動車を作っていない方のGM。

 

東上線大山は聖地のようなもので、駅を出てハッピーロードに迷い込むと我を失って、ヨーカドーの前に並んだ自転車を将棋倒ししたりしたものでした。あの時手伝ってくれた警備員さん、今更ですがお詫びします。あの時のクソ中学生は55歳になりましたから許して下さい。

 

グリーンマックスの客車キットは、恐らく1975年、小4の頃から何となく組んでいた覚えがあります。ナハフ11とオハネフ12の2連をC11に引かせたりしていました。

 

当時は塗装はおろか窓セルも入れず、セメダインCで接着したオハネフのクーラーキセは屋根板に穴を明ける事もしないで、てんでの方向に傾いていた状況でした。それでも窓枠には水性レペの白を几帳面に爪楊枝で入れていた覚えがあります。

 

詰まり鉄道模型に開眼した時期からずっとお世話になっていたのがGMキットだった訳です。

 

 

977年も押し詰まった頃、突如GMからリリースされた旧型国電の板キット。発売と同時に41+55の車体と台車(TR23が無かったのでDT13で代用)、PS16を買って貰い(正月返上で家業を手伝う奴隷契約と引き換え)、早速その日の内に組み上げました。この説明書は現存する当時もので、550円と言う単価が過ぎ去った昭和を象徴しているかのようです。

 

その年の内に41+55、42+47の4両が揃いました。これらの旧国板キットは発売当初は動力化を念頭に置いておらず、同社完成品いわゆるグリ完の73系に増結として使用するとかしないとかTMSの製品の紹介にそう書かれていました。

 

当時小6で負けん気と食欲だけで生きていた私は、そんな勧告を頭から無視して動力化を図りました。動力は41が「走らせるとテレビにノイズが出るぞ的な」キハユニ26旧動力、42は新品のクモハ103新動力で、側板下部の出っ張りを削る事すらしないで動力を勘合した為、残念ながら動力車側の車高が少し高くなっていました。

 

それがどうした!

 

歓喜と寒気の土曜日、学校から帰って来てから亡父に模型屋へ連れて行って貰い、3時から5時まで塾へ行ったにしても、欽ドンが始まる7時半頃には完成し、Gメン’75が終わる10時頃にはトミー9スケールの9’オーバルを轟音立てて走っていた。翌日の日曜には勉強机の上を片付けて緑のタオルケットを山に見立て、周囲にエンドレスを敷いて空腹も尿意も忘れて走る姿に見入っていたと言う、

 

自分で作った電車がもう自力で走っている訳です。

 

何物にも代えがたいこの成功体験が後に鉄道模型の陥穽に導く事になろうとは。

 

 

以下次号。

 


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