住友別子鉱山鉄道上部線
明治26年開業、明治44年廃止
5月9日、魔戸の滝登山口から
種子川造林道を迷いながら辿り
西種子川源流まで詰めて、
兜岩でアケボノツツジを堪能
帰路は、本来ならば石ヶ山丈尾根ルートで
パジェロデポ地点の魔戸の滝駐車場を目指すところですが
予定より2時間も遅れており、薮尾根との情報もあって
下りの尾根で支尾根に迷い込んだら日が暮れてしまいます
魔戸の滝へは少し遠回りになりますが
今回は何度か辿った事のある上部鉄道跡経由で下山する事にします
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こんにちは(≧◇≦)
お立ち寄り下さりありがとうございます
現在の時間は15時24分
2週間前に東平から上部鉄道の一本松駅経由で兜岩に登った時には
上りですが、一本松駅から兜岩・西赤石分岐が30分、分岐から兜岩まで80分を要しました
今回は下りなので兜岩から一本松駅までを80分としても
上部鉄道の終点(始発駅?)だった石ヶ山丈停車場跡までなら140分は必要かな?
更に石ヶ山丈沈砂池経由で藪尾根を下って牛車道分岐まで180分
牛車道、林道石ヶ山丈線、西種子川線で魔戸の滝駐車場まで30分で210分
19時にはパジェロ迄戻れるかなといったところでしょうか
急がないかん
真っ暗になるぜよ(;'∀')
東平からの兜岩・西赤石への近道として知られるこのルートは
上のGPSトラックログを見て頂くとわかるけど
七釜谷と裏谷の間の尾根から途中で
左の尾根に乗り換える巧みなコース取りしてる
この尾根とはここで
ヒカゲツツジとミツバツツジ
道なりのルートは崩落か何かで通れなくなって
迂回ルートが出来たのかな
前回はテープが切れてて
迷い込む人が居ないかと心配したけど誰かが繋ぎ足してた
ミツバツツジもアケボノツツジに負けずにいい感じ
この石積みはこの周囲だけです
上部鉄道の上側を平行に通っている牛車道を横切ります
上部鉄道との並走区間は誰も歩く人がいないので
樹木が茂ってるけど石積みだけはしっかり続いてる
上部鉄道の兜岩・西赤石分岐まで50分で下りました
上りの80分より30分も速いけど・・・
人並よりは遅いかも
途中で私より年配のおっさんにも抜き去っていかれたもんね~
2本持参していた500mlのペットボトルのうちの1本が
魔戸の滝登山道の急登の途中で千尋の滝壺へと落下してしまい
水場は西種子川源流付近の沢しか無いけど
その時には残った1本も未開封で、空のボトルも無くて汲むことも叶わず
ここから石ヶ山丈停車場跡までの上部鉄道の軌道跡が
喉が渇いてた為か、かなり長く感じたよ~
この分岐から上部鉄道跡を反対側の角石原方面にむかうと
最大の遺構である唐谷の三連橋があります
探訪日 2021年4月25日
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廃止から今年で110年
ここから上部鉄道の廃線跡を石ヶ山丈停車場跡まで辿ります
JR新居浜駅が誕生して今年で百年ですが
国鉄予讃本線の新居浜駅が平野部に開業するより28年も前に
こんな急峻な山岳地帯に鉄道を敷設し
別子銅山の大動脈路として
蒸気機関車による輸送が行われていたのは驚くばかり
「石ヶ山丈と角石原との間には、十八分の一の勾配を有する鉄道を布設す、此長さ三哩三十五鎖、屈曲百三拾壱、其最短半径五拾尺なり、平均三列車にて、一日各八回宛往復す」
住友別子鉱山史・別巻 より
住友金属鉱山株式会社 住友別子鉱山史編集委員会 1991(平成3)年発行
住友別子鉱山史によると
上部鉄道は、全長5,532mで平均斜度1/18
橋梁が22箇所そして、カーブが131箇所
標高835mの石ヶ山丈停車場から1,100mの角石原停車場までを
機関車3台が交代で貨車4~5両を連結して時速12kmで1日8往復づつしてたそうな
「屈曲百三十三回におよぶ嶮峻の岨路であった」と書かれている
ちょっと数字が一致してないけど
こういう場合、新しい時代に書かれたものを最新の情報に修正されたと判断すべきか
当時に近い時代に記録されたものが事実に近いとするのか…
どちらが正しいのだろう?
