vol.373 春の九州2021【蔵出し追加編③】球磨の要衝 甦る人吉(球磨川水害復興応援) | 旅ブログ Wo’s別荘

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梅雨も明け、猛暑の日々ですが、当別荘はまだ”春の九州”をやっております(汗)あせる

私事が多々重なり、編集が大幅に遅れているためですが、まぁコロナ禍で新規の取材が難しい昨今でもありますので、間隔調整的にはちょうどいいかなとも(言い訳w)ガーン

 

春の九州追加編、4作シリーズ中、前作で前半の佐賀県を終え、今作から後半・熊本県に入りますクマ

 

春におおくりした九州シリーズでは熊本市等をご覧頂きましたが、今作・次作では県南部の街をみていこうと思います。

今作は、球磨川流れる南九州の要衝・人吉市を訪ねます。ではスタートですグッド!

鹿児島本線・新八代駅電車

ここが今作のスタート・ゴールです。というのは、ご存知の通り、人吉市のある球磨地方は昨年の水害で大きな被害をうけ、人吉へ通じる鉄道・肥薩線が今も不通になったままです。そのため今回は、新八代駅から高速バスで人吉へ入ります。

↑新幹線・新八代駅新幹線

↑在来線駅と隣接してますが少し離れていて、連絡改札がなく、乗換は一旦改札を出てからとなりますリサイクル

新幹線駅のコンコース、売店・待合室あり、駅前にはビジネスホテルもあってそこそこ便利おひなさま

くまモンが持っているのは”打上げ花火の球”打ち上げ花火

八代は九州随一の花火大会・やつしろ全国花火競技大会の地です。球磨川の河川敷で毎年行われるんですが、今年は残念ながらコロナ禍のため中止との事です・汗

駅に架かっている油絵、ご当地出身の歌手・八代亜紀さんの作品ですアート

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そして・・

これから乗る、高速バスが駅前に入ってきました馬

『B&Sみやざき号』です。新八代駅~宮崎駅間を結ぶ路線で、途中で人吉ICに停車します。JR九州バス・産交バス・宮交の3社で運行していますバス

肥薩線が不通のため、現在人吉へ公共交通で入るにはこれが唯一の足です・

八代ICから九州道へDASH!

川を越え、トンネルを越え、快走する高速バス馬

新八代を出て、約40分で~

人吉IC停留所到着

ここから市街地まで約2kmですあせる

高速出入口が国道とのT字路になっています

インターから市街地まで路線バスもあるんですが、本数少ないため、とりあえず駅まで歩きますあせる

しばらく歩くと、JRの踏切が・目

肥薩線の踏切ですが、前述の通り昨年の水害のため不通となったままです。

1年近く列車が走っていない線路は、錆びが目立っていました。まずは駅へ行って、僕としては一番気になる鉄道の現状をこの目で確かめに行きます・(※↑写真は踏切上から撮影)

駅が近くなってきましたヒツジ

駅前通りを曲がると~

やってきました、人吉駅ですキラキラ

↑わりと新しそうな駅舎に写ってますが、僕が前回来たウン十年前と同じ駅舎で、情緒ある駅名の字体もそのままで懐かしく感じました。しかし前述のように、現在この駅から列車は発着していません。

春掲載のシリーズで由布院駅を訪れた時と同様、駅窓口は開いていて指定券等は発売していますクローバー

なお肥薩線では代行バスは運転されていません。並行する道路も大きな被害をうけ運行が困難との事で、なので今では先程乗ってきた高速バスが唯一公共的な足という事になっているんです・

(※一部区間でタクシーによる代行あり)

国鉄文字の案内板が残る待合室

コインロッカーが待合室内にあるんですが↑、テープで封印され使用不可となっていました・

駅の片隅にあった↑、記念スタンプ台

なんと、肥薩線不通区間の6駅のものを集めてきていました。ループ線で有名な大畑駅や”必勝の駅”で一時ブームになった一勝地駅など名物駅のものもサーチ

思わず全部押しましたwあせる

-・-・-

そして人吉駅には、もう一つ「駅」があります。

その駅は~

JR駅の隣に、第3セクター・くま川鉄道の駅があります電車

くま川鉄道の駅名は、『人吉温泉駅』です温泉

肥薩線人吉駅から湯前駅に分岐する同鉄道、1989(平成元)年に国鉄湯前線から3セク転換されました。しかし現在、JR肥薩線同様、水害被害のため長期運休になったままです・

閑散としたホームのむこうには、くま川鉄道のDCが留置されているのが見えます。駅の西側へ行くともっと見える場所があるので、移動します目

駅の西側へ行くと~

くま川鉄道のDC、エンジンがかかっていました。運休中も車両のメンテを車庫で行ってますDASH!

