2度目の東名ハイウェイバスと東名静岡浜松線で駿河路を行く | ごんたのつれづれ旅日記

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信州から東京に上京したばかりの昭和59年5月に、静岡駅から東京駅へ向かう「東名ハイウェイバス」の上り急行便に乗車した時が、僕にとって生まれて初めての高速バス体験だった(「僕の高速バス初体験記①」「僕の高速バス初体験記②」)。

 

 
鉄道とは趣が全く異なる高速バス旅に一発で魅入られた僕は、1ヶ月ほど後に、「中央高速バス」で新宿から甲府へ出掛けてみた。

今では新宿を起点として山梨、長野、岐阜、愛知方面に数多くの路線網を展開している「中央高速バス」であるが、当時は富士五湖系統と甲府系統しかなかった時代である。

 

初めての中央自動車道の山深い車窓は、東名高速道路と異なる新鮮さを感じたものの、座席指定という点が物足りなく思えた。

「東名ハイウェイバス」は座席定員制で、空いていれば好きな席で車窓を楽しむことが出来たのだが、「中央高速バス」新宿-甲府線では、窓際席が指定されたにも関わらず、自分で座席を選べないことに幾許かの抵抗感を覚えたのである。

 

 

指定席とは、購入と同時に、その乗り物に乗る権利を獲得したという意味合いを持つ。

だからこそ、「東名ハイウェイバス」よりも混雑していることが多い「中央高速バス」では座席指定制が採用されたのだろうが、当時の僕は、指定席イコール不自由席と受け止めていたようである。

中央道を走ったのもこの時が初めてだったので、何処の景色を見たい、という目論見があったはずがない。

 

自分で選んだ座席を占められるならば、それが景勝地と反対側だったり、窓枠が視界を遮るようなハズレ席でも、たとえ窓際でなく通路側であったとしても、自分の責任として納得できる。

座席を指定する流儀は事業者によって異なるようで、国鉄の列車は車両の中央部の席から埋めていくらしい、とする文献を目にしたことがある。

バスの場合は、大半が前方の席から指定するようであるが、機械的に左列から窓側、通路側、通路側、窓側と順番に割り振る事業者と、最初は窓際を優先して縦方向に席を埋め、通路側は後回しにする事業者に分かれているのではないだろうか。

 

前から後ろまでぎっしりと窓際を乗客が占めていれば、混んでいるならやむを得ないか、と諦めがつくけれど、後方で窓際に空席が見られるにも関わらず、前方の通路側の席を指定されて、がっかりした経験は少なくない。

他人が座席を決定していることが、束縛されている感覚に繋がってしまうようである。

 

中央道の相模湖から上野原、大月にかけては、桂川が谷や段丘を刻む進行方向左側の眺めが良く、右側に座ると上り車線や山肌ばかりを目にすることになる。

僕が指定されたのは右席だったが、車窓に不満を抱いたのではなく、今振り返れば、つまらぬ拘りに固執したものだと思う。

 

 
当時の「東名ハイウェイバス」は、客室の床からタイヤハウスが飛び出しているような低床の車両であったが、座席数は横4列×縦10列に絞られて、前後の間隔や座面の幅に余裕が感じられた。

シートは、当時の国鉄列車のグリーン席と同じデザインの臙脂色で、そこはかとない高級感が漂っていた。

一方、「中央高速バス」新宿-甲府線の車両は、床が高いハイデッカータイプであったものの、座席が通常の貸切バスと変わらない横4列×縦11列と詰め込まれて、「東名ハイウェイバス」より窮屈に感じられた。

 

僕は、おそらく、最前列の席に座りたかったのだろう。

初めて「東名ハイウェイバス」東京-静岡線上り便に乗車した時は、発車間際に飛び込んだにも関わらず、運転席のすぐ後ろの席が空いていて、静岡から東京まで、あたかも自分が運転しているような心持ちで過ごすことが出来た。

運転免許もなく、高速バスどころか高速道路を走行する経験そのものに乏しかったからこそ、飛び切り面白く感じられたのだろう。

 

 
僕が初めて高速道路を体験したのは小学生の頃で、父が運転する自家用車で中央道の伊北ICから伊那谷を南へ縦走した。

本来は飯田ICで降りて父の実家に向かうはずであったが、高速道路の快適な走行に気を良くしたのか、

 

「このまま恵那山をくぐってみるか」

 

と、父が言い出した。

 

中央道が初めて産声を上げたのは、調布と八王子の間が開通した昭和42年であるが、愛知県側でも、昭和48年に多治見-瑞浪間が、昭和50年に瑞浪-中津川間と中津川-駒ケ根間が相次いで完成し、初めて信州に高速道路が伸びたのである。

昭和51年に伊北-駒ケ根間が延伸され、僕ら一家が高速道路を初体験したのも、この年であった。

 

 

岐阜と長野県境に掘削された恵那山トンネルの長さは8489m、道路トンネルとして当時日本一であり、世界でも、フランスとイタリアの国境にある長さ1万1611mのモンブラントンネルに次ぐ第2位であったことから、故郷では大きな話題になった。

