東京湾アクアラインを渡る高速バス放浪記(2)~東京-館山・安房白浜線「房総なのはな」号~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
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東京駅を午前10時きっかりに発車した館山駅行きの高速バス「房総なのはな」号は、東海道本線の線路に沿って内堀通りを南下している。

 

東京駅八重洲南口の高速バス乗り場は、バスが北向きに停まる構造なので、Uターンするような格好になった。

初めて乗る高速バスではいつも心が浮き立つのだが、東京駅からこの方角に向かう高速バスは初めてだったので、この先どのように進むのか、と楽しみになる。

 

 

有楽町の手前で鍛冶橋通りに左折し、続けて昭和通りに右折、その先の名もないような交差点で、銀座桜通りに向けて運転手さんが左折のウインカーを点滅させた時には、道を間違えたのか、と思った。

路面には一応センターラインが引かれ、かろうじて片側1車線が確保されているものの、とても大型バスが日常的に使うような道路には見えない。

 

ところが、この狭隘な銀座桜通りに、首都高速都心環状線外回りの京橋ランプが設けられていたのである。

このような裏通りに高速道路の出入口を作ったのか、と絶句してしまう。

せめて、もう少し道幅のある鍛冶橋通りに繋げられなかったのか、と思うけれども、京橋ランプの出口は鍛冶橋通りに設けられている。

 

 

銀座桜通りが首都高速都心環状線を跨ぐ橋の名は新金橋、鍛冶橋通りは弾正橋である。

 

昭和37年に京橋ランプと浜崎橋JCTの間で首都高速都心環状線の最初の区間が部分開通した時には、昭和39年に開催された東京五輪に向けて、首都高速1号羽田線と接続して都心と羽田空港を結ぶ都市高速道路として機能していた。

用地買収が困難な銀座付近では、楓川と築地川の水を抜いて高速道路が建設され、新金橋も弾正橋も、元々は河川に架けられた橋梁だったのである。

そのため、この区間では、ただでさえ高速道路とは思えないほどに曲がりくねっている上に、車線の真ん中に古びた橋脚が鎮座している箇所が少なくない。

 

 

京橋ランプの料金所をくぐり、堀割の本線に向かう流入路の急勾配を下っていくと、合流部は新金橋の橋脚近くであるため見通しが利かず、しかも追い越し車線への流入になるため、もし制限速度を遥かに超える車が追いついてくれば、追突もあり得るぞ、と肝を冷やした。

 

これまで東京駅を出入りする高速バスは、どの方面へ向かうにも、駅前の八重洲通りから宝町ランプで都心環状線内回りに入る路線ばかりであった。

宝町ランプも料金所の手前の曲線がきつく、バスの巨体が通り抜けるたびにひやひやしたり、運転手さんの見事な腕前に感心したものだったが、考えてみれば、都心環状線外回り方面に向かう路線は「房総なのはな」号が初めてである。

東京駅周辺の首都高速のランプは、このような難所ばかりなのかと思う。

 

 

今回、僕が「房総なのはな」号に初めて乗車したのは、平成11年の晩秋の週末であった。

 

平成9年に会員制定期バスとして運行が開始され、当時は「サーフロード」号という愛称で1日3往復が運行されていたらしいが、平成11年10月から「房総なのはな」号に愛称が変更されてからも、会員制高速バスのままであったため、時刻表には掲載されていなかった。

 

東京駅から東京湾アクアラインを経由して南房総まで足を伸ばす高速バスが開業したとの報を耳にして、こうして勇んで乗りに来たのだけれども、「南房総 白浜 東京」と大書された車体は若干小ぶりのように感じられ、座席の前後の間隔も狭く、南房総で定期観光に使われている車両をそのまま持ってきたのではないか、などと邪推したものだった。

それでも乗客数が順調に推移したのであろう、平成12年6月に定期路線に昇格して運行本数も増え、時刻表にページが設けられて、現在では1日27往復という人気路線に成長しているのは御同慶の至りである。

僕が乗車した便も観光客が多く、空席は僅かで、将来の盛況ぶりを暗示していたのだが、その分、詰め込まれた感覚が余計に際立っていた。

 

 

「房総なのはな」号の定期化よりも早い平成10年3月に、浜松町バスターミナルを起終点にして東京駅八重洲口前を経由する安房鴨川駅行きの高速バスが開業し、東京駅を発着する路線だけでも、

 

平成12年7月:君津駅

平成14年8月:勝浦駅・小湊・御宿

平成15年10月:君津・木更津駅

平成22年4月:茂原駅

平成24年4月:三井アウトレットパーク木更津

平成29年4月:袖ケ浦駅

 

