今回は期間限定公開で、私の「しくじり人生」を綴った記事を投稿いたします。
先日あるお方の「しくじりヒストリー」を拝聴する機会があったので、“しくじり”が多かった私も、現在に至るまでのプロセスをガチで語ってみたいと思います。割愛した部分もありましたが、意外と濃密な人生を送ってきたんだなぁと我ながら驚きました。
注意ただし暗い話や辛い経験談が苦手という方はスルーして下さい。しかも長文なので・・・
そして7月1日にアメンバー限定へ変更します。
友人達から波乱の人生だなとよく言われますが、苦労したり修羅場を乗り越えた自覚があっても、何とかなる大丈夫・大丈夫と思って45年間生きてきたので、私はありふれた人生ぐらいにしか思っていません。果たしてどんな人生を歩んだのか?!
本来はアメンバー限定で公開する内容ですが、思い切って赤裸々に私が辿った軌跡を綴らせていただきます。
多くを語らぬ謎多き人物とも言われる、私の45年におよぶサクセスストーリーをどうぞご覧下さい。

【出生~小学生】
1976年3月24日午前3時半頃、千葉県八千代市でO家の長男としてS也(踏切の番人)が誕生。
最近母親から「でき婚」だったと告げられ衝撃を受ける。しかも避妊具の訪問販売をやっていた会社で両親が知り合ったらしいのだが・・・
幼少期から非常に大人しい性格だったらしいが、保育園で他の園児の手を噛むなどのトラブルを起こし園長から退園を迫られてしまう。
退園した私は・・・
小学校入学までは、幼稚園にも入る事なく自宅で引きこもる生活が続く。
両親が仕事で留守がちだった事もあり、リビングで1人テレビを観たり自室でミニカー遊びをするなど1人で過ごす時間が長かった。キャンディキャンディや子連れ狼など観ていたなぁ。
1980年頃には父の仕事を兼ね社員旅行でハワイへ。当時は父親と父の友人が外車中古車販売会社を共同経営しており、私は裕福な家庭で育っているとばかり思っていたが、実際は借金で首が回らず家計は火の車だったらしい。
1982年4月に入学した千葉市内の小学校では、人見知りで大人しい性格が災いして、ごく一部のクラスメイトからイジメに遭っていた。
彼らのイタズラで、教室のベランダに閉じ込められた時は、そばにあったブロック塀でガラスを割って脱出した。小学1年から学校のガラスを壊すとは・・・破天荒さは昔から健在?!
両者共に大目玉を食らいイジメは終息する。
そして翌年1983年7月に妹が誕生。幼少期は可愛がっていたが成長するにつれて・・・
小学2年生の冬のある日、学校から帰ると家中が段ボールの山で溢れ、訳も分からず私のランドセルなども段ボールに詰め込まれた。
それは「夜逃げ」だった。
外車中古車販売会社が倒産して、借金から逃れるため千葉市内から東京都多摩西部へ夜逃げしたのだ。
新築から入居していた千葉市のマンションから東京の木造平屋建て汲み取り式トイレのボロ家に引っ越した事は、潔癖だった私には嫌でたまらなかったが、両親の深刻な表情を見ていたら何も言う事が出来なかった。
今思うと両親が一番辛かったんだろうな。

多摩西部の小学校では友人に恵まれ、外で活発に遊んだり友人宅でファミコンをやるごく普通の小学生らしい生活を送る。
潔癖で神経質だった人見知りの少年は、泥まみれになって遊ぶたくましい子供へ成長した。

【中学校~高校】
1988年4月に地元の公立中学校へ入学。
同級生Aの影響を受けて鉄道趣味に目覚める。
多くの友人を作り学校生活を満喫していたが、当時の担任から「S也は人付き合いが下手なんだよ」とよく言われ不満を抱いていた。
俺の事を分かっちゃいないと反抗していたが、成人してから先生が言いたかった事が何となく理解できるようになった。
真意は分からないが、私が八方美人だった事を指摘したかったのではないかと推察している。成人するまで距離を取る事もせず分け隔てなく人付き合いをしていたので、都合よく利用される事も多々あった。