往復1車線ずつの対面通行のために制限速度は時速40kmに抑えられ、お盆の真っ最中であったことも手伝って、トンネルの前後は大変な渋滞を呈していた。

山がのし掛かってくるようなトンネルの入口が近づくと、

 

「恵那山トンネル Enasan TUNNEL 長さ 8490m 標高 720m トンネル内 点灯せよ ラジオを聞け」

 

と、各放送局の周波数とともに大書された標識が目に入った。

トンネルの中でラジオが受信できるのか、と驚嘆し、これからくぐるのは特別なトンネルなのだ、と幼心にも気分が引き締まった。

 

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父は、車に備え付けられた8トラックカーステレオを聞きながら運転するのが常で、カートリッジのパッケージは「不滅の古賀メロディ」「石原裕次郎全集」「懐かしの軍歌」等々、如何にも戦中派らしい古いアルバムばかりが揃っていた。

 

8トラックカートリッジは、オープンリール式のテープレコーダーをコンパクトに包み込んだような形態で、再生に特化し、巻き戻し不要という特質がある。

8トラックカートリッジが開発されたのは昭和40年で、僕と同い年であるのだが、その3年前に開発されていたカセットテープでは実現していなかったステレオ再生が可能であったため、車載音響機器の他に、宴会場のカラオケ装置などに広く普及した。

僕らの世代で最も馴染みであるのは、ワンマンバスの停留所案内放送ではないだろうか。

路線バスの運転席の横に置かれ、運転手さんがボタンを押すと回り出す放送機器には、必ず8トラックカートリッジが差し込まれていた。

 

やがてカセットテープの音質や耐久性が向上し、更にCDやLD、MDなどが登場、合成音声による自動放送装置が開発されると、8トラックは瞬く間に廃れてしまい、平成の初頭には姿を消した。

 

 

子供の頃に刷り込まれた記憶とは恐ろしいもので、今でも僕は石原裕次郎や鶴田浩二の歌、そして軍歌なんぞをそらで歌えてしまう。

 

「古賀政男の曲に比べれば、今どきの歌手の曲なんか薄っぺらで、なんだあれは」

 

などと言う父の口癖に、心中で猛烈に反発していたものだったが、僕が気に入っていた8トラックカートリッジがなかった訳ではない。

その1つが西部劇の映画音楽集で、「駅馬車」「大いなる西部」「黄色いリボン」などとともに、心に強く刻まれたのが「ボタンとリボン」である。

 

A western ranch is just a branch of nowhere junction to me

Give me the city where living's pretty and gals wear finery

Oh, east is east and west is west

And the wrong one I have chose

Let's go where you'll keep on wearing

Those frills and flowers and buttons and bows

Rings and things and buttons and bows

 

昭和23年に制作された「底抜け二丁拳銃」の挿入歌であるから、父が好んだ歌謡曲よりも古いではないかと突っ込まれそうであるが、当時は軽妙なメロディとともに「バッテンボー」と広く口ずさまれたと聞く。

映画は未見なので、今でも「ボタンとリボン」を聞くと、幼い頃の家族揃ってのドライブを懐かしく思い出す。

 

 

ラジオを聞け、と命令されれば従うしかない。

恵那山トンネルの入口で、8トラックカートリッジを止めてラジオをつけると、夏の甲子園の高校野球中継が流れ始めた。

 

『ピッチャー、第1球を投げた!打った!ボールは二遊間を破って点々と外野を転がっている!2塁ランナーは、今、3塁を蹴ってホームへ向かう!レフトからバックホームが返ってくる!いい送球だ!クロスプレー!セーフ!セーフ!3対2!○○学園、逆転!』

 

白熱の中継を聞き流しながら、ラジオに何が起こるのか、と固唾を吞んでいると、

 

『こちらは日本道路公団です』

 

と、ラジオの音声を遮断して、朴訥な肉声の放送が割り込んできた。

 

『現在、渋滞しています。バッテリー切れを防ぐために、車のエアコンはお切り下さい』

 

遅々として進まない車の流れに目を見張り、高速道路でも渋滞するのか、とうんざりしながら、トンネルを抜けるのに30分くらいを要したものの、幸いにも、トンネルの内部はそれほど暑くなかったように記憶している。

恵那山トンネルは、通風孔を上半分に設けるために天井が低く、平成25年に天井板の崩落事故を起こした笹子トンネルと同じ構造であったから、かなりの圧迫感を感じた。

 

 

一家でドライブに出掛ける際には、ハンドルを握る父の隣りに座り、窓に映る景色を眺めることが無上の楽しみだった。

弟と助手席の取り合いになったこともあったけれど、いつしか、助手席に座るのは往路が弟、復路は僕、という不文律が出来た。

弟はどちらでも良かったのだろうが、復路は、進めば進むほど旅の終わりが近づくので、気が重くなるものである。

せめて助手席で景色を楽しんで過ごそうという、幼い僕なりの深謀遠慮だった。

 

恵那山トンネルで、僕は後部座席にいたはずだが、それでも高速道路の初体験は楽しいひとときだった。

 

 