そしてその横には↑、古い機関庫が見えます。これは~

人吉機関車庫ですキラキラ

1911(明治44)年築、開業当時から110年間使われ続け、現在も車両留置等に活用されています。

石造の鉄道機関庫として日本で唯一、現役のものです(※近代化産業遺産・九州遺産指定)

柵の外から見てても、重厚さが伝わってきて圧倒されました星

機関庫が見える柵には、肥薩線やこの人吉駅の概要についての解説板がありました。それによると~

↑図の通り、肥薩線は八代駅から鹿児島駅まで、九州の真ん中をなるべく直線的に南下するよう敷設されました。地図で見てもらうとわかりますが、現在の鹿児島本線は八代から川内~出水方面へは西へ膨らむような地形に合わせて走っていて、この肥薩線が当初は鹿児島本線として開通しました(※1909(明治42)年開業)

 

余談ですが、九州自動車道が肥薩線と似たルートで建設されたのも、川内~出水の浜廻りより距離を短絡出来るからです車

 

急峻な山岳部を越えるため、大畑(おこば)駅付近には日本初のループ線とスイッチバック線を併用する等、当時最新の技術を各所に駆使し、これにより青森~鹿児島を貫く日本の動脈は完成したんです。(※八代~川内~鹿児島の浜廻り鹿児島線が全通したのは後年、1927(昭和2)年で、それと同時に人吉廻りは肥薩線と改称された)

 

肥薩線の、この知られざる輝かしい過去が近年ようやく脚光をうける事となり、2017年、『日本の20世紀遺産20選』に肥薩線のほぼ全線に亘って点在する、駅やトンネル、ループ線等の歴史的施設が指定されました虹

静まり返った駅で歴史の重みに接し、改めて、一日でも早い復旧を願うばかりです・

駅前には、昨年の水害で被災されたお店が集まって設置した仮店舗『モゾカタウン』があります(※食事できるお店多数)ナイフとフォーク

 

・ではこれから、水害から復興をすすめている、人吉の街を歩いてみます走る人

(※これ以降、水害被害に関する写真、記述があります。ご了承下さい)

駅前通りを球磨川のほうへすすむと↑、「青井阿蘇神社」の標識、まずはここへカメ

立派な標柱のむこうには・

鳥居の前に太鼓橋が架かっていたんですが、なんか様子がおかしい・・

昨年の水害被害がそのままでした。太鼓橋は今だ復旧しておらず、通行止のままでした。本殿等が国宝に指定されている、人吉きっての神社でこの現状なので、人吉の街がうけた被害がいかに大きかったかが窺えます・

一方、楼門や本殿は僕がみた限りでは無事のようでした・

楼門も国宝指定です星

江戸初期、当地を支配した藩主相良氏初代、相良長毎らにより発願され建立と伝わります。

球磨川が見えてきました

僕が訪ねた日は穏やかに流れていた球磨川ですが、一たび大雨が降ると、洪水を引き起こす暴れ川となってしまいます。

川沿いには旅館や民家等が建ち並んでいますが、まだ1階部分が浸水した被害そのままの建物も少なからず見受けました。

球磨川に架かる”大橋”。市街地に3本架かる橋の一つですが、欄干が流木で傷んでしまったようで、現在も復旧工事が行われていました。この橋を渡ると、人吉城址です。

大橋のたもとにある↑、”五木の子守唄の碑”

碑には、あの有名な、哀愁ある歌詞が刻まれています(※歌詞は地域により異なるそうで、約70種あるそうです)

大橋を渡って、人吉城址とその周辺を訪ねます走る人

度々水害を起こすとは思えないほど、普段は穏やかな流れ

この大橋には、途中で中島(中川原公園)に降りられる階段があるんですが、河原やこの階段も大きく損傷していて閉鎖中でした。

球磨川を渡ると、城跡が見えてきます。

この後行きますが、その前に周辺を少しブラっとします走る人

当地名産、球磨焼酎を醸造する会社が点在します(※一部見学できる社もあります)お酒

なんともレトロな銭湯を発見!

