HiroshimaTrain etSETOra / 呉海軍工廠線鉄橋と郷土史 | 安芸もみじ ─ Photographs, Historys, Railways,-JAPAN┃広島
2021年06月15日(火) 20時30分00秒

HiroshimaTrain etSETOra / 呉海軍工廠線鉄橋と郷土史

テーマ:機動車•DC・HV etc.
⭐⭐⭐ 郷土史 日本史 私撰集 ⭐⭐⭐
🍁 鉄道から見る郷土史シリーズ 🍁

広島の観光列車 キロ47形 etSETOraです。

今回の写真は全て呉駅を挟む上下の鉄橋からで、記事内容は郷土史となっています。

エトセトラは緊急事態宣言延長下においても、金土休月と週4回の運行は滞りなく頑張って走っています。



まずはタイトル通り呉海軍工廠線の鉄橋を入れて、堺川橋梁を渡るエトセトラから。

1876(明治9)年に江田島へ海軍兵学校が開校し、1889(明治22)年に江田島対岸となる本土へ、呉鎮守府設置と同時に海軍造船部が設置されました。

造船部は順次設備を拡充し、それに伴う関連民間企業も進出または設立されて、呉は官民一体の先進技術工業都市へと成長を始めました。



都市計画には軍都広島と軍港呉を結ぶための鉄道建設も組み込まれ、呉線は1903(明治36)年に海田市~呉間が開業し、三原~呉間は1935(昭和10)年に開通して全通となりました。

呉線の広島~呉間の開通を以て重工業地帯の整備も一旦完了となり、日本海軍は組織改編を行い海軍造船部は呉海軍工廠となります。

鉄道輸送によって物資の充実が拡大し、その後も整備による拡大は行われ、東洋一と呼ばれるほどにまで設備は充実し、世界レベルでの先進技術も導入と開発が行われるようになります。



工員の総数は横須賀・佐世保・舞鶴の3工廠合計を越え、ドイツのクルップと比肩しうる世界2大軍需重工業地帯となりました。

呉海軍工廠線鉄橋は広島~呉間の開業に伴って開通しているので、現在隣を走っている呉線堺川橋梁よりも約30年先に架橋されています。

さて、呉海軍工廠線ですが、広島から官営鉄道の所有機関車に牽引されて来た貨物列車は、かつて海側へ隣接していた貨物ヤードから、海軍所有の機関車に変わります。



海軍機関車の形式は官営鉄道→国鉄とは別の呼称があり、大和ミュージアムの巨大パネルに写っている機関車はETという形式です。

日立製の15t産業機関車で、戦後に国鉄移管されたためにETが形式となってしまったのですが、本来は呉海軍工廠総務部が管理する国有財産の公称番号で、ET01~ET31までがクレーンなど各種重機、ET32以降のナンバーが機関車へ割り振られていました。

ラストグループとなるET71~74号機は1944(昭和19)年8月31日~9月初旬に増備車として一斉に納入されており、その以前となる1903(明治36)年~1944(昭和19)年間に使用されていた機関車も、同種の豆タンクのようですが残念ながら資料を見たことがありません。



軍用車両は当然ながら軍事機密なので資料は乏しいのですが、将来また私が見かけたり知り得ることがあれば、記事で紹介したいと思います。

尚、呉海軍工廠線の機関車は、1945(昭和20)年6月22日の呉空襲により死傷者数千人を出し呉海軍工廠は機能停止に陥るも、全機が被災しつつも健在であり、同年12月に戦時倍賞品として大蔵省に移管されます。

1946(昭和21)年1月から機関車は連合軍への貸渡機となり、旧呉海軍工廠線は進駐軍の物資輸送に使用されていましたが、1952(昭和27)年4月頃から日本通運によって貨物列車が運行され、国鉄機がそのまま乗り入れて営業キロは3kmとされます。



1951(昭和31)年4月に機関車は大蔵省から国鉄に移管されるも、国鉄形式は付与されずそのままET32~74として広島第二機関区呉支所の所属機となります。

呉駅と広駅の構内入れ換えに使用された機と、国鉄仁堀航路用の入れ換え機になった機があったようですが、1957(昭和32)年10月1日付けで全機が廃車となり、1962(昭和37)年に呉貨物線(旧呉海軍工廠線)は廃線を迎えて、1964(昭和39)年9月に線路は撤去されました。