再び高速道路を走ることになったのは、高校2年の3月下旬だった。

我が母校が春の選抜高校野球大会への出場を決め、全校生徒や父兄、市民の応援団が60台のバスを貸し切って、長野市から甲子園まで夜を徹して走ったのである。

高速道路を走るバスに乗車したのは、この時が初めてだった。

伊北ICではなく、国道19号線で木曽谷を走り抜けてから、中津川ICで中央道に入る経路を採ったことが不思議だった。

僕は、長野から松本までの筑摩山地を越える山道に揺られて、情けなくも酔ってしまったのだが、中津川以降の中央道における安定した走りっぷりには、すっかり安心して、熟睡した覚えがある。

 

3度目が昭和59年の「東名ハイウェイバス」東京-静岡線、4度目が「中央高速バス」新宿-甲府線であり、当時の僕の高速道路経験は5本の指にも満たなかった。

それだけに、最前列の席に腰を落ち着けて、過ぎゆく景色ばかりでなく、父の運転に見入った幼い頃と同じく運転手さんのハンドルさばきを眺めた「東名ハイウェイバス」のひとときが、こよなく楽しく感じられた。

東京を発着する高速バス路線は、「東名ハイウェイバス」や「中央高速バス」の他に、新宿と箱根桃源台を結ぶ「箱根高速バス」、そして東京駅から名古屋や関西へ向かう夜行高速バス「ドリーム」号と、浜松町から仙台、山形に向かう夜行便の「東北急行バス」しかなかった時代である。

親の脛をかじっている身分であったから、夜行高速バスで遠隔の地に向かうことは、さすがに憚られた。

 

僕は、再び「東名ハイウェイバス」に乗りたくなった。

昭和59年8月下旬の日曜日のことである。

この年は平年を上回る猛暑となり、また台風が1つも上陸しなかったため、西日本を中心に水不足のニュースが連日流れていた。

 

 
東京駅八重洲南口の乗り場では、暑さを我慢して早くから並んだ甲斐があり、最前列の席を確保できた。
 

東名高速道路から首都高速3号渋谷線、都心環状線外回りを経て、霞ヶ関ランプで一般道に降りるのが3ヶ月前に経験した上り便の経路であったが、東京駅を定刻8時10分に発車した静岡行き下り便は、八重洲通りを東に向かう。

このような所をバスが通れるのか、と思わず身を乗り出すほど狭隘な曲線状に設けられた宝町ランプで、都心環状線内回りに入っていく旅の鳥羽口から、僕は夢中になった。

普段は電車で移動するだけの東京の街並みを、高架道路からの異なる視点で見物できる行程が、堪らなく面白く感じられる。

 

ビルの谷間にある谷町JCTで首都高速3号渋谷線に分岐し、渋谷駅周辺の華やかな繁華街を見下ろす前後は、バスを取り囲む車の数が多く、流れも滞り気味であったが、車窓に齧りついている僕は一向に気にしなかった。

 

 

車線が増えて東名高速に歩を進めていく用賀の辺りから、バスは、手綱を緩められた駿馬のように、小気味よく速度を増していく。

広大な河川敷が広がる多摩川を渡り、無数の住宅がぎっしりと丘陵を覆い尽くしている住宅地を眺める開放感もまた、格別だった。


同じ道を逆に進んでいるだけなのに、上り便と下り便でこれほど違う印象を受けるものなのか、と思う。

やっぱり「東名ハイウェイバス」はいいな、と嬉しくなる。

 

厚木ICで小田原厚木道路を分岐する頃から、大山を筆頭とする丹沢・箱根の山並みが前方から迫り、関東平野の果てが近づいてくる。

いつしかハイウェイは登り坂になり、箱根外輪山の北側を回り込む峠越えに挑んでいく。

御殿場から沼津にかけては、富士の裾野の雄大な斜面を駆け下り、興津と由比では左手に太平洋の海原を眺めながら、波打ち際を進む。

この車窓をもう1度見たくて、僕は「東名ハイウェイバス」を再び選んだのだ。

 

東京駅から3時間あまりで到着した静岡駅でバスを降りると、身体にまとわりつくような熱気に、思わず溜息が出た。

 

 

もう少し先に進みたくなって、僕は静岡鉄道新静岡駅まで歩を運び、浜松行きの高速バス「東名静岡浜松線」に乗り継いだ。

 

全国版の時刻表の巻末に設けられている会社線欄をめくると、東海地方を扱っているページで必ず目に入るのが、「東名静岡浜松線」であった。

紀行作家宮脇俊三氏の「旅の終わりは個室寝台車」に収められた1篇「東京-大阪・国鉄のない旅」では、東京から大阪まで国鉄を利用せずに行くという趣向の旅が描かれているが、さすがの旅の達人も、計画段階で大いに苦労することになる。

 

『静岡から浜松までのバスも巻頭の「牽引地図」になく、諦めかけていたところ、たまたま「浜名湖・舘山寺温泉・方広寺」の欄に掲載されているのを発見した。

なぜこの欄に入れたのか腑に落ちないが、とにかく載っていて、遠州鉄道と静岡鉄道のバスが1時間間隔で交互に運転され、東名高速経由、1時間半で結んでいることがわかった』

 

 
昭和57年に実行されたこの旅の第1走者は、小田急小田原線の急行電車で、新松田駅から沼津駅行きの高速バスと、沼津駅から静岡駅行きの高速バスを乗り継いだ後に、「東名静岡浜松線」に乗り換えるという行程だった。

