らない持続可能な社会の構築への第一歩として、未来へ頼ることなく今からでも声を大にして訴えて欲しい、地球人としての理念であると信じています。



May the world be filled with peace and happiness.




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