小型の橋台に渡された仮橋を渡ります
中型の橋台が残る裏谷は渡れずに迂回します
切り通し
この橋も渡れない
煉瓦と石で積まれた橋台は
廃止から110年経ってもしっかり残ってる
こりゃコンクリートより耐久性がえんじゃなかろかね
急峻な斜面に谷側、山側ともにしっかりした石積みが遺ります
全長5,532mの中間駅だった一本松停車場跡(標高980m)
一本松停車場平面図 明治38年頃
ここから東平の小マンブ横へ索道が繋いでた
明治27年3月からの第三通洞の開鑿に当たっては
煉瓦などの建築資材を上部鉄道経由で搬入するのに
一本松・東平索道が活躍したようです
兜岩・西赤石分岐から一本松駅跡まで1.1kmで20分かかってる
この一本松の支尾根から石ヶ山丈尾根ルート迄辿る事ができるそうな(バリエーションルート)
冬ならこの狭い橋台の間から新居浜の街を遠望出来ますが
今の緑の季節もなかなかいい感じ
小さな谷にも丁寧に積まれた煉瓦の橋台
保線小屋跡
アマチュア別子銅山研究家の小野氏によると
新居浜市広瀬歴史記念館発行の小冊子には
「上部鉄道は、明治26年8月の開業から僅か18年間の営業期間であった。当初の所要時間は約40分で4駅があった」
と書かれていたので、此処も駅だったのかもしれないとの事
第二岩井谷は一応渡れる体裁になってるけど・・・
渡りたくは無い橋なん(^^;)
でも通行止めになってない為、しっかりした迂回路が無くて
やむなく泣きながら渡らねばならないけど
かなり朽ちてるのでそろそろ落ちる頃かもね~
第一岩井谷は渡れないので迂回路があります
次の中型橋台には橋桁と橋台を固定していたと思われるボルト4本が残ってました
橋桁は木製だったとの説もありますが真実は如何にや?
標高1,100mの角石原駅から標高835mの石ヶ山丈駅まで
1/18の勾配で、5,532mで265m下ります
単純計算すると20m進んで1m下りますが
歩いていると水平道に近い軌道跡も
蒸気機関車には急勾配で時速12kmで
片道30分で走ってたそうな(時速8kmとの資料もあります)
途中には133のカーブと22の橋梁がある急峻な崖の上に作られた鉄道
上部鉄道の軌道跡を石ヶ山丈方面へ下っていると
谷側の石積みが白く塗られている箇所がある
もしかして鳥の糞?
そうです!すぐ近くにコロニーが・・・(^^;)
なんて訳がありませんww
周囲を見回しても鳥の姿は見えず
その代わりと云っては何だが東平(とうなる)が見える
現在の上部鉄道跡には樹木が繁茂しており
断崖絶壁を通る廃線跡からの展望は殆どありませんが
ここだけ樹木も刈られているみたい
ここから東平が見えるという事は
東平からもこちらが見えるという事
そうだ!思い出したぞ!