成人してからも友人にストーカーされるなどのトラブルはあったが、付き合う人間を見定める事を頑なに拒んでいた。
人を振るいにかけるみたいに思えたからだ。
だが間違っていた。気付いた時には先生は他界され、泣きながら墓前で「先生ありがとう」と感謝の気持ちを伝えた。
未熟だった自分自身に憤りを感じたが、人として恥ずかしくない生き方をすると先生に約束した。まだまだ半人前の未熟者だが。
あの先生の事だから「味噌汁で顔を洗ってこい!」と言われそうだ。
現在は機嫌が悪くなるとすぐ顔に出てしまう点を直さなければと日頃から意識しているが・・・容易ではないけど、自分のため周りのためにも本気で頑張るぞ!
1991年4月に都立高校へ進学するが、入学してすぐ対人恐怖症に陥り、危機感を感じた私は、GW明けから某飲料メーカー(バレバレですが)の営業所で出庫作業のアルバイトを始める。
割と高めの時給や求人募集の「さわやかさを演出するのは君だ!」というフレーズに惹かれた訳ではない。
高校とバイトの両立を続け、自然に対人恐怖症の症状も和らぐ。二足のわらじは、高校生活が平穏そのものだったので苦にならなかった。
15歳からフォークリフトを乗り回し、出庫作業のほか検品やユニフォームの仕分け作業、繁忙期は駅の空き缶回収・イベントでの売り子など業務は多岐にわたる。
時給1000円のバイト代は学費・定期代・実家(2万入金)で使い、残りは交遊費という今より贅沢で羽振りの良い生活を送っていた。5年近く勤務していたので居心地は良かった。
体育会系の職場という事もあり、今の時代では有り得ない仕打ちを受ける事も多かったが、打たれ強く図太い神経を持てるようになったので、鍛えられかえって良かったと思う。
対人恐怖症だった私は度胸がつき物怖じしない青年へ成長したのだった。
担任から大学進学を薦められていたが、働いている方が性に合っていると思い、卒業後も飲料メーカーでバイトを続けていた。
18歳になり自動車免許を取得したいと思う私に、思わぬ障壁が立ちはだかる。
それは夜逃げした時に、借金返済の請求を恐れて家族全員の住民票を異動させていなかった事である。
学校には市役所へ相談して何とか転校できたみたいだが・・・
父親を説得して住民票を異動させた所、案の定借金の請求が実家に押し寄せたらしいが、自営業を営んでいた父親は数百万円の借金を3年で完済したという。値引き交渉して数社はまけてくれたそうだ。

【20代~30代】
バイト代で自動車教習所へ通い普通自動車免許を取得。教習所も楽しかったなぁ。
同じ職場で配送をしていた同僚の誘いで、20歳目前だった1996年3月に大手運送会社へ入社。
今思えば正社員にするからと引き留めてくれたチーフの言う事を聞いて残っていれば、私の人生は安泰だったのかもしれない。
45年間で最大のターニングポイントだったといえる。
19歳で一人暮らしをするきっかけとなった某大手運送会社では、朝6時半頃に出勤し伝票と荷物の仕分け・積み込みを行い、午前中に30~40軒ほど配達した後はターミナルの社員食堂で昼食を取り、午後は残りの配達・営業活動しながら集荷を行い、再びターミナルに戻って自分の荷物を下ろし、同じ班のメンバー全員の荷下しが終わるまで手伝い(22時ぐらい)という感じで勤務していた。よくやっていたな。
1996年2月に職場から車で10分ほどにあるワンルームアパートを借りて1人暮らしを始める。結婚するまで8年近く住んでいたが、この引越が原因で私に懐いていた妹との溝が深まり、未だ妹とは仲が良くない。義理の弟も好きではないが、妹の子育てが落ち着いた頃に歩み寄ろうと考えている。
休みが少なかった当時の会社は、事務員が8時と18時に全員のタイムカードを一斉に押し、車両事故を起こせば保険に入ってないからと給料天引き、作業着は2着目以降が自腹で購入、さらに強制で持株もやっていたが株券を見た事がないなど?がつくような労働環境に疑問を抱き、入社から2年後の退職直前に管轄の労働基準監督署へリーク。電話のみの調査だったらしいが、労基署からの電話で社内はパニック状態だったと同僚から聞いた。
社用車が新車だった事しか良いと思えない職場だったが、お客様との信頼関係や営業スキル・社会人としての基礎など学ぶ事は多かった思う。
運送会社を退職した私は、某自動車メーカー部品物流センターにある自動倉庫で、出庫作業や在庫管理・マシントラブル初期対応を担当。
他部署の応援やクレーム処理なども任せられ“何でも屋”と重宝されていた。
生産性・業務効率向上を図るため、作業の傍ら業務改善提案書を積極的に作成、経済効果など数字で成果を感じられたので、やる気に満ちあふれバリバリ仕事をしていた。
不景気の煽りで給料カットする話が浮上し、2年ちょっとで部品物流センターを退職。
その後は小さい運送会社を転々とするが、事業所の閉鎖や業務打ち切りの影響を受けリストラに遭ってしまう。
さらに私が23歳の時、金銭トラブルに巻き込まれてしまう。
かつての同僚から病気になった娘のため健康保険証を貸してくれと泣きつかれたのだ。
何度も断ったが、悪用しないとの約束を交わしたので、仕方なく保険証を貸したのだが・・・野郎は私名義で消費者金融3社から150万円借りてしまう。
身に覚えのない請求書が自宅に届き、彼を問い詰めて白状させたが、相手に返済能力が無い上に警察へ相談しても埒があかない状態、結局数ヶ月は仕方なく自腹を切って20万ほど立て替えで返済、交渉を重ねた結果立て替え分も含め彼の嫁の実家でお金を用意してもらえる事になり金銭トラブルは解決した。※写真は本件と無関係な私のお金
自腹で返済している間は極貧生活を送り、コンビニのバイトをしていた友人の好意で、廃棄になる食パンや弁当をいただきながら飢えを凌いでいたが、その時は捨てる神あれば拾う神ありと友の有難みを感じた。チョコチップスティックにもお世話になりました。
あんなクズのために、なぜ苦しい生活をしなければならないんだと自分自身も恨んだ。
でも何とかなるさと自分に言い聞かせて必死に過ごした。そして人間不信となり、他人へ簡単に物やお金を貸さなくなったのだ。
そして時は流れ2004年5月、28歳で結婚する。
相手は5人目の彼女で、2年間お付き合いをしたシステムエンジニアの女性だった。
早大卒のうえ頭も切れて口も立つ、やり繰り上手で頭が上がらなかったが、私の曲がった根性や考え方を叩き直してくれた彼女には今も感謝している。ボコボコにされた事を除いて・・・
結婚した当時は割と安定した運送会社で金型を配送していたが、100Kg近くある荷物を日常的に手下ろししていたため、腰を痛め2年ちょっとで退職。これが物流業界から卒業するきっかけとなる。
長期的に継続可能な職業としてビルメンテナンス業を見つける。裏方的な仕事に惹かれた。
未経験で全くスキルが無かったため、ハローワークの紹介で入校した職業訓練校へ半年通いながら、消防設備士・危険物・電気工事士・ボイラー技士など仕事で必要な資格を取得する。 (写真は消防設備工事実習風景)