と、東京湾アクアライン経由で房総半島に向かう複数の高速バスが登場した。

頻回に運行する人気路線が多いため、首都高速都心環状線の京橋ランプは、その北隣りに位置して東名高速・常磐道方面への高速バスが使用する宝町ランプと並ぶ、高速バスの新名所となったのである。

 

 

無事に本線に合流して首都高速都心環状線を走り出した「房総なのはな」号は、車線に林立する橋脚をうねうねと縫うように、堀割の側壁の上にぎっしりとそそり立つビルを見上げながら、慎重な走りっぷりで南へ向かう。

自分でハンドルを握って何度か走った経験はあるけれども、こうしてバスの座席に収まって詳細に観察していれば、なるほど川だ、と思う。

エコの観点からは賛否両論であろうが、川を干して都心の密集地区に高速道路を建設する方法を編み出した設計者の発想には、舌を巻かざるを得ない。

「房総なのはな」号下り便の導入部は、東京都心の過密ぶりを味わうには恰好の道行きと言えるだろう。

 

銀座ランプを過ぎ、汐留トンネルに入るとバスは急な勾配を駆け上がり、首都高速八重洲線が左から合流すると同時に高架部分に飛び出して、視界が一気に開けた。

こんもりとした浜離宮の森を左手に見下ろしながら左カーブをぐいぐいと曲がれば、長さ798m・橋脚の高さ126mのレインボーブリッジが、ビルの合間から全貌を見せる。

平成5年に完成した首都高速台場線のレインボーブリッジは、首都高速都心環状線浜崎橋JCT付近から眺めるのが最も流麗であると僕は思う。

 

「房総なのはな」号は、点々と船が浮かぶ湾内を見下ろしながら、巨大な吊り橋で東京湾を横断していく。

左手に月島の高層マンション群や有明埠頭、右手にお台場のDECKS、アクアマリン、海浜公園を見晴るかすドライブが、爽快でないはずがない。

 

「あ、お台場!」

「すっごーい!今、レインボーブリッジを渡ってるの?」

 

東京駅を出てから、どれほど狭いランプや走りにくい道路でも、気に留めずお喋りに専念していた何組もの女性客も、ここでは窓外に眼を釘づけにして歓声を上げた。

高速路線バスとは一線を画す華やいだ雰囲気で、僕が乗車しているのは会員制のツアーバスだったな、と改めて思う。

1人旅らしき乗客も少なからず見受けられたが、そちらも一様に顔を上げて車窓に見入っている。

 

お台場にフジテレビが移転して来たのが平成9年、都営地下鉄大江戸線が開通して月島に高層マンションが増え始めたのは平成12年前後であるから、ちょうどこの旅の時代に、臨海副都心の目覚ましい変貌が始まっていたのである。

 

 

有明JCTで広々とした首都高速湾岸線に合流し、奇抜な外観のフジテレビ本社を右手に見上げながら13号地に渡る東京港トンネルをくぐると、左手に新幹線基地、右手に八潮の高層都営住宅を眺め、バスは平和島、昭和島、京浜島の埋立地を結ぶ橋梁を次々と渡っていく。

空港北トンネルを抜けて羽田空港の敷地をかすめ、多摩川トンネルで浮島に渡れば、そこはもう神奈川県である。

 

橋梁から埋立地と運河を見下ろしたり、照明が矢のように窓外を過ぎていく長いトンネルをくぐったり、なかなか目まぐるしい車窓が続くけれども、台場から浮島まで、土地も含めて眼に入るもの全てが人工物であることに思いが至れば、驚嘆するより他はない。

出来てしまえば、昔から大地が存在していることが当たり前であるかのように感じられるのだが、元々は海であったこの地域に、どれほどの財力や物資が投じられたのであろうか。

人間とは、途轍もないことをやってのけるものだと思う。

 

加えて、「房総なのはな」号の行く手には、総額で我が国の国家予算の数十分の一に相当する1兆円を超える建設費を投じて造り上げた巨大な建築物が控えている。

浮島JCTへの流出路は多摩川トンネルの中から始まり、急なカーブと上り勾配が終わると、前方に東京湾アクアトンネルの入口が現れる。

 

 

全長9607mもの海底トンネルを10分とかからず走り抜けたバスは、海ほたるPAへの流出路に鼻先を向けた。

東京湾アクアラインの本線と出入路が幾重にも交叉し、客船を模ったという5階建てのビルが建つ長さ650m・幅100mの堂々たる人工島を見れば、ここが、かつては何もない海面だったとはとても信じられない。