昭和の雰囲気満点^温泉

人吉といえば温泉郷としても有名ですが、この銭湯も天然温泉のようです。掲げられている↑成分表、なんと1958(昭和33)年に分析したものあせる

お、武家屋敷が・

見学してみます目

この屋敷の門↑ですが、人吉城の「堀合門」を当家が譲り受けて移設したもので、人吉城の建造物で唯一現存するものだそうです(※人吉市文化財)

この屋敷、人吉城主相良氏の重臣だった新宮氏の邸宅だったとの事。

隠し階段や「切腹の間」等、武家屋敷の様式を今に伝えます

現在個人のかたが管理(ご子孫かどうか不明ですが)されて見学に供しています。資料が邸内に多数あって解説もしてくれるほか、映像コーナーもありましたテレビ

庭園が大変立派で、京都から庭師を招請してつくらせたものだそうです。なお当新宮家屋敷は西南戦争の際、西郷軍の宿舎として使われ、そのため明治政府軍に焼き払われてしまったとの事。現在の屋敷は明治12年に近隣の屋敷を移築してきたものです。

 

武家屋敷の近く、T字路の突き当りに↑お寺の門がありました。

次はここへ寄ります

永国寺(曹洞宗)

このお寺、西南戦争時は人吉攻防の際、西郷軍の本営となった場所という歴史を秘めています本

↑西郷軍本営跡の碑

1877(明治10)年、田原坂の戦いで敗れた西郷軍はここ人吉まで敗走してきました。既に人吉城は廃城令で取り壊されていたため当寺に本営を設置。明治政府軍に必死の抵抗を試みましたが西郷軍に戦利なく、再び加久藤峠へと逃れたとの事(※現地看板による)

同寺はこの戦闘により全焼し、現在の堂宇はその後再建されたものです・

歩くうち少しづつ、歴史の中へと引き込まれていくような人吉の街です・

 

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次はいよいよ、人吉城址へ・

櫓等が一部再建され、各所に解説板が設けられて維新前後に撮影された原形の写真と対比できるようになっていますカメラ

球磨川の支流↑、胸川を渡って城跡へ入ります

当地を支配していた相良氏の居城・人吉城

同氏は鎌倉時代~幕末まで実に700年近くも球磨地方に君臨していたとの事。封建時代といえ700年も勢力を維持してきた相良家、その時代時代に応じて薩摩の島津家や江戸の徳川家とも微妙な関係を維持し、独特のバランス感覚で家督を守ってきたんでしょうね・

城跡では、水害復旧と再整備を兼ねた工事が行われていました

近年オープンした城の資料館もあるんですが・・

災害とコロナ禍のダブルパンチで、休館中でした汗

本丸があった小高い丘がみえてきました

本丸跡まで歩いていきます走る人

石段を登っていくと~

本丸跡の広場へ出ました霧

本丸跡にあった↑の解説板によると、ここに天守は造られず、護摩堂が建てられたとの事。ひとつ上の写真にある礎石はその護摩堂跡のものです。解説板にある「宗教的空間として利用されていることに特色がある」との文言が興味深いサーチ

本丸跡から俯瞰する球磨川と人吉市街地目

同城は一名「繊月城」という美しい名を持ちます。ここから眺める三日月は絶景だったんでしょうね・お月様

城跡でますます人吉の歴史に引き込まれたところで、街中へと戻ります・虹

水の手橋から再び市街地へ(※城跡が南側、市街が北側)

