中央構造線が通る村の風景 | 国立公園鉄道の探索 ~記憶に残る景勝区間~

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国立公園内を走る鉄道の紹介と風景の発見
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[国立公園鉄道の探索]

中央構造線が通る村の風景

 

 

長野県南部の大鹿村には、関東から九州まで約1000kmに及ぶ日本最大の断層帯、中央構造線がほぼ南北方向で通っています。

南アルプスジオパークの中央構造線エリアの指定区域にもなっています。

 

大鹿村では、中央リニア新幹線南アルプストンネルの工事も進められています。

中央新幹線計画当初は、南アルプスを迂回して、木曽谷か伊那谷を通る案も浮上しましたが、

コスト面などから、南アルプスを貫き中央構造線と直交するルートが選択されました。

 

その大鹿村では、中央構造線エリアならではの風景が見られます。

 

 

 

大鹿村の中心地に近い下市場付近の国道152号線から伊那山地の大西山を望みます。

緊迫感漂う風景です。

1961(昭和36)年の集中豪雨の時、大西山の東側斜面では大崩壊が発生しました。

崩壊礫は川を越えて対岸の集落まで達し、42名が亡くなる大災害となりました。

その時の崩壊斜面は、今もなまなましい姿で迫って見えます。

 

 

 

崩壊した大西山の山麓は、復興の象徴・「大西公園」として整備されています。

 

 

 

 

 

大西公園には、大西山を背景に、昭和36年の災害で被災した方々の慰霊のため「観音菩薩像」が建てられています。

 

 

 

 

 

 

大西公園の一角には、昭和36年災害時の崩壊礫がそのまま保存されているエリアがあります。

 

 

 

伊那山地の大西山は、中央構造線の西側、つまり内帯(領家変成帯)側にあたります。

そこにはマイロナイト(mylonite 圧砕岩)と呼ばれる「9000万年程前に断層の深いところで変成作用を受け、細粒多結晶化した硬い岩石」が分布して、急斜面が続いています。

                                                                                  

 

 

 

 

 

 

崩壊礫が保存園や崩壊した急斜面にも植物が繁茂し始めたところも見られました。

 

 

 

 

 

大西公園から、小渋川の上流を見渡せます。水面はV字の谷へと続いています。

 

 

 

 

大河原という地名のところで、小渋川と青木川は合流します。

合流地点の小高くなってところに「中央構造線博物館」があります。そこへ移動することとします。

 

 

 

 

「中央構造線博物館」で、学芸員の河本和朗氏から大鹿村や南アルプスの地質についてのレクチャーを受けました。

様々な分野に造詣の深い方で、新しい学説についての解説も受けました。この方面については、全く私の知識は足りない、と痛感させられました。

 

 

 

 

 

 

館内に展示された大鹿村の1万分の1のスケールの立体地質地形模型。10mの等高線で切り抜かれた1mm厚のコルク板が積み重ねられた平面と断面、両方みられるこの展示、大変分かりやすい内容でした。

 

「リニア新幹線南アルプストンネルの工事で、何か地質的な発見があるかもしれませんね」と私が質問すると

「いや、それはないでしょう。南アルプスの地質構造はほぼ分かっておりますから」と河本氏が答えられたのは印象的でした。

 

地表に現れている地層の向き(走行)と、傾き(傾斜)から巨大な南アルプスの山体の内部も凡そ解明されているようです。

この作業は、いくつもの露頭を探査しなければ精度があがらないと思われますので、相当地道な研究の積み重ねがあったことは間違いありません。

 

 

 

 

 

 

館内には、天然記念物の指定を受けている「北川露頭」の模型もあります。

内帯に位置する領家変成岩の花崗岩(画面左側)と外帯に位置する三波川変成帯の結晶片岩(画面右側)北川露頭で接して、明確な中央構造線界となっています。

 

北川露頭そのものは、、風化のため今は明確に識別できなくなっているようです。

 

 

 

 

 

博物館から、谷の東側、外帯側に移動します。

中央構造線が走る谷の東側には比較的緩い斜面も見られます。

道沿いにビューポイントを示す案内札も建てられています。

 

 

 

 

こちらは、中央構造線の東側にあたる緩斜面に開けた上蔵(わぞ)という集落です。

鎌倉時代に建てられたといわれるお寺もある、古くから開けた集落です。

緩やかな斜面は、地すべりの跡に出来た地形と考えられています。

地すべりには免疫性があるといわれ、再び活動し始めるまでにはかなり長い年月がかかるようです。

ここも、中央構造線エリアの特徴的な風景です。

 

 

 

 

 

上蔵集落を見下ろすビューポイントから、南側には「鳶ヶ巣の崩壊地」が見渡せます。

ここの地質は、かんらん岩が水を含んで変質して出来た蛇紋岩からなるそうです。

地すべりや崩壊を起こしやすいリスクの高い地質、ということになります。

小渋川の谷間で一旦外に出たリニア中央新幹線は、計画ではこの蛇紋岩地帯に突入することになります。

 

 

 

 

 

小渋川のV字の谷は、中央構造線と斜めに接する小渋断層に沿って続いています。

 

 

 

 

小渋川の泥岩と左岸が混ざる黒っぽい河原に降りてみました。リニア新幹線工事に関連する施設も見られます。

河原の岩石も上流の崩壊地が主たる供給源となっているそうです。

 

 

 

小渋川の河原からも、大西山の崩壊斜面は見えました。

 

 

 

下市場の集落では「リニア反対」の看板も立てられていました。

 

 

 

 

 

小渋川の上流方向に南アルプスの主脈にあたる赤石岳(3120m)が望まれました。

あの稜線の向こう側は、静岡県の大井川源流部になります。

 

長野と山梨の山岳地帯に槍のような形で突き出している静岡の領域が大井川源流部です。

間ノ岳(3189m)を北端として、笊ヶ岳(2629m)と聖岳(3012m)を南端とした24,430haの広大に山林地帯は、「井川社有林」という「特種東海製紙」が所有する社有地で、一帯は稜線付近を除いて「南アルプス国立公園」指定区域からも除外されています。

渋沢栄一と並ぶ明治の大実業家・大倉喜八郎が、1894(明治27)年に徳川幕府の重臣酒井家から購入して以来、大倉系列に由来する会社が社有地として持ち続けています。

 

 

作家の砂川幸雄氏の「大倉喜八郎の豪快な生涯」(草思社 1996年)には次のような一節があります。

「この土地を買い取った時、大倉組の役員たちは、『いったいこの山をどうやって経営したらよいのか』と額を寄せて協議を重ねた。

この様子を見て大倉は『あのように人跡未踏の奥地に山林を買っておけば、万一事業が悪くなっても、この山だけは手がつけられまい。だから必ず遺産として残るだろう』と言ったという。 」

 

リニア中央新幹線は、その「井川社有林」の地中を潜り抜け、大井川上流山岳地帯の椹島断層や井川・大唐松山断層を貫き、赤石山系の小河内岳と大日影岳の間の直下を通って長野県の大鹿村へ入るコースでトンネル工事が計画されています。

 

( * 井川社有林成立の経緯については、幕府直轄林が明治時代になって村人の共有林として認められ、そこを県が公有林として買い取り、続いて豪農資本家に水路補修の報奨として与えられ、そこを大倉喜八郎が買い取ったとする見解もあります)