どえらいものを造ったものだ、と思う。

 

「御乗車お疲れ様でした。海ほたるで10分の休憩になります。発車は11時です。お乗り遅れのないようにお願いします」

 

と案内しながら、運転手さんが、係員の誘導に従ってバスを駐車場の一角に駐めた。

 

「うっそー、海ほたるに降りれるんだ。私、1回来てみたかったんだ」

「10分だからゆっくり出来ないよ。トイレに行くだけね」

「そうなんだ。つまんない」

 

と賑やかに会話を交わしながら、乗客が通路に並ぶ。

 

前回、ここに寄った川崎-木更津線の高速バスは乗降扱いをするだけの停車であったから、降りる訳には行かなかったけれども、今回は、短時間でも、東京湾の新名所となった海ほたるに足跡を印すことが出来る。

海ほたるに来た以上は、用足しよりも、ひと目で良いから東京湾の眺望を眺めたい。

このバスに、トイレはついていなかった。

それでも、東京駅でバスに乗る寸前にトイレを済ませているから、終点までの3時間を催さずに過ごす自信はあった。

僕は、腕時計をにらみながら、混雑しているエスカレーターの列に加わり、トイレも店舗も見向きもせずに、早足で展望台を往復した。

東京湾は穏やかだったが、高曇りの空模様で、吹きつける風が冷たかった。

 

大いに満足して座席に戻ると、

 

「今度はもっとゆっくり来たいね」

 

などと女性客が話しているのが聞こえたから、内心、得意になった。

僕のような突飛な行動をする乗客など1人もいなかったのではないか、と思い直せば、若干の羞恥心が込み上げて来るし、大っぴらに自慢する程のことでもない。

 

 

本線に戻ったバスは、広大な海原と、少しずつ近づいてくる房総の陸地を見渡しながら、長さ4384mのアクアブリッジを呆気なく駆け抜けてしまう。

 

木更津金田ICに併設されている本線料金所を通過し、丘陵と田園地帯を貫くアクア連絡道を進むうちに、車窓は房総半島の脊梁を成す山並みを映し始める。

山並みと言っても、正式には房総丘陵と呼ばれ、標高300m前後の山々がせいぜいである。

最も高い嶺岡愛宕山ですら標高408.2mで、千葉県の最高峰でありながら、都道府県の最高峰の中では最も標高が低いのだという。

 

バスは木更津JCTで館山自動車道に針路を変えるが、次の木更津南ICで早々と高速道路を降ろされてしまい、エンジンを吹かし直すと、気を取り直したように国道127号線を南に向かう。

 

館山道が最初に産声を上げたのは、平成7年4月に開通した千葉南JCTと姉崎袖ケ浦ICの間である。

同年7月に姉崎袖ケ浦IC-木更津南IC間が延伸されたものの、それより南の区間は、平成15年4月に木更津南JCT-君津IC間、平成17年3月に富津中央IC-富津竹岡IC間がそれぞれ開通、残されていた君津IC-富津中央IC間が完成して全線が開通したのは、着工から実に24年を経た平成19年7月まで待たなくてはならない。

富津竹岡ICから先は高規格の富津館山道路が接続しているが、富津竹岡IC-鋸南富山IC間が開通したのは平成11年3月、鋸南富山IC-富浦IC間が開通したのは平成16年5月であるから、「房総なのはな」号が走り始めた時代には未完成であった。

 

 

バイクや車で房総半島を訪れると、木更津南ICから東京湾アクアラインに向かうのが常であったから、このインターは馴染みである。

首都圏であっても房総半島の高速道路の整備は後回しなのだな、と訪れるたびに思っていたのだが、後に館山道と富津館山道路が延伸して国道127号線を走る機会がなくなると、丘陵ばかりが坦々と続く高速道路に比べて、海沿いを行く国道127号線が懐かしくなったのも事実である。

この時代に「房総なのはな」号に乗っておいて良かったと、今にして思う。

 

房総丘陵が海岸近くまで押し寄せ、海岸段丘や海食崖が入り組んだ海岸線が多い内房のドライブは、下道にありがちな冗長さを全く感じさせない。

山々の合間に覗く入り江には、古びた家々が軒を寄せ合い、釣り船が浮かぶ漁港が垣間見える。

道端に建つ家々の軒先をかすめる狭隘な区間もあり、バスで走るにはいささか鼻白んでしまうような国道だった。

道路脇から切り立った山肌がのしかかって来る場所も見受けられ、連続雨量が200mmを超えると通行止めになります、と標識に書かれた規制区間も少なくない。

 