宮脇氏の著作にしては珍しく多数の高速バスが登場し、当時の静岡県のバス事情についての貴重な記録となっている。

 

当時の静岡県内には、「東名静岡浜松線」を筆頭に、静岡鉄道バスが新静岡-沼津線、新静岡-吉原中央線、新静岡-東名菊川・袋井線、清水-御前崎線、興津-島田線を、遠州鉄道バスが浜松-豊橋・岡崎線、浜松-名古屋線、浜松-三ヶ日線などといった特急バスや高速バスを走らせていた。

ちなみに、新松田-沼津線は富士急行バスの運行だった。

 

 

昭和30年代から40年代にかけて一般国道が整備されたことに伴い、都市間を結ぶ特急バスが全国で急速に増えた時代がある。

「東名静岡浜松線」の前身も、昭和38年に開業した国道1号線経由の急行バスである。

 

『スピード時代にふさわしく、遠州と駿河を結ぶ急行バス。

去る10月1日から爽やかな国道1号線の秋風を切って、颯爽としてお目見得したみどりとオレンジを巧みに配合した新しい急行バス。

それが、こんど遠州鉄道、静岡鉄道、大井川鉄道の三社協同ではじめられた浜松と静岡を2時間で直行する待望の「浜松~静岡間急行バス」である。

終戦後の経済成長は、企業家にとってその取引の範囲を著しく拡大させ、一方平和がもたらした観光ムードの醸成もあってこうした長距離バスへの人々の待望は大きかった。

バス会社でもそれに応えようとして着々計画は練りながらも実現をみなかったのであるが、それがこんどこの三社によって終戦後の永い懸案が実現したのだから、沿線の人々や関係者の喜びは大きい。

数次にわたる改修で国道1号線はタンタンとした立派な道路になったが、今迄は主として貨物の輸送路の観があった。

それが、このバスの開通によって、沿線の人々に開放されたのである。

こうした三私鉄の共同運営によるバスは、全国にもその例がなく、運輸省でも1つのテストケースとして早急に許可したものだという。

こうした長距離バスがこの地方の人々に如何に待望されていたかと云うことは、開業早々から利用する人が多く、関係者がはじめ予想していた数字を遥かに上廻っているという。

浜松から静岡まで2時間、国鉄の列車より一寸時間がかかるが、駅の待合室で時間待ちするロスを考えれば何でもない。

こちらは30分おきに発車しているから、いつ行っても15分とは待たないで乗れる。

浜松市と静岡市を直結するこの急行バスは、乗客が2時間をゆっくりとすごすために特別の超デラックス車両で、従来の定期バスよりも座席をひろげたり、前後を1席減らしているので非常にゆったりして伸び伸び旅ができ、どんなに身長の高い人でもいささかの窮屈も感じない。

道路は良し、空気バネで振動はないというのだから、国鉄車両の一等車より楽で快適だと云っても過言ではない。

おまけに今までの定期バスには無かった冷暖房が完備しているのだから、乗りものとしてはこれ以上のものはない。

これから冬がきて寒くなっても、震えながら旅をすることはなくなったわけ。

またこの急行バスは「遠鉄浜松駅」から静岡の静鉄「新静岡」駅までいくので、いわゆる都心から都心へという交通の理想も実現したわけで、改札口もホームへの階段のわずらわしさもないので、老人や子供連れにも大いに歓迎されている。

車内の通風採光にも細かい注意が行き届いていて、とくに遠鉄車両のそれぞれのシートに施設された読書灯など到れり尽くせりのものと云っていい。

何よりの魅力は30分おきに発車する便利さで、遠鉄浜松からは7時から19時発まで、新静岡からも7時から19時発まで、それぞれ30分おきの発車となっている。

途中停車駅は、田町、浜松駅、中ノ町、磐田加茂川、袋井駅入口、原川、掛川北門、新道日坂、新金谷入口、島田市役所入口、青木(藤枝駅入口)、大手駅前、岡部役場前、新丸子、静岡駅で、始発の遠鉄浜松と新静岡をのぞいて15ヶ所、文字通り急行バスである。

この30分おきの発車のほかに浜松から新金谷までいくのが8時40分、14時45分の2回遠鉄浜松駅から発車する。

もちろんこのバスのねらいはお客の長距離輸送にあるが、一定区間、たとえば浜松から磐田加茂川、或るいは浜松から中ノ町という短い区間を乗る人々にも今までより便利になったわけである。

こういう区間を毎日通う人々のためには、この急行バスの定期がある(今までの遠鉄バスの定期では乗れない)。

また回数券の場合は遠鉄、静鉄、大井川鉄道のどの会社の回数券でもこの急行バスに使うことができる』

 

開業当時の遠州鉄道の社内報を読むと、苦笑いしたくなるような大仰な言い回しが目立つものの、自動車時代が到来した昭和30年代の雰囲気が如実に伝わってくる。

このブログでも、一般道を使う長距離バスを取り上げた当時の報道を引用したことが何回かあるけれど、どれも誇らしげな高揚感が共通している。

国内旅客輸送の主役だった鉄道に引けを取ることなく、都市間を結ぶ長距離バスを走らせるという行為は、運行するバス事業者にとって、社内の士気を高め、胸を張れる一大事だったのだろう。

