この少々間抜けな、僕にとっては不可思議な話のきっかけは、東武野田線である。
同線は、船橋駅から柏駅を経て大宮駅駅まで、首都圏外縁の東半分を延々62.7kmに渡ってぐるりと半周する路線で、当初は野田駅から常磐線柏駅まで醤油を運送する貨物輸送のために敷設された鉄道だった。
同様の半環状路線として西船橋-新松戸-南越谷-南浦和-東所沢-府中本町と、東武野田線の内側を周回するJR武蔵野線が挙げられるが、こちらも元は貨物線だった。
どちらも、千葉県や埼玉県の土の匂いがする田園と河川に囲まれた湿地帯をのんびりと走る印象があるのだが、現在では宅地化がかなり進んでいると聞く。
僕は、東武野田線の一部区間しか利用したことがなく、故郷の長野市と東京を行き来する際に、大宮駅構内の片隅に停車している白い電車を見遣りながら、いつかは全線を乗り通してみたいものだ、と思っていた。
長年の疑問だったのは、東武野田線のどの区間に乗ったことがあるのか、という点である。
鉄道ファンだった僕は、学生時代から暇を見つけては首都圏の鉄道を国鉄私鉄を問わずに乗り潰し、その記憶はきちんと保たれているものと自負していた。
ところが、東武野田線の乗車体験は、かなりあやふやだった。
東武野田線と交差する鉄道路線は何本もある。
南から羅列すると、船橋駅でJR総武本線と京成本線、新鎌ヶ谷駅で北総鉄道と新京成電鉄、柏駅でJR常磐線、流山おおたかの森駅でつくばエクスプレス、春日部駅で東武伊勢崎線、そして大宮駅でJR東北本線、高崎線、川越線、埼玉新都市交通線といった具合であり、東武野田線に乗車するには、このうち1つの路線から野田線に乗り換え、また別の路線に乗り換えて帰って来る必要がある。
ところが、その行程が、完全に忘却の彼方なのである。
鉄道ファンは、用事があって鉄道に乗る訳ではない。
何処から何処まで乗車したのかという記録もしくは記憶が定かでないならば、鉄道ファンとして、乗車していないのと変わりはない。
いつか全線を乗り通せば済む話ではないか、と考えているものの、船橋と大宮の間は各駅停車で所要1時間30分、その機会を見出せないまま今日に至っている。
先日、これまでに撮影した写真を整理していると、ある1枚が眼に止まった。
何処かの駅前ロータリーらしい曲線を描く道路で、「東京駅」と行先表示を掲げながら客を乗せている東武バスの写真である。
これまで何度となく眼にしたはずだが、これまでは特に気にも留めなかったのだろう。
この時だけ、待てよ、と首を捻ったことが、20年前の記憶を遡る思索の始まりだった。
ここはいったい何駅なのであろうか。
写っている停留所の文字は、幾ら拡大しても解読不能だった。
ヒントは、東京駅に乗り入れている東武バス、という点である。
車両は高速バスのように見える。
東京駅を起終点とする高速バスのうち、東武バスが参入しているのは2路線しかない。
昭和63年に開業した東京駅と平駅(現在のいわき駅)を結ぶ「いわき」号と、平成14年に開業した東京駅と江戸川台駅を結ぶ「常磐高速バス」江戸川台線である。
東武バスが「いわき」号に投入したのはスーパーハイデッカーで、この写真のようなハイデッカー車両ではなかったはずである。
ならば、この写真は「常磐高速バス」江戸川台線ではないのか。
僕は慌ててGoogle Mapで東武野田線江戸川台の駅前を検索し、ストリートビューで駅前を映し出してみた。
下に掲げる写真がPC画面に表示された時の驚きを、理解していただけるだろうか。
双方の写真で最も目立つのは、バスの後方のアーケードの屋根に突き出している半円筒状の突起であろう。
これは、バス乗り場の向かいに建つビルに付属する駐車場の出入口である。
地図を見ると、このビルには、流山市役所江戸川台駅前出張所が入居している。
東京駅行き高速バスの後ろで半分ほど並木に隠れている「和食処 与〇」の看板は、ストリートビューでは真っ白だが、地図では「竹蔵」という居酒屋になっているらしい。
これだけ停留所周囲の建物がそっくりで、かつ東武バスの高速路線が出入りしているのだから、僕がこの写真を、東武野田線江戸川台駅で撮影したことは間違いない。