 

金谷の集落の南にある明鐘岬付近は、うっすらと三浦半島が浮かぶ浦賀水道の眺望が素晴らしいけれども、徳川光圀の「甲寅紀行」に『鋸山の出崎の小なる路を、岸に沿いて通る。明金の内に八町許り難所あり。荷付馬通る事ならざる間、一町半あり』と記された難所であった。

 

このあたりが上総国と安房国の境で、鋸山から伸びる切り立った尾根がそのまま道路の正面を塞ぎ、元名、潮噴、明鐘隧道が掘削される前に国境を越えるのは、相当難儀したであろうと偲ばれる。

落石を避けるためにロックシェッドが隧道間に設置され、1つのトンネルのような構造だが、内部に歩道がなく、路肩も狭くて、歩行者や自転車の通行が全く考慮されていない。

対向車線に大型トラックが姿を現せば、すれ違えるのか、とハラハラするような狭い幅員であるから、歩行者に配慮するどころか、車も自分が通り抜けるだけで精一杯なのである。

昭和の中頃に掘られた国道トンネルには、このような造りが多い。

明鐘隧道の入口には、「トンネル通行者はボタンを押して下さい」と書かれた、信号機でよく見られるような箱形のボタンが備えられ、ボタンを押すと「歩行者・自転車通行中」という電光表示がトンネルの入口に点灯するという。

波打ち際に岬を回る旧道が残っていたらしいが、崩落のために通行止めになっている。

 

明鐘岬の名は、付近の海中から「妙な鐘」が引き揚げられたという沈鐘伝説から転じたと伝えられているのだが、その鐘とは、近くにある日本寺の梵鐘であるらしい。

この梵鐘は、13世紀に鋳物の里であった下野国佐野で製造され、後に鎌倉幕府の執権北条氏が陣鐘として使い、戦乱の最中に海中へ置き捨てられたものと推察されているが、何が妙であったのかは定かでない。

 

 

前年に川崎-木更津間高速バスに乗車した時には、三浦半島の走水から富津岬に渡った日本武尊の伝説が袖ケ浦や木更津の地名の由来になったことに思いを馳せたが、安房国に足を踏み入れれば、もう1人、日本史上の重要な人物が東京湾を横断したことを忘れてはなるまい。

平安時代の末期に、平家打倒の旗を揚げて石橋山で挙兵した源頼朝が追討軍に敗れ、這々の体で真鶴から安房国へ逃れたのである。

真鶴から房総半島南端への渡海ならば、東京湾と言うよりも相模湾の横断ではないか、と思われるかも知れないが、源頼朝が伊豆を脱出する際に、三浦半島の衣笠城に三浦義明が立て籠もって平家の主力を引き付けていたからこそ、成功した逃避行であった。

衣笠城址には、安房へ逃れる源頼朝の船を三浦義明が見送ったという物見岩が、今も残っていると聞く。

 

三浦半島の久里浜港と房総半島の金谷港を結ぶ「東京湾フェリー」は、東京湾アクアラインが開通した後も、営業を続けている。

僕にとっては、学生時代に何度も利用した懐かしい航路であるけれど、車の免許を取得していなかった当時は、金谷港から最寄りの内房線浜金谷駅まで歩いて、千葉方面の電車に乗り継いだものだった。

バスで国道127号線を走るのは初めてだったから、子細に車窓を眺めてみれば、このような土地だったのか、となかなか新鮮な道行きであった。

 

富津市の南に隣接する鋸南町は、浮世絵師として知られる菱川師宣の出身地である。

世界に通じる浮世絵の鮮やかな色彩感覚は、ここの風土が育てたものなのか、と思う。

町内の保田海岸は古くから風光明媚なことで知られ、小林一茶、徳富蘆花、若山牧水、獅子文六らが愛した文人の里であり、明治時代に夏目漱石が訪れた房州海水浴の発祥の地でもあるという。

 

保田、勝山、岩井と海沿いの集落を通り抜け、富山町に入ると、車内に富山町物産センター富楽里と富山町役場の停車案内が流れる。

富山町は、千葉県随一の和牛を産する酪農をはじめ、枇杷、蜜柑、紅梅などを産する実り豊かな町で、「伏姫ワイン」と称する枇杷のワインも名産になっている。

バスが富山町役場の次に停車するのも、とみうら枇杷倶楽部である。

 

 

