西武線の国鉄新宿駅乗り入れ~何とも迂闊だった話 | 書斎の汽車・電車

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鉄道書、鉄道模型の話題等、つれづれに記していきます。

  まず初めにお断りしておかなくてはなりません。「迂闊」なのは西武鉄道でも国鉄でもありません。このブログを書いている私が迂闊でしたというお話なのです。

 

 『鉄道ジャーナル』最新号(8月号)に、草町義和氏の手になる連載「公文書でたどる鉄道裏史」が載っています。

 毎号楽しみな連載なのですが、今回取り上げられているのは「新宿に乗り入れられなかった西武新宿線」です。

 

 草町氏は西武新宿線の新宿駅乗り入れについて、戦前の(旧)西武鉄道時代から始めています。まず早稲田線を紹介し、下落合駅で分岐し新宿に向かう計画線、高田馬場から新宿まで南下する現在線に近いものなど、(旧)西武鉄道の高田馬場以遠への延伸については、実に様々な計画があったことがわかります。これらの計画は結局のところ実現しませんでした。

 

 戦後、現在の西武鉄道によって、新宿駅乗り入れ構想は再び動き始めます。この段階では、新宿駅東口の区画整理が済んでおらず、駅ビルの建設計画などもあったことから、西武鉄道は新宿駅の少し手前に仮駅を建設、これを西武新宿駅とし、高田馬場~西武新宿が昭和27(1952)年3月25日に開業しています。

 西武鉄道は、国鉄山手線に沿うようにして新線を建設しましたが、実はこの頃国鉄は、高田馬場~新大久保の東側に操車場の建設を計画しており、これが実現するとなると、西武線、山手線、山手貨物線は、複雑な線路変更を余儀なくされるところでした。草町氏はそのあたりについてもわかりやすく紹介されています。なお、工事施行認可申請の段階では、新大久保駅の少し北寄りに「西武大久保」駅の設置計画があり、これが前述の操車場建設後の線路の切り替えにより、国鉄新大久保駅の位置に移転し、駅名も「新大久保」となるはずでした。

 この操車場計画は結局実現せず、西武大久保駅あるいは新大久保駅は幻となりました。なお、草町氏は触れられていませんが、この操車場計画、昭和20年代の一時期、「戸山電車区」という山手線の車輛基地計画に変わっていたと思われます。その場所について、手元にきちんとした資料はありませんが、地図を見ますと、高田馬場~西武新宿の、線路と海城学園の敷地に挟まれたところにJR東日本の社宅があることから、このあたりではないかと想像しています。(線路を隔てた西側に「グローブ座」があるあたりです)

 

 その後新宿駅東口の駅ビル建設も具体化しますが、西武鉄道新宿駅にあてがわれたスペースは、20m級6輛編成対応のホームが1面2線というもので、これでは急増する旅客をさばくことはできません。昭和40(1965)年、西武鉄道は新宿駅乗り入れを断念したのでした。

 草町氏の記事にはもちろんその過程も触れられていますが、面白いのは、新宿駅乗り入れ断念については、上述した駅スペースの狭隘問題とは別に、西武鉄道グループの総帥・堤康次郎の意向があったとする説も紹介されているところです。

 

 今回の草町氏の記事、西武鉄道の歴史に興味のある方に広くお薦めしますが、実をいうと、西武鉄道の新宿駅乗り入れ計画については、当ブログでも皆さまに詳しくご紹介すべく、かねてから準備を進めていたものでした。元ネタは草町氏同様、国立公文書館所蔵の『運輸省文書』ですので、これからご紹介しても完全な「二番煎じ」となってしまいます。もっと早く取り上げていればと思いますが、他の話題にかまけて一日延ばしにしているうちに、このようなことになってしまいました。「迂闊」と書いたのは正にこのことなのですが、これにめげずに、これからも鉄道史の話題も取り上げていく所存ですので、どうぞよろしくお願いします。

 このサボから、「西武」の2文字が消えることはついにありませんでした。