 

国鉄の線路に近代化工事が施され、特急列車が増発されるより前であったため、高速道路が整備されていなくても、また時刻表で探しにくくても、路線バスが鉄道よりも重宝された時代があったのである。

 

 

新静岡駅前の商店街に置かれている乗り場を探すのに、多少の時間を要したものの、無事に乗り継いだ11時20分発の浜松行き高速バスは、遠州鉄道バスのハイデッカーだった。

 

一緒に乗り込んだのは数名に過ぎず、僕は目出度く最前列左側の席を占めることが出来たのだが、乗降口と座席を隔てているのは薄っぺらい金属板が1枚だけ、という簡素な造りに、呆気にとられた。

街なかを走る路線バスと大して変わらない構造に、もし衝突事故でも起こそうものならば、ひとたまりもないな、と思う。

座席も「東名ハイウェイバス」よりは硬く、「中央高速バス」と同程度の窮屈さであったが、バスが走り出せば、そのようなことは一向に気にならなくなった。

 

市内から静岡ICまでは「東名ハイウェイバス」と変わらない道筋であるが、静岡ICから先の東名高速は、僕にとって初見となる。

仕切り板が膝より少々高い程度でしかないのは多少スリルを感じるけれど、見晴らしが利くので、浜松までの1時間半をこの特等席で車窓を楽しめることが嬉しい。

 

 
静岡ICから数分で、続け様に2本のトンネルが姿を現した。

長さ270mの小坂トンネルを瞬く間に走り抜けると、僅かな間隔で続くトンネルの入口に、「日本坂トンネル」の標識が掲げられている。

ここだったのか、と、僕は思わず居住まいを正した。

 

日本坂トンネルの延長は、下り線が2371m、上り線が2387mで、東名高速で最も長いトンネルであった。

静岡ICの手前にも日本平SAがあるので、どうして、静岡市を挟んで国名を冠した地名が集まっているのか、と首を傾げてしまう。

日本坂トンネルがくり抜かれた標高309mの日本坂峠は、日本武尊が焼津に上陸し、峠道を越えて東国征討に向かったという伝承が基になっていて、同じく日本武尊を由来とする日本平と共通している。

 

 

何よりも、このトンネルの名を知らしめたのは、昭和54年7月11日に起きた悲惨な火災事故と言えるだろう。

 

この日の午後6時40分頃、日本坂トンネル下り線出口付近で起きた大型トラック同士の接触事故が起きる。

その後ろで滞った車列に気づいて急ブレーキをかけた大型トラックに、後続のトラックが追突したことで、悲劇の幕が開けられてしまう。

更に乗用車2台が追突し、その後ろでかろうじて追突せずに停車したトラックに別のトラックが突っ込み、前のトラックを押し出して間に停車していた乗用車を2台とも大破させてしまう。

その乗用車から火の手が上がったのである。

 

 
後年、鎌田慧氏の著作「ルポ 大事故!」における「日本坂トンネル大追突」の章を読んだ記憶が、今でも忘れられない。

 

『東名高速は清水市内での追突事故で不通になり、夕方になってようやく開通した。

運の悪い者は3時間も足止めをくらっていた。

ドライバーたちは、それまでのウップンを晴らすかのように、走行・追越車線を縫いながら入り乱れ、数珠つなぎとなって西へ、西へと疾走していた。

雨が、降りはじめていた』

 

との前振りでルポは始まる。

接触事故を起こして事故の発端となった2台のトラックは、自力でトンネルから脱出したのだが、その直後を走っていた、ガラス製品を積載した大型トラックの運転手の体験が、以下のように記されている。

 

『急停止した途端、鋼材を満載した10トン車に突きとばされた。

咄嗟にハンドルを左に切って前のトラックとの追突を避けようとしたが間に合わなかった。

2台の車をはねてようやく停まった。

つぶれたキャビンの中で身動きできなかった。

後ろで乗用車が燃え出し、煙が襲いかかってきた。

 

「もう駄目か」

 

そんな想いがかすめた。

気持ちを落ち着けると運転席がリクライニングシートだったことに思い当たった。

急いでシートを倒した。

しかし、ドアは左右ともびくともしない。

立ち上がって割れたフロントガラスをかきわけて地上に降りた。

K(原文は実名)は九死に一生を得た。

右足3ヶ所を負傷していた。

運転していた大型トラックのエンジンは飛び出して路上に転がり落ちていた』

 

玉突き事故が起きた追越車線の隣りで、走行車線を走っていたライトバンを運転していた男性の話も、詳しく記されている。

 