伏姫とは、江戸時代末期に滝沢馬琴が28年の歳月を掛けて著した全98巻・106冊という我が国の文学史上最大の長編小説「南総里見八犬伝」の登場人物である。

室町時代の後期を舞台に、安房里見家の姫である伏姫と、神犬八房の因縁によって結ばれた八犬士を主人公とする伝奇小説で、冒頭、八房をめぐる奇異な運命に弄ばれた伏姫は、行者の仙翁から譲られた8つの水晶の大玉の数珠を残し、現在の富山町の背後に聳える富山で自害する。

その際に飛散した仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字が刻まれた数珠は、関八州の各地で生まれ育った八犬士に引き継がれ、彼らは運命の糸に導かれるように安房国に結集し、関東の戦乱に翻弄される里見家を救うことになる。

和議が結ばれた後に、八犬士は里見家の8人の姫と結婚、城を与えられて重臣となったが、後に家督を子孫に譲って富山で晩年を過ごす。

 

富山町の名は、「八犬伝」の舞台となった標高349mの富山から採られているが、町の名は「とやま」、山の名は「とみさん」である。

里見氏は館山城を拠点として安房国を治めた実在の大名であるが、「八犬伝の里見氏」として、史実よりもフィクションで知名度を上げた観がある。

 

 

多くの小説・漫画・歌舞伎・舞台・映画などで取り上げられた「八犬伝」であるが、僕らの世代で思い出深いのは、昭和48年から同50年までNHKの人形劇として放映された「新八犬伝」と、昭和58年に真田広之と薬師丸ひろ子の主演で公開された角川映画「里見八犬伝」であろうか。

 

僕は、原作はもとより、映画やテレビでも「南総里見八犬伝」を読んだり観たりしたことがなかった。

幼少の頃にテレビをつけて、「八犬伝」を人形劇でやってるんだ、と思ったことはあっても、いつもチャンネルを変えてしまっていた。

伝奇小説の類いを、おどろおどろしく怖いもの、と子供心に思い込んでいたのかも知れない。

 

昭和53年に、米映画「スター・ウォーズ」の人気にあやかり、東映が「八犬伝」をモチーフにして製作したSF特撮映画「宇宙からのメッセージ」の方が、未見であるけれども興味を抱いていた。

「八犬伝」の8つの数珠の大玉に因んだ「リアベの実」を持つ8人の勇士が主人公となるスペース・オペラで、テレビドラマ「コンバット」や「トワイライト・ゾーン」で知られるビック・モローを起用し、真田広之、志穂美悦子、天本英世、織本順吉、三谷昇、小林稔侍、丹波哲郎など錚々たる俳優が出演していることや、結果として「スター・ウォーズ」に比肩しているとは言い難いけれども、「特撮でアメリカと勝負するぞ」と製作陣が意気込み、当時世界に3台しかなかったシュノーケル・カメラを駆使したという特撮に惹かれたのであろうか。

登場する宇宙人のどぎついメイクをパンフレットで目にした時には思わず仰け反ったけれども、宇宙を行く帆船の映像には、日本のSF映画もやるじゃないか、と心が躍ったものだった。

 

 

12時15分に到着した館山駅では、3分の2近い乗客が降りてしまった。

東京駅からバスで2時間少々とは、内房線の特急列車でも2時間弱の区間であるから、東京湾アクアラインのおかげで館山も近くなったものだと思う。

 

人いきれがなくなり、車内がすっきりした「房総なのはな」号は、雑然と古めかしいビルが並ぶ館山市内を抜け、国道128号線で内房線に沿って内陸に踏み込んでいく。

自分のバイクや車で南房総を走る時には、野島崎を経由する国道410号線を好んで使っていたので、「房総なのはな」号が走る道筋は初体験だったが、せっかく来たのだから海沿いを走りたかったな、と思う。

 

 

バスは、赤瓦の民家のような佇まいの九重駅前から県道187号線に右折して、色とりどりの花畑が並ぶ丘陵地帯を南下し、千倉町に入る。

館山市を取り巻く富浦町、富山町、三芳村、白浜町、千倉町、丸山町は、平成18年に合併して南房総市となり、旧千倉町域の人口が最も多かったのだが、市役所は旧富浦町に置かれたと聞く。

 

 

丘陵地帯を抜けた「房総なのはな」号が、千倉町役場前、千倉町商工会と停車していくうちに、ようやく、青々とした太平洋が砂丘の向こうに顔を覗かせた。

とうとう房総半島の果てまで来たのだな、と嬉しくなる。

 