と言うことで、気動車の記事でありながら蒸気機関車の話しを進めてしまいましたが、呉海軍工廠線鉄橋に関連しての郷土史と言うことでお願いします。



それに過去には瀬戸内マリンビューの記事で、糸崎機関区物語もやりましたしね。

さて、今日の写真ですが冒頭は呉駅から発車したエトセトラが堺川踏切を通過し、続いて堺川橋梁を渡って行くシーンです。

大和ミュージアムにあるETの巨大パネルと呉駅前に掲げてあるWelcome看板を挟んでは、川原石駅から呉駅へ入線するために二河川橋梁を渡るエトセトラを、連写から選り抜きました。



交互なんですが次は再び堺川橋梁で、呉海軍工廠線鉄橋とは反対側、そして再び二河川橋梁と目まぐるしく入れ替わるのですが。

1日ワンチャンスなので、今日はどーしよーかなーと、その日の気分で呉駅から右に向いて歩くか左へ向いて歩くか決めたので(笑)

ずっと雨が降りそうな曇天でしたが、ラストの2枚の時だけ陽が射してくれた日だったので、初夏の水面を意識してみました。

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お気に入りの和菓子ある?

Today is Japanese sweets day,今天是日本甜點日


戦前・戦中の海軍機関車は、海軍工廠内で整備・検査されていたようですが、重要検査・全般検査は広島工場(現 JR貨物広島車両所)で行われていたようです。

ところで、発展途上国だった明治時代から欧米列強と肩を並べられる迄に成長し、戦後は技術立国日本の重工業の一角を支えそして牽引して来た呉の工業地帯ですが。

中国の高品質・低価格の波に圧されてついに、日新製鋼は呉工場を全面閉鎖して製鉄所を廃炉とすることを昨年発表しました。


呉製鉄所は日本製鉄の傘下に入った日新製鋼の主力拠点で、呉海軍工廠の一部を払下げられて1951(昭和26)年に稼働開始した製鉄所です。

呉海軍工廠は造船技術の卓越は周知のことですが、製鉄・鉄鋼においても出雲の和鋼に着目し、特殊鋼として応用するなどの先端的な鉄鋼研究の拠点でもありました。

鉄鋼関係の技術はJFEや日新製鋼などの大手鉄鋼メーカに引き継がれ、戦後日本の復興から高度成長期への礎となりましたが、それ故に設備が老朽化しており、粗鋼の生産能力も後続の製鉄所に比べて小規模となっていました。


高炉2基のうち1基を昨年春に休止し、残るもう1基の稼働も今年9月までに停止予定で、高炉で造った粗鋼を鉄鋼製品に加工する設備も2023(令和5)年9月末までに全て停止する見込みです。

工場閉鎖は呉だけでなく、旧住友金属系の和歌山製鉄所なども合理化予定としており、グループ全体の粗鋼生産能力の約1割にあたる500万トンの生産量を減らすようです。

製鉄は国力を支える自動車・造船の根幹であり、日本が国家として衰退を始めるその分岐点に立ったとも言え、未来日本の最大懸念事項となっています。


日新製鋼は今後、航空機のエンジン向け部材のチタン丸棒の製造から撤退し、船舶や橋げたなどに使われる厚板、ステンレスやめっきの製造拠点の集約も進めるようで、協力企業を含めた雇用と地域経済への影響は図り知れません。

今後の呉市の経済と、その影響を諸被りする広島市、そして広島県全体としてどれ程の影響があるかは想像に難くありません。

全国的には2025年問題も目前に迫り、広島は芸備線問題に加え呉製鉄所の閉鎖と、先行き暗いニュースが続きます。


さて、6月16日は和菓子の日。

848(嘉祥1)年の今日、仁明天皇が16コの菓子や餅を神前に供えて、疾病除けと健康招福を祈ったとされ、こうした故事から1979(昭和54)年に全国和菓子協会が制定しました。

お気に入りの和菓子・・・・水羊羹とか水饅頭とか好きですよ。

ー鉄道から見る 広島郷土史の記事一覧ー


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