ならば、僕は、何を目的として江戸川台駅に足を運んだのか。
この写真を撮影した当時、江戸川台近辺に所用が生じたことなど一切なかったと断言できる。
考えられる解答はただ1つ、「常磐高速バス」江戸川台線に乗りに行ったのである。
以前にこのブログで、「常磐高速バス盛衰記」と題して、僕の「常磐高速バス」路線の乗車記を一連の記事にしたことがある。
その1編「常磐高速バス盛衰記(10)~平成12年 東京-三郷・吉川・松伏線との不思議な縁~」において、僕は以下のように書いている。
『平成13年7月に、同様の近郊住宅地である千葉県柏市と流山市を跨いで、国立がんセンター、税関研修所、柏の葉公園中央、三井住宅前、柏の葉公園住宅前、柏の葉公園西、柏の葉公園、青田大橋と停車しながら東武野田線江戸川台駅を都心と直結する、運行距離46.4km、所要50分の「常磐高速バス」東京-江戸川台線が、1日12往復で開業した。
翌年には14往復に増便されたが、つくばエクスプレスが開通すると11往復に減便され、平成18年には呆気なく廃止になり、僕にとって唯一未乗の「常磐高速バス」となった』
この記事を書き上げた時、「常磐高速バス」江戸川台線は『僕にとって唯一未乗の「常磐高速バス」となった』と決めつけていたのだが、ちゃんと乗っているではないか、と愕然とした。
「常磐高速バス」江戸川台線の開業を耳にした時、江戸川台駅とは何処にあるのか知らず、時刻表をめくって東武野田線の駅であることが判明した。
この高速バスに乗車すれば、初めて東武野田線に乗れるではないか、とほくそ笑んだ覚えがあるから、「常磐高速バス」江戸川台線の開業当時に、僕はまだ東武野田線に乗っていなかったのは確かである。
眼を皿のようにして残りの写真に眼を通すと、東武野田線らしき1枚を見つけた。
「大宮」と行き先を掲げた東武鉄道8000系電車が写っている。
赤い尾灯が点灯しているのか判然としないけれども、手前の車両で車掌が身を乗り出しているから、大宮行きの電車を見送っているアングルである。
駅名は写っていないけれども、2面2線のホーム構造や、背景の跨線橋の外観を照らし合わせてみれば、間違いなく、江戸川台駅1番線である。
嬉しさが込み上げてきた。
この日1日、気分が良かった。
「常磐高速バス」江戸川台線の始発地に向かうために、東武野田線の大宮方面の電車に乗車したのが、僕にとって唯一の東武野田線体験だったのだ。
写真に写っている江戸川台駅東口の乗り場で、続々と東京駅行きの高速バスに乗り込んでいる人々は、誰もが半袖の夏服を身にまとい、燦々と降り注ぐ陽の光に眼を細めているように見える。
記憶とは魔訶不思議である。
これまでに乗車した高速バス路線の記憶はしっかりと保たれているもの、と自負していたから、「常磐高速バス」江戸川台線の乗車体験がすっぽり抜け落ちたことは、どうにも合点がいかない。
ところが、乗れなかったものと諦めていた路線に、実は乗った経験があるのではないか、という可能性に思い当たると、真夏のうだるような昼下がりの午後の小旅行が、ありありと脳裏に浮かび上がってきたのである。
東武野田線や「常磐高速バス」江戸川台線と同じく、乗車経験についてのかすかな記憶の残渣しか残っていなかった路線として、羽田空港と草加駅・新越谷駅を結ぶリムジンバスがある。
新越谷駅前にリムジンバスから降り立った記憶がありながら、これまで、その前後の行程がどうしても思い出せなかった。
越谷に行った確信があるのは、「Yellow Magic Orchestra」のおかげである。
坂本龍一、高橋幸宏、細野晴臣の3人で構成されるこのバンドは、昭和50年代後半から昭和60年代に一世を風靡し、文献によるとテクノ音楽グループと分類されている。
小林克也、桑原茂一、伊武雅之から成る「スネークマンショー」のコントを曲間に挟んだYMOのアルバムを、大学時代に友人たちと聴いて笑い転げたものだったが、その中に「ホテル・ニュー越谷」というCM風のコントがある。
『「あー、やばーい!電車終わっちゃった。どうしようか?」