国道410号線よりも海ぎわを行く県道を、ところどころで建物の合間に顔を覗かせる海を見遣りながら、「房総なのはな」号の千倉から先の経路は、西向きに戻る形になる。

潮風が車内にも吹き込んでくるような海岸の道筋を楽しみながら、広大な芝生の中に土産物店が並ぶ「潮風王国」と白浜郵便局に停車し、「房総なのはな」号が終点の安房白浜駅に到着したのは、定刻の13時を少しばかり過ぎていた。

 

 

簡素な建物と広い駐車場を備えた安房白浜駅は、国鉄バス時代に設けられたバス駅で、白浜から州の崎、野島崎経由で館山を結ぶ北倉線が運行を開始したのは昭和8年まで遡る。
 

昭和34年に北倉線は南房州本線と改名され、僕がたどってきた千倉方面や、安房自然村、豊房、州の崎などを経由する多数の系統が設けられた。

昭和45年には定期観光バス「南房」号が館山駅-天津小湊間で運行を開始し、平成3年には白浜と亀田総合病院を結ぶ外房急行線も登場するなど、南房総一帯は国鉄バス、分割民営化の後はJRバス関東が、地域輸送を一手に担っていたのである。

 

 

ところが、東京直行便「房総なのはな」号が開業する頃と期を一にして、この地域のバス路線の容赦ない淘汰が始まる。

委託を受けて運行していた白浜町内循環バスと、定期観光バス「南房」号が平成14年に廃止され、平成17年には南房州本線豊房系統や千倉系統、外房急行線を館山日東バスに移譲する形で廃止、安房白浜駅に置かれていた営業所も館山営業所に統合された。

 

御多分に漏れず、自家用車の普及が路線バス利用者の減少に繋がったようで、平成26年10月に新宿へ直行する高速バス「新宿なのはな」号が開業し、JRバスは参入していないものの千葉駅へ向かう高速バス「南総里見」号が平成29年11月に登場するなど、意気軒昂としているのは高速バスだけという現象は、今や、我が国では決して珍しいことではない。

 

 

この旅の時代に、南房総の路線バスはかろうじて踏ん張っていたのだが、僕が安房白浜駅で乗り継いだ南房州本線州の崎経由館山駅行きの急行バス「フラワー」号も、普通便と合わせて1時間に1本程度が運行されている利便性にも関わらず、終始がらがらにすいていた。

房総半島最南端の野島崎と、最西端で東京湾の入口に位置する州の崎を巡るバスの旅は、千倉や豊房系統ならば館山駅まで40分程度のところを1時間もかかる大回りになる。

 

それでも、館山以遠の区間における「房総なのはな」号の車窓が少しばかり物足りなかっただけに、塩見、坂田、伊戸といった漁港の鄙びた佇まいと合わせて、大いに満足できるひとときだった。

 

 

館山駅に戻ってきた僕は、内房線の特急列車「さざなみ」で東京に戻ろうと決めていた。

 

首都圏の海水浴のメッカとして、東京から直通する準急列車が内房線に運転されたのも、国鉄バス南房州本線と同様に古く、昭和10年のことである。

昭和25年の7月と8月に、土・日曜日運転の臨時快速「汐風」が両国-館山間で運転を開始し、昭和27年に運転区間が新宿駅まで延長されて、夏季限定の季節列車でありながら毎日運転の「さざなみ」と土曜日運転の「夕凪」、日曜日運転の「汐風」と、本数も増えた。

昭和30年に初の定期快速列車が運転を開始し、平日は千葉発、休日は新宿発で、朝に新宿もしくは千葉を発車し、木更津-館山-安房鴨川-大網-千葉と房総半島を反時計回りに1周した後、午後に千葉から逆経路で戻る循環列車になっていたという。

昭和33年には、総武本線経由の両国-銚子間の準急「犬吠」を「房総」と改称し、外房線経由安房鴨川行きと内房線経由館山行きの車両を併結している。

昭和34年には準急「房総」を「京葉」に改称、新宿から銚子に向かう編成と、新宿から内房線・外房線で房総半島を1周して新宿に戻る編成、そして逆回りの編成を併結した準急を登場させ、こちらを「房総」と名づけている。

 

運転系統も列車名も実にややこしい変遷をたどり、常連客でも乗り間違えるのではないかと心配になってしまう。

当時の国鉄は深刻な車両不足に悩んでいたと言われているから、多方面の編成を併結させる多層列車が全国で少なからず見られた時代だった。

 

 