【30代~40代】
職業訓練校修了の期限が迫り、焦っていた私は求人誌で見つけた設備点検業者に入社。
面接を受けた本社や会社案内は立派だったが、配属となった横浜営業所は、定時になると皆一斉に机からウイスキーや焼酎を取り出し、飲みながらパソコンに向かうという昔ながら?の職場環境だった。
社用車や電車で神奈川県内にあるマンションを数件巡回し、電気・空調・給排水設備の点検を行う仕事だったが、消防設備点検では入居者宅にお邪魔する事が多く、これはかなり神経を使う作業だった。だが人命を守る設備を維持する仕事にやりがいや誇りを持っていた。
ゴミ屋敷みたいな部屋やマル暴事務所と用途も多様で、出来る限り感知器以外は見ず速やかに点検を終わらせるよう作業していたが、1人でマル暴さんへ行かされた時は生きた心地がしなかった。若い衆にイキられても怯まなかったが、偉い方が「若いモンが失礼しました」と紳士な対応された時はビビッてしまった。
飲酒が常態化している事務所で、終電近くまで酔っ払いの説教に付き合わされる日々に疲れ果て数ヶ月で退職を決意。
退職前は現場に置いてけぼりにしたり、社員旅行ではマイクロバスの運転手をやらせるなど嫌がらせを受けたが、妻や味方になってくれた先輩2人の存在が唯一の支えになっていた。
丁寧かつ謙虚な姿勢で応対するコミュニケーション能力は、この仕事を通じて磨かれたと思う。
退職後は大手私鉄系ビルメンテナンス会社へ入社するのだが、内定から入社まで数ヶ月期間が空いてしまう。
その頃父親のガンが発覚したため、その空白期間を利用して、父親が1人で経営していた自営の仕事を母親と2人で切り盛りする事にした。
私は父のタウンエースで配達・引取、母が実家で電話番や受発注・伝票処理という役割分担で続投。利益率が悪い仕事でも得意先のためと、ひたむきに働いた父の偉大さを実感し涙した。
病院に行くのを拒んでいた父親を説得したのは当時の妻で、父親の代打に入る事を提案したのも彼女だった。父はガン発覚から入退院を繰り返し、10ヶ月ほどで父は他界した。
亡くなる数ヶ月前に父の希望で自営業を畳む。
就職したビルメンテナンス会社では、主に施設内の電気・空調・給排水設備の保守・点検・運転管理業務、保安業務(警備)、清掃の応援・近隣の1人現場(私は6件担当)の応援、担当の事務仕事(シフト作成以外は全て経験済)と業務内容は多岐にわたる。安全衛生推進者も担当した。
異動も多く新宿の地下街・某区役所・大手食品メーカー仮本社・某官庁物件を渡り歩き、約10年で様々な設備や人と触れ合う事が出来たので、何だかんだ文句を言っても私の人生経験を豊かにする事ができた良い会社だったと思う。※この会社では語り尽くせないほど様々な出来事があったので、機会があれば別の記事で語りたいと思います。
ちなみにこの会社は、一番最初に直接応募して書類選考で落ちたが、粘って転職サイト経由でエントリーして内定を勝ち取った経緯がある。往生際の悪さも役に立つもんだな。
ビルメンテナンス会社に勤務し始めた頃から、なかなか子供が出来なかった事や持病の悪化を懸念して専業主婦をさせていたストレスなど妻の不満が爆発し、妻が私に激しく暴言や暴力を振るうようになる。元某女性議員みたいだ。
私から歩み寄り数え切れないぐらい話し合いをして、意見や不満に耳を傾けていたが、暴言や暴力がエスカレートする一方だった。
だが私が至らなかったせいで彼女の心を傷つけて申し訳なかったと今も思っている。
寝込みを何度も襲撃され、私の鎖骨や肋骨が折れる激しいパンチや蹴りを受けたが、彼女の立場を守るため医者に行かず、周りに悟られぬよう痛みに耐えながら仕事に行く日々が続く。
自分の力不足に申し訳なく思いつつ、暴言や暴力に耐えるのに限界がきていた。