「わ、私、さっきから気分が悪いの。どこかで横になりたいわ」
気分はもう、とっくにホテル。
だけど、ラブホテルはやめにしたい。
そんなクリスタルなあなたに、ホテル・ニュー越谷。
「ねえ…あなた…」
「お、俺、つ、疲れてんだよ。お…痛え…腹痛てえ…」
ありきたりの生活に飽き飽きした。
人生に変化を求めたい。
そんなナイスミドルのあなたに、
ホテル・ニュー越谷。
「ミチコくん、ここ、良さそうじゃないか。ここにしようよ、ね、ね」
「先生!誰か来ました」
「急いで離れなさい!」
このままでは社会的地位が駄目になる。
だけど、出来れば内緒で続けたい。
そんなオーディナリー・ピープルのあなたに、
ホテル・ニュー越谷。
愛をはぐくむゴージャスな雰囲気。
あなたを安心させるリーズナブルなお値段。
ホテル・ニュー越谷。
2人をその気にさせる数々のアイディア。
ホテル・ニュー越谷。
人目につかない完璧な出入り口。
ホテル・ニュー越谷。
80年代のファッショナブル・ナイトライフは、
ホテル・ニュー越谷。
レッツ・エンジョイ・メイク・ラブ
あいてて良かった……』
バックに流れるのは、ポール・モーリアの「エーゲ海の真珠」である。
このナレーションを担当した伊武雅刀は、当時伊武雅之と名乗っていたけど、どうして改名したのだろう、とか、「あいてて良かった」の宣伝文句でセブンイレブンが街に増殖し始めたのはこの頃であったか、などと懐かしさ満載の声劇である。
平成13年の真夏の日曜日の昼に、羽田空港を起終点とする多くのリムジンバス路線の中から、新越谷駅行きを選んだのは、「スネークマンショー」の「ホテル・ニュー越谷」が念頭にあったからに他ならない。
当時、急激に路線数を増やしていた羽田空港発着のリムジンバスは、行き先の設定がきめ細かく、それまで訪れたことがないような街に連れて行ってくれるという魅力に惹かれて、暇があれば乗りに出掛けたものだった。
その雑多な記憶の中に、「常磐高速バス」江戸川台線が埋没してしまったのかもしれない。
首都高速湾岸線から首都高速中央環状線、首都高速三郷線、東京外環自動車道を走り抜け、草加ICを降りて草加駅前に寄ったリムジンバスは、羽田から1時間あまりで新越谷駅西口に滑り込んだ。
瀟洒な駅舎と、派手な看板を掲げた雑居ビルがひしめく駅前ロータリーを見回しながら、なるほど、この街並みならば「ホテル・ニュー越谷」が似合うかもしれない、などと失礼な感想を抱いたものだった。
軽く昼食をしたため、隣接する南越谷駅からJR武蔵野線で新松戸駅に向かい、JR常磐線で柏駅、そして東武野田線の大宮行き電車に乗り継いだ僕の胸中には、ここまで来たら「常磐高速バス」江戸川台線だ、という目論見が浮かんでいたに違いない。
つくばエクスプレスがあれば武蔵野線で南流山駅、つくばエクスプレスで流山おおたかの森駅とショートカットできたのだろうが、同線が開業するのは平成17年のことである。
舟運だけだった醤油の出荷を担うために、醸造組合が県債を引き受けて、明治44年に野田と柏の間14.7kmを開通させた千葉県営鉄道野田線は、大正10年に民間の北総鉄道に払い下げられた。
大正12年に北総鉄道が船橋と柏の間19.6kmの船橋線を開業、この時は船橋線の柏駅が国鉄常磐線柏駅の東口、野田線の柏駅は西口に設けられていたと言う。
北総鉄道は引き続き野田から大宮に至る路線を計画し、昭和4年に野田-清水公園間と春日部(当時は粕壁)-大宮間を開通させ、昭和5年に江戸川を渡る架橋工事を完成させて清水公園-春日部間を開業、同年に国鉄柏駅を挟んでいた船橋線と野田線の2駅を西口に統合している。
北総鉄道が後に総武鉄道と社名を変更し、更に東武鉄道に吸収合併されたのは昭和19年であった。
別路線を統合したため、船橋からの線路と大宮からの線路が人の字を描くように柏駅で合流するスイッチバックになっていて、東武野田線の電車の大半は、柏駅で折り返す分離した運転系統となっている。
柏駅から江戸川台駅までは4駅、7.8kmしかないけれども、現時点では、この時が僕にとって唯一の東武野田線体験である。
