京成電鉄が戦前に手を出していた副業で有名なものは、「電燈・電力供給事業」「食品事業」「薬品事業」です。食品事業では「京成ハム」「京成ソーセージ」、薬品事業では「京成シミトール」「京成胃腸薬」を製造して販売していました。
それだけでもユニークな京成の副業ですが、実は、それ以外にも非常に珍しい副業にも手を出そうとしていました。
路線開業前に多角経営を目指していた京成
京成電鉄は1909年に創業し、1911年から電燈・電力供給事業を開始しています。電燈・電力供給をして安定的な収入を確保した後、1912年に鉄道事業が開業します。
鉄道を走らせる前に、副業で儲かっているというのも、後世から見ると不思議な話ではありますが、京成は創業当初から多角経営を目指していました。
京成は成田山新勝寺への参詣輸送が目的で発足しましたが、参詣客は時期的な波もあります。非常事態となれば参詣どころではありません。根幹となる鉄道事業が破綻してしまっては、元も子もないので、生活インフラ事業である電力事業で財布事情を安定させて、鉄道事業のリスクヘッジをする経営方針は、理にかなっていると言えます。
さて、電力事業で安定基盤を整えたから、そろそろ鉄道路線を開業させよう!…となるはずですが、ある出来事が起こります。
初の臨時株主総会で…
1911年3月、京成は鎌ヶ谷のある村の土地の買収に取り掛かります。
これだけ聞くと、「新線の敷地確保か、沿線開発の土地確保かな?」と思いますが、この土地の目的は墓地経営です。
少しだけ時計の針を戻します。
1911年3月17日、京成が創業以来初めての臨時株主総会を開きます。そこで決められたのは、定款の改正でした。改正された定款の第2条は次の内容になりました。
第2条 当会社ノ目的ハ電気鉄道ヲ建設シ一般運輸業並ニ副業トシテ下記各項目ノ業務ヲ営ムモノトス
1 電燈及電力ノ供給
1 家屋ノ建築売買及賃貸借
1 土地ノ売買賃貸借
1 墓地ノ建設並ニ寺院墓地移転工事ノ請負及之ニ伴フ諸般ノ施設其他前記各項ニ関聯シテ必要又ハ有益ナル業務―『京成電鉄五十五年史』148ページより引用
戦前なので、漢字とカタカナの文語体で難しいですが、現代風に言い換えると、「副業で墓地経営するよ!その他にも関連して有益な事業もするよ!」ということです。
1911年は、まだ鉄道事業が開業していない状態ですが、早くも二つ目の副業に手を出し始めることになりました。
墓地経営に乗り出すが…
墓地と鉄道の新設
無事に(?)株主総会でも墓地経営が承認され、先述した通り、京成は墓地経営に取り掛かります。何事も、先立つものは土地。まずは墓地を建設する土地を確保します。
墓地建設のために、鎌ヶ谷周辺の土地の取得を始めます。取得を進めた場所は、千葉県東葛飾郡鎌ヶ谷村大字佐津間1・軽井沢2と、風早村大字藤ヶ谷3・高柳4の一帯で、現在の海上自衛隊下総航空基地よりも広い土地の取得を試みています。
この広大な土地を宝城墓地と定め、墓地団地を建設することを計画しました。
同時に、東京にある寺院に対して、宝城墓地への移転交渉を行っており、移転の話も順調に進んでいました。更に、建設中の京成本線の中山から、宝城墓地までを結ぶ宝城軌道の建設準備も進めており、こちらも順調に進みます。
宝城墓地を建設し、京成本線から宝城墓地を結ぶための宝城軌道も建設!…する予定でした。
時代を先取りし過ぎて頓挫
順風満帆に見えた墓地団地計画、実は頓挫します。理由は、明治末期当時の、お墓に対する考え方です。
現在は霊園という共同墓地が存在していますが、明治末期は、世帯がお墓を持っているか、小さい村単位にお墓があるというのが当たり前でした。田舎の山奥にお墓参りに行ったことがある方なら分かると思いますが、マジでガチの田舎だと、世帯ごとにお墓を持っていたり、小さい村ごとにお墓があったりします。
そんなわけで、京成が計画していた宝城墓地と宝城軌道は幻に終わったのでした。
京成による墓地経営の計画は無くなりましたが、1935年、宝城墓地を計画していた場所から南西に10kmほどのところに、八柱霊園が設立されています。なので、京成の計画は、ちょっと早すぎたのかもしれません。
編集後記
今年はお墓参り行かなきゃ😺💦