みなさんこんにちは。前回からの続きです。


府南部、和泉市(いずみし)の「弥生文化博物館」で、今年3月まで開催されていた「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」という、特別展を訪問した際の様子をお送りしています。


阪和の「超特急」が、全通からわずか3年弱の1933(昭和8)年4月のダイヤ改正で、大阪・和歌山間を現在と遜色ないレベルの所要時間、超高速運転のノンストップ45分で結ぶに至った…ということについて、その展示から掘り下げて来ました。



「超高速運転」を最大の武器にした阪和に対して、最速の特急列車でも大阪・和歌山間を所要時間では最速60分と、スピード面では敵わないライバル「南海鉄道(→南海電鉄)」は、ソフト面でのサービスを強化し、阪和への対抗を図ろうとします。


その最大の目玉「日本初の冷房車両導入」について、前回に引き続き、毎度おなじみ「Wikipedia#南海2001形電車」などから、拾ってみることにします。



南海2001形電車は、南海鉄道が大阪 - 和歌山間で並行して走る阪和電気鉄道(現・西日本旅客鉄道、JR阪和線)への競合対策用として1929年より製造を開始した大型鋼製電車である。


当時日本最大級の20 m級車体に、主電動機として150 kW級モーター4基を搭載し、こちらも電車としては日本最大級となる800馬力の大出力を発揮した。戦前の南海を代表する電車であり、当時の南海社内では「大型」の呼称が用いられ、特急・急行用として長らく愛用された。


このグループの電車は、1936年に日本で初めて冷房が搭載された「冷房電車」である事が知られている。



これは阪和電鉄への対抗サービスの一策として企画されたものであるが、元々南海はこの種のサービスに熱心な会社であり、電7系では特別室および喫茶室限定ではあるが、新造時より扇風機を設置した実績があった。ここまで①。


戦前における南海の看板車両となり、増備が進められたその「2001形」に、冷房装置が取り付けられることになります。

それも、冷房車両への乗車には別料金は不要という、当時としては破格のサービスでした。


それでは、続きです。


1936(昭和11月)7月21日

1936年夏前に、大阪金属工業製の電動冷凍機「ミフジレーター」を改造し、重量2.5 tに及ぶ巨大な車載冷房システムを開発した。冷媒として用いられていたメチルクロライド(CH3Cl)は、当時の日本における最新の量産冷媒で、のち大和型戦艦の弾薬庫冷却・艦内冷房用冷凍機にも採用されていた。


この試作冷房装置は、クハ2801形2802に搭載されることとなり、1936年6月12日に設計変更認可および特殊設計許可を申請、同年7月21日に竣工した。

この特殊設計許可申請は、屋上搭載の機器(エバポレータ)が大型で車両定規をはみ出すために特認を得るべく出されたものであった。




これとペアを組む電動車のモハ2001形2002には、重量・スペースの関係で冷房装置の直接搭載が非常に困難であり、代替として灯具と一体化した送風装置(赤い)が装備された()。

(注釈:冷房装置が取り付けられない右側の2002号車に、送風装置を経由し、左側の2802号車の冷房装置で発生させた冷気を送っていた)



ちなみに、この冷房装置のもとになった、日本初の冷凍機「ミフジレーター」を製造した「大阪金属工業」はそのノウハウを活用し、冷房・冷却装置の開発に重点を置いた事業をその後、展開することになります。

現在の「ダイキン工業」です。公式ホームページより。



この冷房車を含む2002+2802編成は、南海本線の特急・急行列車に優先的に投入された。


しかし、元々大電力消費の200馬力級電動機搭載車に、消費電力の大きな冷房装置を重ねて追加したため、運用してみると電力消費量が異常に大きいという問題が判明した。



真偽は不明であるが、あまりの電力喰いに閉口した南海の重役が「これなら難波駅でお客はんみんなにコーヒ(コーヒー)振る舞うた方がマシ」とぼやいた、という逸話も伝えられている。だがこの当時、一般大衆が冷房の恩恵に浴する機会は大都市の百貨店程度に限られていただけに、乗客からは非常な好評を博することになった。ここまで②。


このような大反響に気を良くした南海首脳陣は冷房電車の本格的な増備を決定し、翌1937年夏にはモハ2001形+クハ2801形の編成のうち、8両4編成に改良された冷房装置を搭載させた。




他書籍を探ってみますと、翌1936(昭和11)年にはすべての特急列車を冷房車両にしたとのこと。これもまた、エポックメイキングなことだったに違いありません。①。



1937年夏の難波駅では、乗客が先行する非冷房車を見送って後発の冷房車に乗り込む光景がしばしば見られ、乗客が殺到した冷房電車の方がかえって暑くなることさえあったという。②。


しかし、おりしも同年7月には日中戦争が勃発、扇風機を装備した電車さえ一般的ではなかった当時の当局の判断として「非常時に冷房電車は贅沢」との指摘がなされ、この1937年のわずか1シーズン限りで冷房使用は停止された。




終戦直後の「モハ2001形」。
冷房装置はすでに撤去されていたが、復活を見越してか、その覆いと、独特の長細い冷風ダクトが残されているのがわかる。出典③。

その後、デッドウェイトにしかならない重い冷房機器類は撤去されたが、南海では将来の冷房復活を計画していたらしく、戦後の1940年代まで空襲から生き延びた2001形の元冷房車には、屋上に冷風ダクトを残していた例が複数見られた。


ということで、苦心して導入した「日本初の冷房車両」は、戦争に向かう時局には抗えずに、短命に終わってしまいました。


戦後しばらくの間、各鉄道会社では、荒廃した車両や設備を整えることが急務にされたため、冷房車両の導入というサービスは後回しにされ

昭和30年代前半にかけてようやく、特別料金が必要な特急列車から徐々に、冷房車両が登場しはじめるに至ります。




「戦後、特別料金不要の列車(通勤型車両)への冷房車両導入」となりますと、関西では、この「京阪電車2400系」が最初の例です。
デビューは1969(昭和44)年、全国的に見ても特急列車自体に冷房車両がまだまだ少なかった頃です。枚方公園・枚方市にて。

このように鉄道車両の冷房化というのは、高度経済成長期以降にようやく本格化したので、戦前に冷房車両を複数揃え、定期的に走らせていたこの南海の事例というのは、相当に先端的なことだったことが窺えます。それほど、阪和との競合が激しかった表れでもありましょうか。



「日本初の冷房車両」は、実に短命なものになってしまいましたが、それと同時期、南海・阪和両社が競り合う出来事がさらにありました。

和歌山でつながる「鉄道省紀勢西線(現在のJR紀勢本線)」への直通運転開始です。


(出典①「週刊朝日百科 週刊歴史でめぐる鉄道全路線 大手私鉄16 南海電気鉄道」朝日新聞出版刊 平成22年発行)

(出典②「カラーブックス日本の私鉄⑨南海」南海電気鉄道車両部・井上広和共著 保育社刊 昭和56年発行)

(出典③「ヤマケイ私鉄ハンドブック9 南海」廣田尚敬写真 吉川文夫解説 山と渓谷社刊 昭和58年発行)


次回に続きます。

今日はこんなところです。