五島は、当時地味で寂びられていた渋谷に人を呼び込みたいと考えていた。
しかし当時は公職追放令の為、何も出来なかった。
五島は東急文化会館に目玉となる施設を探していたのである。
最初は「屋上で鯨を泳がせろ」と言っていた。
しかし、流石にこんな事は屋上に海水を送らなくてはならない上、海水量に建物が耐えられないので、この案は早々に頓挫する。
1938年、東京には東日天文館があったが、1945年の空襲で焼失し、東京近郊にはプラネタリウムの施設はなかった。
天文・博物館関係者側は、国立科学博物館の館長、岡田要と朝比奈貞一が中心となり、学術会議会長茅誠司博士、東京天文台(現在の国立天文台)の台長萩原雄祐博士等も所属する東京プラネタリウム設立促進懇話会を設立する。
同時に、東急文化会館の話を聞き、五島にプラネタリウムの設立を手紙で嘆願したのであった。
この手紙を受け取った五島は思案する。
「成程、プラネタリウムとは文化事業そのものではないか!
これは、文化会館に人を集められるだろう。
今の東京にはプラネタリウムは何処にも無い。
子供達だけではなく、大人も夢中になるぞ!」
【五島プラネタリウム 】
そう、直感した五島はプラネタリウムの建設案を幹部達に相談した。
プラネタリウムの提案は東急幹部達も賛成であった。
このプラネタリウム構想は、「東急文化会館に文化施設が欲しい」と言う五島の思いと「戦後の東京にプラネタリウムを!」という天文・博物館関係者の思いから生まれた。
そうと決まったら五島の動きは早い。
早速、文部省へ建設許諾の申請をしたのである。
この記事は2015-05-05
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