与謝野晶子・寛夫妻の歌碑を見つけました。ここは・

人吉の有名旅館のひとつ、鍋屋本館さんの前です

1932(昭和7)年、与謝野夫妻はここに投宿し、ロビーにあった画帳に歌をのこして行ったとの事クリップ

鍋屋本館さんも球磨川沿いに位置し、このあたりもまだ復興途上にあります・

旧市街の路地へ入りこんでみますカメ

先程城跡の近くで球磨焼酎の蔵がありましたが、ここには味噌・醤油をつくっている蔵がありました。見学できるとの事で、寄ってみます・

釜田醸造所さんです。古民家のような玄関ですが、うなぎの寝床のように奥行があるんですとかげ

「見学コース」とありますが・・

なんか、民家の軒先へ侵入している(笑)ような感じ・・w

中は、「まさに製造現場」そのもの、見学コースというより、職場におじゃましているという状況あせる

醤油工場といえば、過去作では19年7月upの「野田ツーリング」(vol.317)で訪ねたキッコーマンの工場が記憶に新しいですが、大手の工場のカッチリした見学コースと全然違う、臨場感満点の見学^

さらに奥へすすむと~

梱包された製品が積んであります

味噌・醤油とも種類豊富で、「マルカマ」ブランドで全国へ出荷されますかたつむり

製品や製造工程の特徴を解説する掲示もありましたメガネ

↑の「熊本みその特徴」、信州味噌や八丁味噌との対比も紹介しながら特徴を説明していて大変わかりやすい。

あ、そういえば八丁味噌も過去作「東海道53次シリーズ・岡崎」で見学したのを思い出しました(vol.301  19.1.12up)

製品サンプル展示に、なぜか東京五輪のマスコットが・・ナゾの人

なかなか興味深い見学でした目

勿論即売コーナーもあります。僕は醤油を買って帰りましたが、九州醤油独特の濃厚さ、しかし鹿児島の醤油のような甘みは強くなく、素朴な香りがして料理とよく合いますグッド!

釜田醸造所さんの近くで、↑の碑を見つけました

「ウンスンカルタ」って?

16世紀、来日したポルトガル人によって伝えられた「かるた」、その後日本各地で様々な形で進化し、現在も日本の遊びとして楽しまれてますが、ウンスンカルタもその一つですが、江戸期の寛政の改革で遊興が禁止されて以降廃れていました。しかしここ人吉だけで密かに伝えられていたとの事で、現在熊本県の無形文化財にも指定され、遊戯法の継承に努めているとの事です・

再び人吉駅の近くへ

球磨川の鮎を扱う会社もあったりしますうお座

支流の川岸に、↑の看板が立っていました。タイトルには・

「忘れないで、やさしい球磨川にひそむ、もうひとつの顔」

まさにその通りで、今作これまででご覧頂いた通り、昨年の水害の被害は甚大です。何より鉄道が全線復旧の見通しが立たず、代替バスも走らせられないという深刻な現状。この看板は主に1965(昭和40)年の大水害の教訓を伝えるものですが、今後地球温暖化に伴い、さらに重大な水害が今後ないとも限らず、心配です・

(※現に今年も、九州南部に線状降水帯が発生して大雨が降りましたよね・)

また、コロナ禍の影響は人吉でも勿論重大で、シャッターの降りたままの店舗も多数見受けました。五輪の予算が当初の設定を大幅に越え約7兆円にも達するという事ですが、国はもうちょっと税金の使い方をどうにかできないのか、と地方を訪れる度いつも思います。

時間がきました。名残惜しいですが、高速バス停まで戻りますリサイクル

夕方の新八代行に乗車、人吉をあとにします・

 

いかがでしたでしょうか、本来なら『歴史も深く風光明媚な街!』として華々しく紹介したい人吉ですが、水害とコロナ禍で微妙な感じの街ブラとなりました。しかし復興に頑張る街の姿にもふれ、歴史スポットは以前のままだった事もこの目で確かめる事が出来、元気ももらいました。繰り返しですが、肥薩線とくま川鉄道の一日も早い復旧を願うと共に、国土の要衝でもあるこの人吉・球磨地区に東京の政府も少しは目を向けてほしいなぁと・・思うのみです・

 

次作でシリーズ4作目、最終章です。熊本県南部、もう1ヵ所の街をピックアップします。ようやく編集にマキがかかってきました(汗)あせる

 

(※肥薩線ですが、鹿児島県側の吉松~隼人間は部分運行しています)