前回の記事では夏休み恒例の快速列車「くじらなみ」の走行写真をまとめた。

今回は「くじらなみ」の運行形態がどのように変貌したか、手元にある時刻表を手掛かりにだどってみたい。
 

まず、1980年夏。信越本線上り。長岡から柏崎方面。

 

 

 

この当時の「くじらなみ」は2往復。「くじらなみ1号」と「くじらなみ3号」が表示されている。

1号は高崎発で、3号は熊谷発。高崎辺りを6時台に出て、上越線を下って長岡に到着。進行方向が逆向きになり信越本線を柏崎方面に向かい、鯨波に10時前後に到着。

午後は鯨波を15時台から16時台に出て、高崎辺りには19時台に着いた。その後の「くじらなみ」も大体このパターンであった。
行き先は潟町と米山になっているが、これは鯨波駅では折り返しができないため、その先の駅で待避線が使える駅が終点になったと思われる。


この当時の「くじらなみ」は7月下旬から8月上旬は毎日運転されていた。当時は関越道も北陸道も開通しておらず、車より「くじらなみ」の方が早く着いた。実際、私の家族が柏崎へ海水浴へ行くとき、父の運転する車で国道をひたすら走り、5時間くらいかかっていた。


それと、普通車指定席とグリーン車のマークが表記されている。これは当時の上越線の急行列車「佐渡」や「ゆけむり」などで使用された165系急行型車両を転用しているのだろう。

 

 

 

 


次は1986年夏の時刻。
1980年と比較して、運転時刻、運転期間、運転区間などはほぼ同じ。異なるのはグリーン車の表示が消えたこと。

1986年といえば国鉄民営化の1年前で、上越新幹線が上野と新潟を結び、上越線の昼間の急行列車はすべて廃止された。165系の編成からグリーン車が外され、普通車だけの短い編成に組み換えられ、群馬県内各線の普通列車に転用されていた時代だ。
ちなみに私の家族が「くじらなみ」に乗ったのは1985年。この時刻表の「くじらなみ1号」とほぼ同じ時刻であった。


その後、1990年代になると、私の家族も柏崎へ海水浴に行かなくなった。90年代は「くじらなみ」と鯨波海岸とは最も疎遠な時期であった。

 

 

 

 


次の時刻は2002年夏の上越線下り。この頃の「くじらなみ」は週末のみ運転されている。

2往復のうち、1本は両毛線の桐生が始発。列車名も「マリンブルーくじらなみ」となり、車両は183系特急型車両であった。


2003年には海水浴ではなく、新潟県内のローカル線を旅する時に「くじらなみ」を利用した。ビーチサンダルをはいた家族連れが浮き輪を持っている姿を列車内に見た時、自分の少年時代を思い出し、感慨深いものがあった。

 

 

 

 


越後湯沢駅で、特急「はくたか」、ほくほく線直通の普通列車と並ぶ快速「くじらなみ」。

 

 

 

 

 


次は2006年夏。この時期になると「くじらなみ」は1往復となった。

運転日も土日だけになり、ずいぶん細々とした感じになった。

もっとも90年代に関越道が全線4車線化されてから、群馬県民が新潟の海へ行くのは高速道路が主流になっていた。「くじらなみ」が縮小されるのは必然的な流れだったと思う。


そして、2010年夏、鯨波で「くじらなみ」の走行写真を撮影した。その時はまだあと何年か「くじらなみ」も運転されると思っていたが、その夏限りでひっそり消えてしまった。