昭和37年に、このような多層列車が整理され、新宿と外房線経由で安房鴨川を行き来する準急が「外房」、内房線を館山経由で安房鴨川を行き来する準急が「内房」と改められたが、安房鴨川で列車名を入れ替える循環列車も存続した。

昭和38年に新型の気動車キハ58系を使用した準急「さざなみ」が内房線経由の両国-館山間で運転を開始、外房線経由で両国-安房鴨川-館山間を結ぶ同系車両の準急「くろしお」も登場して、両国-千葉間で併結運転を行っている。

昭和40年に「さざなみ」を「内房」に統合、昭和41年に急行へ昇格する。

昭和42年に急行「内房」の循環運転を行う列車を「うちうみ」に改称、昭和43年には「内房」と「うちうみ」が急行「うち房」に統合された。

 

この年、房総地区の海水浴輸送人員が約1200万人とピークを迎え、昭和44年に木更津-千倉間の電化により「うち房」が電車化された一方で、外房線が未電化であったため、循環運転は廃止された。

昭和46年に千倉-安房鴨川間が電化され、急行「うち房」が安房鴨川まで延長される。

 

 

昭和47年に総武本線が東京駅に延伸され、総武快速線が開業すると同時に、183系特急用車両を使用した特急「さざなみ」が内房線経由で東京-館山間に、同じく特急「わかしお」が外房線経由で東京-安房鴨川間に登場する。

同時に外房線が電化されて急行電車による循環運転が再開され、反時計回りに内房線から外房線に入る急行が「なぎさ」、逆回りの急行が「みさき」と命名され、急行「うち房」が廃止された。

 

以前の外房線には大網駅でスイッチバックがあり、房総を1周する循環運転は列車の前後が2回入れ替わり、東京に戻ってくる際に列車は元の向きに戻っていたのだが、大網駅でのスイッチバックが同じく昭和47年に解消されたため、循環運転を行うと、行きと帰りで東京と千葉の間は列車の前後が入れ替わることになった。

急行用車両は東京-錦糸町間の長大な地下区間で採用されている自動列車制御装置(ATC)を搭載していなかったため、東京駅に乗り入れできず、「なぎさ」も「みさき」も新宿または両国発着となっていた。

 

僕が子供の頃の鉄道書籍では、房総を1周する特急電車がどうして運転されないのか、というクイズをよく見掛けた。

総武本線の東京-錦糸町間の地下区間に設置されたATCに対応して、「さざなみ」「わかしお」に投入された183系特急用車両では先頭車両にATCが取り付けられていたため、逆向きの編成で走らせることが出来ない、というのが正解であったと記憶している。

 

ならば、最後尾の車両にもATCを取り付ければ良い話ではないか、と素人としては首を捻ってしまうのだが、安全面だけではなく、列車が逆向きになってしまうのは大ごとなのだろう、と納得するしかなかった。

おそらく、末端区間である館山と安房鴨川の間の利用客が減少し、車両を改造してまで循環運転を行う需要が見出せなかった、というあたりが真相ではないだろうか。

昭和50年に急行「なぎさ」「みさき」の循環運転が再び廃止され、内房線を走行する急行は「内房」、外房線の急行は「外房」の愛称が復活したのだが、昭和57年に房総地区の急行列車は全廃された。

 

 

平成3年の「成田エクスプレス」の運転開始に先立って、「さざなみ」と「わかしお」は総武本線から追いやられるように京葉線経由に変更される。

平成5年には、一部の特急列車に新型特急用車両255系を投入するなどといった梃入れが行われたものの、平成10年をもって、首都圏の夏の風物詩だった海水浴客向けの「房総夏ダイヤ」が終了する。

平成17年には特急「さざなみ」の日中の列車が臨時列車になり、平成27年には朝夕の館山直通列車も廃止されて、「さざなみ」は平日の全列車が東京-君津間に短縮されてしまう。

その代替として、平日に東京-館山間の特別快速列車が1往復新設されたものの、平成29年には姿を消し、東京・千葉-館山間の輸送は高速バスに全面的に移譲した形になった。

 

現在、特急「さざなみ」は東京-君津間で上り列車が朝に3本、下りが夕方に5本運転されているだけで、しかも全列車が土・日曜日と祝日に運休する通勤列車のような有様である。

外房線の特急「わかしお」も、「さざなみ」と同様に衰退傾向が見られたが、それでも東京-安房鴨川間に6往復、東京-勝浦間に4往復、東京-上総一ノ宮・茂原間に2往復が運転されているので、「さざなみ」に比べれば踏ん張っている方であろう。

 