『右手、追越車線を走っていたクルマの間で急ブレーキを踏む音がした。

避けきれなかった大型トラックが、突然左にカーブを切って飛び出して前のクルマを突きとばした。

積荷のガラス製品が砕けて飛び散り、トラック同士がぶつかり合う音がかたまり合って響いた。

Sは夢中でブレーキを踏んでいた。

眼の前を走っていた白い乗用車は、右から突っ込んで来たトラックとトンネルの側壁の隙間を、身をかわすようにして一瞬のうちに走り抜けていった。

右前方に押し出されたセドリックの後ろバンパー付近に小さな火が見えた。

10メートルほど手前である。

クルマを降りて駆け寄ったSは、助手席のドアを引いたが開かなかった。

後部座席の中年の婦人と運転台の男はぐったりしていた。

助手席の若い男がドアロックに手を伸ばしている。

その救いを求めるような力弱い腕の動きが妙に生々しい。

Sは二度三度と、ドアを力まかせに蹴った。

が、それは開くはずもなかった。

自分の車に戻って座席の下からジャッキ棒を取り出し、それを引っ提げて駆け戻った。

後部座席の窓ガラスを叩いたが、慌てていたためか、ガラスは割れず反動で尻もちをついてしまった。

それでも79キロの体重をかけてもう一度、叩いた。

その瞬間を待っていたかのように、後ろの火は天井を伝って車内を駆け抜けた。

もはや、手のつけようがなかった。

様子を見に来た後続のカローラの運転手に、Sは手を振って叫んだ。

反物を詰め込んだ自分のクルマに引火しそうなのだ。

 

「バックだ。バック!」

 

追越車線には串ざし団子のように事故車がつながっている。

カローラが後退する。

そのライトを頼りに、クルマの列とトンネルの壁の間を2台のクルマは懸命にバックした。

かなり長い時間だったような気がする。

ふと前を見ると、今までいたあたりは、既に煙で覆われていた。

炎上したセドリックから、3人の乗客が脱出した気配はなかった。

逃げ支度をしていると、煙の中からふたりの男がもつれるようにして現れた。

 

「どうしたんや」

 

Sは声をかけた。

かかえられていた男が、それでも元気そうに答えた。

 

「足がブラブラや」

 

骨折していた。

担がれていた男は、松ヤニを運搬していた大型トラックの運転手、Hであり、もう1人は助手のAである。

Aに支えられたHは、丈夫な方の足でケンケン跳びをしてきていた。

Sは男の片腕をとり、肩を組んで出口に向かって歩きはじめた。

煙が迫っていた。

歩き出して間もなく、トンネル内を照らしていた黄色いナトリウム灯が消え、真っ暗になった。

若い助手は姿を消していた。

彼は救助を求めてひと足さきに静岡口へ向かったのだが、断られて引き返し、トンネルの中で気を失って倒れた。

SはHを背負い、煙に咳込みながら進んだ。

何度か休み、そしてまた歩いた。

鼻を刺す臭いはますます激しくなった。

30分ほど歩いたろうか。

もう限界だった。

おぶっていたSの両手からHはすべり落ちた。

肩につかまっていたHの両手が離れた。

丈夫な方の足をつき、崩れるように彼は道にうずくまった。

Sは、真っ暗なトンネルをこけつまろびつ、手さぐりで静岡に向かって歩いた。

トンネルで束の間、出会った4人の男女の姿は、Sの脳裏に、炎と煙の記憶とともに刻み込まれている。

彼は、いま、こう言う。

 

「歩きながらHとは話をしただよ。世間話だっただ。どんな話か、それは言えん。Hとおれのあいだのことだでね。話すわけにはいかん。セドリックの人らだって、ドアが開けば助けられた。Hだって……、そしたら人命救助になっていただ。でもそれは、運命、ちゅうもんだでね」』

 

Sの後ろを走行していた乗用車に乗っていた男性の体験談が続く。

 

『走行車線を走っていると、大音響がトンネルを揺るがした。

隣り車線の少し前方を走っていたセドリックが、前後のトラックから弾かれて飛び出し、急停車した。

その一瞬あと、後ろバンパー付近から出火した。

急ブレーキを踏んで虚脱状態になっていたTは、後ろのクルマがバックしているのに気づいた。

彼も我に返って自分のクルマをバックさせた。

燃えはじめたセドリックの窓を叩き割ろうとしている男が、スローモーションのように後ろにひっくり返ったのが眼に入った。

消火栓からホースを引っ張っている男たちの影が見えた。

彼もそれに加わった。

ホースは水を吸い込んで膨れてきた。

ところが、その先から出る水は、こぼれ落ちる程度のものでしかなかった。

前方が急に明るくなり、セドリックが炎に包まれるのが見えた。

煙に巻かれ、ホースを捨てて逃げた。

自分だけがトンネルに残されたような不安に襲われたのだ』

 

T氏の後ろを走っていた大型トラックの運転手の話は、以下の通りである。

 

『Nは辛うじて追突を回避した。

隣りに停止した大型トラックの助手席から負傷したHが転げ落ちるように降りるのが見えた。

セドリックが燃え上がり、その前を走っていた鋼材運搬車(運転手死亡)の荷台の下に横向きにもぐりこんだサニー(乗っていた男女は即死)からも出火していた。

Nは運転台の消火器をつかんで飛び降り、セドリックに向かったが、そのときはもう手のつけられる状態ではなかった。

それで消火栓のグループに加勢に入ったが、ホースは短かったし、水も出なかった。

運転台に引き返し、ハンドルを握って自分のクルマを避難させるのが精一杯だった』

 

もっと後方にいた車の運転手の話も記されている。

 

『Fは、事故車の先頭から57台目(走行車線で25台目)を走っていた。

静岡口から1100メートル入った地点である。

前の車が停まった。

 