江戸川台のある流山市は、江戸時代に軍馬を養う小金牧の一部であり、大半が天領だった。
江戸川の舟運のための河岸が設けられ、みりんの製造で栄えたが、幕末に新選組が本陣を置き、近藤勇が新政府軍に投降した地としても知られている。
江戸川河畔に位置する江戸川台は、かつて「狐の野」、「兎の村」、「県北のチベット」などと呼ばれた僻村であり、昭和30年代に戸建住宅の分譲が着手されたのも、山林が多く用地取得が容易という理由であったと聞く。
平成17年につくばエクスプレスが開通するまでは、東武野田線、JR武蔵野線、そして総武流山電鉄と、都心に直通しない鉄道ばかりの地域でありながら、首都圏有数の住宅地に発展したからこそ、東京駅に直通する「常磐高速バス」江戸川台線が開業したのである。
田園調布をモデルにして整備されたという扇状の住宅街に囲まれた江戸川台駅前は、ひっそりとしていた。
1日12往復という頻回運行であるから、待つほどのこともなく東京行きの高速バスが姿を現したのだろう。
江戸川台駅から常磐道柏ICまで、地図の上では一本道である。
「常磐高速バス」江戸川台線のバスが最初に停車する青田大橋は、常磐道を跨ぐ立体交差だった。
次に停まる柏の葉公園停留所から先は、柏の葉公園西、柏の葉公園住宅前、三井住宅前、柏の葉公園中央、税関研修所まで、柏の葉公園を囲む道路に置かれた停留所である。
まるで「常磐高速バス」柏の葉公園線と呼びたくなるような、柏の葉公園への拘り方ではないか。
この公園は陸軍柏飛行場の跡地であり、我が国初のロケット戦闘機「秋水」が配備されたことがある。
「秋水」は、日本各地を爆撃していた米軍のB-29爆撃機の迎撃用に開発されたが、当時の日本の技術力では安定した飛行には程遠く、横須賀追浜飛行場での1号機は、初めての試験飛行中にロケットエンジンの不調で墜落してしまう。
柏に配備された2号機も、終戦までエンジンを搭載することなく滑空実験だけに終わった。
もし、ロケットエンジンでの飛行が成功したとしても、膨大な燃料消費のために僅か4分間しか戦闘可能時間が確保できず、驚異的な速度で機銃の狙いが定まらないことから、B-29編隊の真ん中で自爆する特攻兵器として使われる予定であったと言われている。
柏飛行場は戦後に米軍柏通信所として接収され、昭和54年に全面的に返還された後に、東京大学柏キャンパス、千葉大学園芸学部附属農場と合わせて、広域公園として整備されたのである。
バスは、歩道の植え込みと欅並木が眼に浸みる平和な街路を進みながら、反時計回りに広大な公園をひと廻りし、これほど多くの木立ちに囲まれた病院も珍しいのではないか、と感じ入った国立がんセンターが、最後の乗車停留所だった。
この旅の20年後に、流山市と江戸川を挟んで隣接する三郷市で働くことになった僕は、越谷や流山、柏を頻回に行き来するようになる。
所用で国立がん研究センター東病院を訪れた時に、その緑豊かな敷地に見覚えがあるような気がしたが、これが既視感というものなのか、と独り合点していた。
真夏の陽射しを眩しく照り返す鮮烈な青葉に彩られた車窓は、「常磐高速バス」江戸川台線の記憶の断片だったのである。
ただし、柏ICから東京駅までの高速区間の記憶は、どうしても蘇ってこない。
三郷JCTまで僅か10.8kmの常磐道を瞬く間に走り抜け、首都高速三郷線、首都高速6号向島線、そして首都高速都心環状線と幾つもの高速道路に跨がる経路は、他の「常磐高速バス」路線で何度も経験したので、記憶が入り混じってしまったのであろうか。
東武野田線。
羽田空港-新越谷駅間リムジンバス。
そして「常磐高速バス」江戸川台線。
断片的だった幾つかの記憶が、1枚の写真をきっかけに、糸の結び目がほぐれるように繋がり、長年の心のしこりが氷解した。
机上でPCに向かい合っているだけであったが、短命だった「常磐高速バス」江戸川台線に再び乗車しているかのような、心地良い高揚感を伴うひとときを過ごせたのである。
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