銀座へ、地下鉄が集う~1964年の地下鉄事情 | 書斎の汽車・電車

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 前回は、東京オリンピックと都電のお話をしました。それを受けて今回は、昭和39(1964)年、東京オリンピックの開催された年における東京の地下鉄事情を振り返っておこうと思います。落日の都電に対して、主役に踊り出しつつあった地下鉄のお話ということになります。

 

 まず、昭和39(1964)年初めの東京の地下鉄はというと、営団地下鉄が、戦前に開通した銀座線(浅草~渋谷)、戦後開通の丸ノ内線(池袋~新宿)、その延長線である荻窪線(新宿~荻窪、中野坂上~方南町・のちに丸ノ内線に統一)、日比谷線(北千住~東銀座)がすでに開業していました。一方都営地下鉄線(現在の浅草線)は押上~新橋が開業していました。

 

 オリンピックイヤーの新線開業はというと、まず3月25日、日比谷線の霞ヶ関~恵比寿が開業します。この時点では新規開業区間は「離れ小島」のような存在でした。これは、東銀座~霞ヶ関に並行するように地下自動車道路の計画があり、この計画との調整に手間取ったからといわれています。

 7月22日、日比谷線は恵比寿~中目黒が開通、東急東横線とつながります。ただ、この段階では東急線との直通運転はしていません。また、この時から一部列車が6連化されています。

 8月29日、日比谷線東銀座~霞ヶ関が開業、日比谷線は全通しました。この日から、すでに行われていた東武線北越谷までの相互直通運転に加え、東横線日吉までの相互直通運転も始まりました。日比谷線は、とにかくオリンピックに間に合わせるために、突貫工事で完成したといわれます。例えば、三原橋と日比谷の間は、夜間通行止めにするなどの措置がとられました。

 

 日比谷線には銀座駅が設置されましたが、この駅、既存の銀座線銀座駅と、丸ノ内線西銀座駅をつなぐ形で設置されました。日比谷線の駅が、若干離れていた銀座線と丸ノ内線の駅を一つにしたのです。これにより西銀座駅は銀座駅と改称しました。俗にいう「銀座総合駅」の誕生です。

「銀座総合駅」誕生を祝う『メトロニュース』17号(昭和39年8月)の表紙です。

その中身です。「銀座はメトロセンター」とあります。

 

 9月18日には、既存の荻窪線新中野と新高円寺の間に、東高円寺駅が開業しています。この駅、比較的駅間が長く、並行する都電杉並線廃止後は不便になっていたことから、この年の1月着工、完成予定を1か月前倒しして、これもオリンピックに間に合わせたのでした。

 

 10月1日、新幹線開業の裏でひっそりと(?)、都営地下鉄線(現在の浅草線)新橋~大門が開業しています。この線の全通は4年程後になりますが、この区間に関しては、ぎりぎりオリンピックに間に合う恰好になりました。

 

 このように、東京の地下鉄は、オリンピック開幕までに、曲がりなりにも銀座を中心とする路線網を完成させたといえるでしょう。営団の3路線は「銀座総合駅」に集い、都営線も東銀座を通っています。そして、オリンピック閉幕後初の新線開業となる営団東西線は、この年の暮れ、12月23日に高田馬場~九段下で営業を始めますが、この線は銀座を通りません。以後の新線建設は、この東西線をはじめ、営団千代田線、都営6号線(三田線)、営団半蔵門線など、大手町を中心とする路線網の形成に移っていきます。(銀座を通るのは営団有楽町線くらいです)

 

 オリンピック終了後、当時の東龍太郎東京都知事は、記者から今後の都政のビジョンを訊ねられて、逆に「何かあるかい?」と問いかけています。(今なら炎上必至の発言でしょう)東知事の発言はともかく、東京の地下鉄については、銀座中心から大手町中心へと、次の時代の確たる目標があったといえるでしょう。