「なんだろう」

 

外に出ると、30~40人が一団となって逃げてきた。

 

「火事だ」

「逃げろ」

 

口々に叫んでいる。

少し前にいたトラックの運転手が、それを聞きつけ血相を変えて逃げ出した。

 

「ウチのクルマが爆発する、トンネルがぶっとぶぞ。たのむから逃げてくれ」

 

と叫んでいる。

大騒ぎになった』

 

複数のトラックに可燃物が積載されていたことも手伝って、トンネル内に立ち往生した後続車に次々と燃え広がった。

火勢が強く有効な消火活動が行えなかったため、トンネル内は数日にわたって炎上する。

結果として車両173台が焼失し、死者7名を出す、我が国の道路トンネルとしては史上最大規模の火災事故となったのである。

 

トンネル情報板は、日本坂トンネルと60mしか離れていない小坂トンネルの入口から500mメートル手前に設置されているのみだった。

日本坂トンネルの入口に情報板を設置しても視認が難しいという理由だったが、そのために、かなり後方を走っていた車が、火災が起きている日本坂トンネルに続々と進入する結果を招いたのである。

 

 
この事故が起きた当時の僕は中学生で、坑口からもうもうと黒煙を噴き出している日本坂トンネルや、鎮火後にトンネルの外に運ばれて放置された大量の車の残骸の映像に、呆然と息を呑んだ。
この事故をきっかけとして、長大トンネルの入口に信号機が設置されるようになったと記憶しているが、高速道路を走行中に赤信号を目にしても、ドライバーは果たしてブレーキを踏めるのか、という議論が巻き起こったことも覚えている。

 

その数年後、春の甲子園に向かう貸切バスが中央道から名神高速道路に入ると、一気に車の密度が高くなり、自動車レースにおけるスリップストリームに付いているかのように車間距離を全く開けず、バスを追い越していく車列を目にした記憶が、今でも忘れられない。

中央道が開通したばかりの故郷では見たことがない光景で、我が国の大動脈とは何と恐ろしい道路なのか、と愕然とした記憶と、これでは日本坂トンネルのような事故が起きるはずだ、と呆れたものだった。

 

 

東名高速の静岡-焼津間は、日本坂トンネルを先頭とする渋滞が日常的に頻発していたことから、平成10年に2555mの新しい下りトンネルを掘削し、それまでの下りトンネルを上り線に転用して、下り3車線、上り4車線に拡大されている。

小坂トンネルと日本坂トンネルの間にも覆いが被せられて、一体化された。

 

僕が「東名静岡浜松線」に乗車した当時は、改良工事の前の線形のままで、事故の片鱗を窺わせるような痕跡は全く残されていなかったものの、薄暗い照明灯とヘッドライトに照らし出された壁面を眺めながら、粛然と数分を過ごすことになった。

 

ちなみに、恵那山トンネルが開通した時点で世界一の長さを誇っていたモンブラントンネルでも、1999 年に小麦粉を積んだト ラックからの出火をきっかけに、焼失車両 33 台、犠牲者 39 名という大惨事が発生している。

自動車は便利な乗り物だと思うけれども、常に危険と隣り合わせの交通機関であることを、僕らはもっと自覚すべきなのだろう。

 

 

日本坂トンネルを抜ければ、焼津の市街地を眺めてから大井川を渡り、牧ノ原台地にずらりと並ぶ茶畑に囲まれた穏やかな車窓に変わる。

山肌の凹凸のままにうねうねと続く、整然と刈り取られた茶畑の畝の緑が鮮やかだったが、静岡までの「東名ハイウェイバス」の多彩な景観に比べれば、平板な印象は否めない。


思わぬ見込み違いだったのは、低床車両とハイデッカー車両の視点の差であった。

「東名ハイウェイバス」では、客席と運転席が同じ高さで接近していて、速度計や回転計、サイドミラーが手に取るように見えたから、運転しているような感覚に浸ることが可能だった。

静岡を出て、しばらく経ってから気づいたのだが、「東名静岡浜松線」のハイデッカーは、最前列席と運転席の間に段差があり、メーターがあるパネルは遠くてよく見えず、サイドミラーも映し出す角度が運転席と全く異なっていた。

前方に遅い車が近づき、運転手さんがウィンカーを点滅させれば、僕も一緒にサイドミラーで隣りの車線に車がいないか視認する、といった真似は、「東名静岡浜松線」では望むべくもなかった。


欠伸を噛み殺しながら、浜松までは案外に遠いものだなあ、と思う。

高速バスに乗っていて、時が経つのが遅いと感じたのも、この旅が初めてだった。

今から思えば不遜な感想だったと恥じ入ってしまうが、刷り込まれた第一印象とは恐ろしいもので、「東名ハイウェイバス」や「中央高速バス」の車窓が、高速バス初心者の僕にとって劇的に過ぎたのだろう。

 

天竜川を渡った直後の浜松ICで、この日の東名高速の旅は終わりを告げる。

浜松駅までの街路も、静岡ICと静岡駅の間より遥かに遠く感じられた。

実際に距離も長く、それだけ浜松市街の規模が大きいということなのだろうが、車窓が面白みに欠けると、僕はいったい何をしているのだろう、という困った心境が鎌首をもたげてくる。