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2015年10月にお互いの将来や幸せのためと離婚を決意、家を飛び出し弁護士を雇った私は、長期戦を覚悟して翌年3月にビルメンテナンス会社を退職。車など処分して埼玉県内へ転居。
2016年5月から東京家庭裁判所で毎月調停が行われ、その間に鬱病を発症、同時に他の障害も発覚、最終的に妻側が折れる形で2017年1月に離婚が成立する。(詳細は下記リンク記事参照)
今でも彼女に対する贖罪の念は消えないが、そろそろ私自身の人生も前向きに考えなければと思う今日この頃である。

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離婚後に関しては他の記事で取り上げたりしているので、割愛させていただきますね。

書き切れないぐらい、他にも様々な出来事がありますが、今回はこれにてお開きにさせていただきます。
20代と比べ体重が20kg以上増えた現在の私は、体だけでなく人としても紆余曲折を経て成長したかなと思っています。前へ進むためには過去を振り返る事も必要ですが、間違っても留まって過去の栄光に浸るのはやめましょうね!
これまで様々な資格試験や求人応募にチャレンジしましたが、2021年7月は新たな挑戦に挑みます。自信なくても全力投球でやりますよ。
将来のため、大切にしたい人のため、そして自分自身を高めるため・・・
そして今年は八方塞がりの年・・・厄払いするか真剣に悩んでいる踏切の番人なのでした~アセアセ
7月の採用試験結果がどうあれ、これからも環境の変化や出会い・別れを繰り返していくのでしょうね。
この先は何が待ち受けているのだろうか。
まだ人生の折り返し地点ですが、再起をかけてこれからも踏切の番人は走り続けます・・・
これまでの経験から私が言える事は、
「何事も成せばなる」
「ピンチはチャンスに変えられる」
「自分軸を見失うな」
「失敗は成功の糧になる」
「諦めなければ何とかなるさ」
「不安な時は大丈夫のおまじない」
まだまだありますが、こんな感じですかね。
私が言うと説得力ないかなアセアセ
コロナの影響もあり世知辛い世の中ですが、生きていれば楽しい事もあれば辛い時もあります。だからこそ命を大切にしましょう!
以前も言いましたが、毎日クソったれと思っている私ですら、1日に最低ひとつは嬉しかったり良かったと思える出来事が起こります。些細な事でもみんな平等に起こるものなんですよウインク
ドン底でも何とかなるものですから、諦めずにマイペースでコツコツ頑張って生きていきましょう!!
私だって文章以上に辛い思いしても乗り越えてこられたんだから、皆さんだって大丈夫ですよグッ大丈夫、大丈夫、大丈夫ウインク
長文となりましたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
私のサクセスストーリーが、皆様方の生きるヒントにお役立ていただけると幸いです。こんな感じで45年を生きてきた私ですが、改めて今後ともよろしくお願いいたします。
今月の投稿はラストです。来月も皆様にとって素敵な1ヶ月となりますように流れ星