東平の貯鉱庫の近くにアクリル板があって
そこに描かれた稜線のラインと前方の山を重ねると
鉄道のルートが現れるという仕掛け
白い岩壁が目印って書いてた
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上も下も急峻な斜面
ここに石積みを築いて機関車の通る平面を作ってる
等高線に沿って断崖絶壁を約5.5kmもカーブの連続で軌道跡が続く
廃止から110年を経て軌道跡も自然に還りつつあり
比較的谷側の石積みはしっかり残ってるけど
この辺りは岩盤が弱いのか崩落が多く見られました
特に上側からの落石が凄く
すぐ上を通る牛車道の石積みも多く軌道跡に落下してる
軌道跡のすぐ横にある巨岩の紫石
この周辺の山ズレが著しいそうな
紫岩も廃線後にズレたか角度が変わったみたい
上部鉄道の軌道跡もズレていました
何処からどうやって落ちて来たのか
廃線跡を塞ぐ大きな落石
ここは谷側に何段もの石積みを重ねて構築しており
山側も絶壁で迂回路をとる事は不可能な場所みたい
それ故に、橋台にしっかりした木橋が渡されています(手摺付)
木橋を渡ると山側からの崩落で土砂が積もったのか
軌道跡を見失いますが、谷側に迂回するルートが付いてます
この辺りにも旗の残骸があり
東平から見通せるポイントだったみたい
喉が渇いたよぉ~(T▽T)
この辺りには水場が無いのでその予定で準備しておきませう
一本松駅から43分、終点(始発駅)の石ヶ山丈駅まで
もうひと頑張り(;'∀')
あと少し進むと
上部鉄道で最も有名なこの写真の切り通しが現れます
機関車の向きどうりに進んでいるとしたら
角石原へ向かっていますが、何故か貨車は空荷です
上部鉄道には転車台が無かったので機関車の向きは常に角石原方面に向いており
石ヶ山丈へ下る際はバックで進んでいたようです
角石原へ上っているなら米穀・石炭・骸炭・木材や煉瓦など
石ヶ山丈へ下っているなら焼鉱や粗銅を積載してる筈なんですが・・・
空荷とは撮影の為に走行してるのかもしれませんね
乗ってる人がこちら側を向いて立っているので角石原へ向かっていたものと私は思います
1893年から1911年迄の僅か18年間で廃止された上部鉄道の写真は僅かしかありませんが
最も有名なのがこの切り通しを走行する写真です
上部鉄道の上には牛車道が写っておりますが
切り通しを抜ける軌道の他に岩を巻く水平道の様な痕跡があります
これは一体どういう事でしょうか?
岩を巻くルートでは半径が小さすぎてとても列車は走れそうにありません
そのために切り通しを作って鉄道を敷設した
では、鉄道を敷設する前から道があったのだろうか?
その道とは、考えられるのは牛車道しかありません
では、上部鉄道の上に写っている牛車道は・・・???
この件については2年前の探訪で紹介したのでよろしかったらご覧下さい↓
この写真一枚からでも色々な推論が可能でとても興味深いです
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さてさて
今回のメインイベント(笑)
1902(明治42)年に撮られたこの写真を見て興味をそそられるのは・・・
①断崖絶壁に立つ小岩
②上部鉄道最大の切り通し
③機関車の影をはっきりと映している岩壁
これらが119年を経た現在どうなっているのか
誰しもが確認してみたいと思ふのではないでせうか
小岩と切り通しについては2年前にも確認したのですが
機関車の影を映した岩壁を確認するのを忘れていました
此の岩壁こそ18年間に亘り、
当時、大動脈だった山岳鉱山鉄道を見守った岩壁との証を見つけることが出来るだろうか
一致点と思われる岩の模様(赤丸内)が見つかりました
この写真では機関車の影が完全に写って無かったでござる
もっと右迄写っていた写真があったハズだが・・・
ありましたぜ (^^)/
そろばん型の煙突から出る煙の影まで写るこの写真
煙の影が映る辺りにも一致点(大きな赤丸)が見出せました
切り通し
