東大震災の発災は日本の中枢に驚くべき被害を与え、多くの人命を奪った事は悲しむべき事です。

 

しかし、それによってそれまでルネサンス時代の印半纏を着て生きて来た日本人は、とにもかくにも菜っ葉服に着替えて近代のスタートラインにつく事が出来ました。

 

 

電化成った東京~熱海間にデビューしたデハ43200型、いわゆる第二次京浜系は、関東大震災で暗澹とした世相に少しでも明るさを取り戻そうと、茶の葉と蜜柑に因んだ明朗な彩色を施した結果世間の評判となりました。当初新聞などは「京浜電車」の愛称を付けて宣伝に務めましたが、品川から横浜方面へ走る京浜電気鉄道から

 

「それウチのパクリですから、名前変えて下さい」

 

とクレームが入った為、沿線地域名に因んだ「湘南電車」に改称して、1926年から運転を開始しました。

 

明朗で大胆な塗装の他に、2等車、郵便荷物車を従来のサロハ、デハユニ等の合造とはせず、専用の車両を用意した点が特徴で、編成単位での運用を基本とするコンセプトが伺えます。

 

M+T+Ts+T+Mの基本編成の熱海寄りに荷物車を連結し、多客時には更に東京寄りにM+T+Mの附属3連を繋げて堂々9連で天下の東海道本線を往来していました。当時としては世界最長の電車列車であった訳です。

 

 

東京と熱海をダイレクトに結ぶ事から、特に二等車には当時の文化人経済人が常にひしめいていたそうで、ある時たまたま乗り合わせた菊池寛と北原白秋が車内で論争を始め、小田原で降りる筈の白秋は

 

「いやマダマダ話は終わっとらん」

 

と熱海まで乗り越し、その間

 

「そもそもっ!赤い鳥っ運動っ!はだなっ!」

「ひゅおおおおーっ!!文芸春秋ううのおおっ…理念はああだなあああっ!」

 

等と掴み合い寸前の剣幕で真剣に論争をしていた、と当時たまたま2等車に乗り合わせた東京日日新聞の千葉亀雄によって記事にされています。