茨城県最強危険心霊スポット★行ってはいけない10選 | 大日本観光新聞リンクbjtp.tokyo

この9番目に昭和18年の土浦駅事故の場所が紹介されています。


写真の橋の下の道は、土浦駅を利用していたときに自転車置き場から自宅に行き帰りに必ず使った場所で、最終電車で帰ってきたときもここを通りました。


ちなみに一度も幽霊にあったことはありません。


事故は1943(昭和18)年10月26日の18時45分からわずか6分のあいだで起きました。秋の終わりに近いからもう真っ暗だったはずです。


後の三河島事故(1962年)のような貨物列車が絡んだ三重衝突事故です。


まず、土浦駅貨物側線で車両入れ替えをしていた貨物列車が間違えて上り本線に入りました。間違えた指示をして上り本線を塞いだことで気が動転した信号掛は、上り線の信号を赤にするために連絡する措置を取りませんでした。


3分後、上り貨物列車が土浦駅に接近。


上り貨物の機関士が異常事態に気づいたときは、すでに手遅れでした。しかも貨物列車は土浦駅手前で速度を上げており、ブレーキもかける間もほとんどなく激突したとのことです。


土浦駅の南側、桜川橋梁を渡ると10パーミルの上り勾配になります。

戦時中、燃料不足もあり貨物列車は本数を減らされてうえ、機関車の能力以上の貨物を一度に運ばされたそうです。

そのため10パーミル程度の勾配でもよく立ち往生をしたことから、土浦駅を通過する貨物列車は土浦駅でできる限り加速しようとしたそうです。


激突した貨物列車は脱線し、貨車が下り線を塞ぎましたが、このときも下り信号を赤にせず、列車に連絡しようとしなかったミスがさらに悲劇を生みます。


3分後、下りの客車列車が土浦駅に進入、そのまま下り線を塞いだ貨物列車に激突して脱線。


列車は前2両脱線転覆(大破したと書いていた記事を見たことあり)、3両目は桜川橋梁から落ちかけ、4両目は川に落ちてしまいました。

5両目以降は、橋の対岸だったため無事でした。


私が高校時代に通った予備校の講師(退職した教師)の友人がこの車両の5両目に乗っていて命拾いをした話をきいたことがありますが、さきほど調べたら坂本九(歌手1985年日航機事故で他界)もこの列車に乗っていたときいて驚いてます。

なお、坂本九氏は笠間市に疎開したこともあって、笠間市と縁があり、笠間市内の駅(常磐線では友部、岩間)で彼の曲が発車メロディに使われています。


上の話は若い頃読んだ地元の人が書いた事故の記録も参照にしています。不幸にも引越しなどで失ったため、本の内容を思い返しながら書いていますが、現場は地獄絵図だったそうです。


地元の町内会や軍隊などが総出で救助活動に当たったが、そもそもこれだけたくさんの(死傷者は200人以上)怪我人を収容する病院が近くになく(土浦には海軍病院があったが駅から離れていた)戦争中のため治療の薬品、包帯なども不足し、そのまま河原にたくさんの怪我人を寝かせて、亡くなる人もいたそうです。(まさに野戦病院のようだったと書かれていました)


特に川に落ちた4両目の乗客の捜索は難航したそうです。


(のちに、地元の人からこのとき見つからなかった人が1人いて、その人が夜な夜な現れるという幽霊話をきいたことがあります)


この事故での死者数は110人で、日本鉄道事故史上6番目になります。(桜川の碑文には94名と書いてあります

、なお後に常磐線で機関士をした人の日記では、鉄道業務連絡により事故があったことが知らされ、死者数50と記録されたそうです、戦時中で正確な記録が難しかったのでしょう)


太平洋戦争中ということで、この事故については報道管制が敷かれ、全国には報道されませんでした。

(ただし地元の新聞社は事故の犠牲者の名を報道していました)

そのため、この事故については犠牲者が多数いたにもかかわらず、長いあいだ存在すら知られなかった幻の鉄道事故と言われた時期がありました。


桜川橋梁近くの慰霊碑の存在も知らない市民が多く、事故に直接関わった人々も、今はほとんど世を去っており、かなり風化しています。