樹木が繁茂しているのでこんな感じですが
切り通しであることは何とか分かります
樹木が鬱蒼と生えているので当時の様な絶壁感は感じられませんが
絶壁に立つ小岩もそのままの状態で残っていました
切り通しの小岩
高さは約230cm
切り通しの内部は岩が崩落しています
廃線後100余年を経て樹木が芽を吹き成長することで
岩を砕いて崩落し、人工物を自然に還そうとしてるかのように思えます
切り通しの石ヶ山丈側は綺麗で、そのままレールを敷けそう
切り通しを振り返る
最後の谷はその名も地獄谷
大型の橋台が残っています
軌道跡をしばらく進むと上部鉄道で最大の駅だった
標高835mの石ヶ山丈停車場に到着します
上部鉄道石ヶ山丈駅(標高835m)と下部鉄道打除駅(標高155m)は
端出場・石ヶ山丈索道によって結ばれておりました
17:37
現在地は索道場
急峻な斜面に広い平地を作るために
谷側には膨大な石積みが築かれています
煉瓦で作られた塹壕の様な窪みがあります
この遺構は明治31年に完成した
ハリデー式単式索道の機械場跡と思われます
複式索道の右側に単式索道が作られた様です
複式索道は下荷4、上荷1の重力差で動いていたようです
下荷は可能な限り複式索道を利用し
電力でモーターを回して使用する単式索道は
上荷が主体だったと想像されます
明治32年8月28日の別子大水害では
複式索道は被害が少なく、2日程で復旧したけど
下ろす焼鉱が底をつき、旧別子の被災地へ向けた物資を上げる事が出来なくなり
土砂を掘って下荷にして緊急物資を持ち上げたそうな
一方単式索道は端出場の火力発電所が泥土に埋まり
電気が供給できずに復旧まで1ヶ月を要します
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石ヶ山丈停車場の興味深い写真があります
機関庫の前で撮られたこの写真は何かの記念日だったのでしょうか
後方に「住友別子○○○ ○○○鐡道〇記念○○」って
どう目を凝らしても○○が読めんが
右手が山側で扉の手前を左に引込線が伸びてる配置などをみると
石ヶ山丈停車場の機関庫で間違いないと思うけど
なんと機関車が3両写ってるじゃないですか
これまでに確認した資料では
機関車2両が交代で貨車4~5両を連結して1日4往復ずつしてた事になってた
上部鉄道と下部鉄道はレールではなく架空索道で繋がってたので
機関車が上部鉄道に乗り入れることは出来ない
車道が繋がっておらず、スキー場への
アクセス手段は登山道とロープウェイのみの石鎚スキー場に圧雪車を運ぶのと同じ
住友別子鉱山鉄道の機関車も自重が8.06tもあったので
細かく分解しても複式索道で上げるのは無理ぽい
牛車道で近江牛さんにお世話になったんじゃなかろうかね
話が逸れましたが(^◇^;)
石ヶ山丈駅で3両写ってるってことは上部鉄道が3両体制だったってこと
他にも何か資料が無いかと調べてみると・・・
別子鉱山鉄道史略によると
1893(明治26)年の住友別子鉱山鉄道の開業までに
ドイツのクラウス社製の蒸気機関車を6台購入し
上部鉄道と下部鉄道に3両ずつ分配してる
上部線は2両の間違いだとすると下部線が4両にもなってしまう
住友別子鉱山史にも
「平均三列車にて一日八回宛往復す」と書かれているので
私は上部・下部ともに3両ずつの体制で合ってるのではないかと思います
明治29、32年にも上部線用に購入してるけど
これは故障などで下部線と車両を入れ替えたのかもしれない
また1912(大正元)年6月1日には5・6・7号機を伊予鉄道に売却してるけど
これは前年の1911(明治44)年に上部鉄道が廃止されて
上部鉄道の機関車3台が余剰になったと考えれば全て辻褄が合います
多くの産業遺産がひっそりと眠る石ヶ山丈停車場跡
今回も長くなりましたが最後までご覧頂きまして有難うございました
では、また
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