東京湾アクアラインと館山道開通後の房総特急の凋落は、まさに栄枯盛衰を地で行くような惨状であるが、房総地区での海水浴客が減少傾向となり、その海水浴客も自家用車や高速バスに移行したことが大きな要因なのだろう。

 

 
子供の頃から時刻表に親しんで来た者としては、房総半島を1周する循環列車をはじめとする往年の列車の数々は、こよなく懐かしい。

東京に出て来たばかりの頃、機会があれば首都圏の線区を乗り潰していた僕は、東京駅から特急「さざなみ」で館山に向かい、普通列車で安房鴨川に足を伸ばしてから、外房線経由の特急「わかしお」で東京に戻るという房総1周の旅を試みたことがある。

循環急行列車が存続していれば、僕は喜んでそちらを選んだことだろう。

 

平成30年に職場の旅行で南房総を訪れたことがあるけれども、その計画段階で、

 

「房総って鉄道が不便なのよねえ」

 

と幹事が嘆いていたことを思い出す。

年に1回、定期的に開催されていた職場旅行は、何処に行くにしても、目的地へ向かう列車が発車する駅のホームに集合するのが常であった。

しかし、宿泊地が館山では高速バスを利用する以外の方法は見当たらず、幹事も諦めたように、

 

「館山行きの高速バスは東京駅と新宿駅から出ていますから、どちらに乗るのか決めて下さい。時間が判れば予約を取っておきます。夕食の時間までに宿屋に集合することにしますので、車で来てもいいですよ」

 

と、匙を投げてしまったのである。

 

 

確かに、高速バスは団体旅行向きではない。

特急列車を利用すれば、さすがにどんちゃん騒ぎは遠慮するものの、発車の直後にビールやおつまみが配られて車中から旅行気分を味わえるのだが、高速バスでそのような行為は憚られる。

職場は新宿駅が便利な立地であったが、自宅が東京駅に近い職員も少なくなかったので、その点、高速バスは鉄道よりも選択肢が増えて便利になったと言えるのかも知れない。

 

結局、僕は車にしたのだが、週末の東京湾アクアラインは、下りが多摩川トンネルからアクアトンネルにかけて、上りが木更津金田ICを先頭にアクア連絡道から大渋滞を呈しており、高速バスが主体となった東京-館山間の行き来は本当に便利になったのだろうか、と首を傾げざるを得なかった。

 

平成26年に、館山市長と商工会議所、観光協会の代表が「高速バスと比べ、鉄道は大量輸送や定時性確保で優位に立っている」として、JR東日本千葉支社に館山まで直通する特急「さざなみ」の復活と通勤・通学時間帯での特別快速の増発を求め、館山市議会も同年12月25日に特急の存続を求める意見書の提出を全会一致で採択、平成27年と同28年にも沿線自治体の代表が「内房線の利便性が低下した」と同様の要望書を提出しているが、JR東日本千葉支社長は「『さざなみ』は利用者が減少しており、利用状況を鑑みたうえでの判断」と応じただけであったという。

沿線住民としては、多客期に顕在化する東京湾アクアラインの渋滞と高速バスの遅延の常態化を危惧し、切実な声を上げたのであろうが、JR東日本としては通年で需要が見込めない特急列車を館山まで走らせる意義が見出せず、そのせめぎ合いと言った態を見せている。

 

国鉄を分割民営化した時点で、僕らの国の政府や国民は、地域の利便性や振興策よりも、膨大な負債を生じることのない、収支を重視する鉄道への転換を選択したのだから、このような事態は当然予測されたことであろう。

「中央高速バス」が開業して競合する急行列車が廃止を余儀なくされた信州の飯田線のような例はあっても、高速バス路線と並行する特急列車がここまで衰退した線区は、全国でも珍しいのではないだろうか。

特急列車も高速道路も欲しい、と主張する地方は少なくないけれど、収支が両立するとは限らない。

僕自身は、特急「さざなみ」の問題は、鉄道会社だけにその責を負わせる類いのものではなく、過疎地域における交通政策をどうするのか、政治の問題なのだと考えている。

 

平成11年に「房総なのはな」号を初乗りした当時は、東京湾アクアラインは高額な通行料金が災いして渋滞が発生するには程遠い通行量であったし、木更津金田ICに渋滞の原因となるようなアウトレットも存在せず、数年後に高速バスが特急列車を駆逐してしまうような事態は想像も出来なかった。

 

それでも、僕が特急「さざなみ」に乗って内房線の車窓を満喫したのは、この旅が最後となったのである。

 

 

 

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