みなさんこんにちは。前回からの続きです。
府南部、和泉市(いずみし)の「弥生文化博物館」で開催されていた「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」という、特別展を訪問した際の様子をお送りしています。
現在の「JR阪和線」の前身であった「阪和電気鉄道」。大阪・和歌山間の「超高速運行」を最大の目標とした、その会社創設の背景についてさまざま探っています。
日本初、奇しくも日本最後の多扉車となった「京阪電車5000系」。
置き換えの新型車両導入計画の見直しにより、引退が6月から9月に延期された。守口市にて。
今日、電気鉄道で用いる大元の電気というのは電力会社で発電されたものです。
鉄道会社は、電力会社から購入した電源を、自社の変圧所で切り替えて架線に流すことで、電車の動力源としています。
いずれにしても「電車を動かすために電力会社から電気を購入する」ということには、なんら不思議はない、ごく当たり前のことですが…
日本各地に「電気鉄道」が実に、雨後の筍のように多数登場しはじめたのは明治30年代以降のことですが、戦前の関西での、一般家庭や事業所などへの「電気供給」の方法のひとつというのは、電鉄会社が電車を走らせるために自家発電していたものをその沿線に住む住民や企業へのサービスとして供給をしたことに遡ります。
いまでは、にわかに信じられないようなエピソードですが…
例に挙げるのは、昭和初期に「京阪電車」が自家発電した電気を供給していた地域一覧。
自社エリア、つまり、大阪・京都・滋賀一帯の沿線一帯と、本来の目的、つまり自社線に対する電力供給が併せてなされています。
戦前はこのように、鉄道会社が発電と電力供給をしていたり、逆に、電力会社が鉄道の経営をしていた例があまたあったようです。
例としては、京都・出町柳から八瀬方面に向かう「叡山電車本線」を建設したのは、「琵琶湖疎水」を用いた水力発電により、豊富な電力発電を可能にした、京都が営業エリアの「京都電燈(現在の関西電力)」という会社でした。出町柳にて。
京都・奈良間を結ぶ「奈良電気鉄道(現在の近鉄京都線)」への資本投入にとどまらず、運輸面での社員教育の実施。
さらに、淀川右岸に「新京阪鉄道(現在の阪急京都線)」の建設。カーブの多い京阪線に対して、阪和の事例と同様に、高速別線として、極力直線の線形で建設を推し進めた事業でした。
この「新京阪鉄道(後に京阪電鉄新京阪線となる)」に投入された「デイ100型」という車両は、戦前の最高水準ともいわれる名車でした。
当時、私鉄では小型車両で低電圧、少ない車両編成であったのが当たり前だったのに対して、
現在にも通用する、高速運行で長編成という斬新な概念を実現させたのは、まさに京阪の取り組みの賜物でした。
ただし、ここに戦争に向かう国策が立ちはだかって来ます。
「電力の発電供給は、各地域にひとつ設けた電力専門会社でしか出来なくなる」という制約が課され、京阪はじめ、他の鉄道会社が運営していた電力発電・供給事業は、あらたに創立された電力専業の「関西配電(現在の関西電力)」に一本化されてしまいました。1942(昭和17)年4月のことです。
電気鉄道による、この電力事業による収入というのは、結構な割合を占めていたことは、この表からよくわかります。
殊に京阪の場合では、全体収入の3割を超えるという優良事業だったのですが、国策により、それらをすべて、新設された「関西配電」に現物出資せざるを得なくなりました。
さらに、心血を注いで多額の出資を払い、建設した「阪和電気鉄道」は戦中に国有化。
淀川右岸に建設した高規格の「新京阪線」は、戦時中の「阪神急行電鉄(阪急)」との合併を経て、戦後の会社分離の際、阪急側に割譲されてしまう…などということもあり、戦前の関西一帯にわたる事業を失った京阪は戦後、多角経営から明治の開業時に立ち返り、本来の鉄道事業に軸足を置いた経営を図ることになります。
余談ですが、昭和の終わりまで関西には、鉄道会社を親会社に持つプロ野球球団が4つありましたが、これに京阪が加わらなかったのは、戦後手元に残った、カーブの多い明治以来の京阪線を立て直すため、他の事業には目を向ける余裕がなかったためだ、ともいわれています。
本題からは外れた感がありますが、戦前の関西私鉄界に、陰に陽にとさまざまな方面に影響力を及ぼしていたのが、わたしの大好きな京阪電車だったとは、なんとも想像しがたいことですが、これが明らかな史実でした。京橋にて。
次回に続きます。
今日はこんなところです。