 

「東名静岡浜松線」の終点である浜松駅の佇まいは、大きなバスターミナルだな、と思った以外は殆ど覚えていない。

 

 
宮脇俊三氏の「東京-大阪・国鉄のない旅」では、浜松駅から先、豊橋駅までが最大の難関として描かれている。
 

『浜松は人口50万、天竜川の水に恵まれた工業都市で、県庁所在地の静岡を凌ぐ活況を呈している。

いっぽう豊橋も人口30万、名古屋に次ぐ愛知県下で第二の都市である。

この両都市間の距離は、わずか35キロ程度であるから頻繁にバスが運転されているにちがいない、と考えるのは常識であろう』

 

と楽観していたにも関わらず、

 

『念のため遠州鉄道の浜松バス営業所に電話をかけてみると、なんとしたことか、

 

「豊橋行のバスはありません」

 

という答えである』

 

 
昭和41年から、遠州鉄道バスと国鉄バスが運行する、浜松駅から三ヶ日・豊橋市役所を経て東岡崎駅に至る82.1kmもの長距離路線が運行されていたが、昭和44年の東名高速開通に伴い利用客が減少したため、昭和48年に廃止されている。

入れ替わりに、浜松駅と名鉄バスセンターを結ぶ遠州鉄道バスと名鉄バスの高速バスが翌日に開業し、もし存続していれば、宮脇氏が「東京-大阪・国鉄のない旅」で必ず利用しただろうと思うのだが、寸前の昭和56年に廃止された。

 

便数は少ないものの、浜松と名古屋の間には、往年の「東名浜松名古屋線」の後を引き継いでいるかのように、国鉄「東名ハイウェイバス」が1系統を設けているのだが、「国鉄のない旅」という命題に束縛されている宮脇氏は国鉄バスに乗る訳にはいかず、民間の一般路線バスを探すしかない。

 

 

『この遠州鉄道バスの人も親切で、自社のバスだけでなく、豊橋鉄道バスも名鉄バスも浜松-豊橋間の直通バスは1本も運行していないのですよ、と説明してから、

 

「豊橋へ行かれるなら国鉄が便利です」

 

と言った。

 

「それはわかっていますが、バスで行ってみたいのです。途中で乗り継いでなら豊橋へ行けますか」

「それでしたら行けます。浜松駅前から私どもの鷲津行のバスにお乗りになって新居町までいらっしゃれば、そこから豊橋まで国鉄バスが運行しております」

 

東海道の旧新井宿に新居町という東海道本線の駅があり、新居町-豊橋間に国鉄バスが走っていることは「国鉄監修」の時刻表で知っている。

が、国鉄バスに乗るわけにいかぬ。

 

「ほかにありませんか。遠回りになってもかまいませんから」

「三ヶ日行のバスにお乗りになって、三ヶ日から豊橋鉄道のバスに乗りつぐ方法はあります。時間はかかりますが」

 

三ヶ日は浜名湖の西北岸にあるミカンと遠州瓦の町で、洪積世の化石人骨が出たことでも知られる。

だいぶ遠回りにはなるが、時間の余裕もあることだし、たまにはそういう町でバスを乗りつぐのもおもしろそうである。

 

「ああよかった。それで、浜松を3時ごろに出発したいのですが、適当なバスがありますか」

「こちらを3時ごろですか。ええと、ありますよ。浜松駅前を14時46分の三ヶ日行にお乗りになれば、三ヶ日着が16時03分で、16時15分発の豊橋行に接続します」

 

三ヶ日での接続は別会社のバスとは思えぬほどよいが、浜松発が14時46分では困る。

私たちの浜松着は14時53分の予定である。

だから、

 

「すみませんが、そのつぎのバスの時刻も教えてください」

 

と私は言った。

 

「そのつぎの三ヶ日行は15時13分ですが、これは豊橋鉄道のバスに接続しません」

「接続がわるくてもいいのです。三ヶ日発16時15分のつぎの豊橋行は何時ですか」

「ありません」

「ないのですか」

「豊橋行は16時15分発が最終です」』

 

自家用車が普及して利用者が減少し、そろそろ運行本数が減り始めていた当時の路線バス事情が垣間見えるやりとりである。

 

結局、宮脇氏は、浜松駅発鷲津行きのバスを終点まで乗り通し、鷲津を経由する新居発三ヶ日行きのバスを大知波入口停留所で降り、三ヶ日発豊橋行きの最終バスに乗り継ぐという煩雑な方法を余儀なくされた。

豊橋から名古屋までは名鉄線の特急電車、名古屋から難波までは近鉄線の特急電車が連絡している。

 

『勝負は終った。あとは名鉄と近鉄の太く速い流れに身をゆだねさえすればよいのである』

 

という一文が、宮脇氏の安堵感を如実に表している。

一方で、

 

『きょう乗ったバスは、どれも空いていた。はたしていつまで存続できるか覚束ないようなバスばかりであった』

 

と、いみじくも記されているように、宮脇氏が利用した高速バス路線は、新松田-沼津線、沼津-静岡線、そして、今回の旅で僕が乗車した静岡-浜松線も含めて、現在では全てが姿を消している。

 

昭和30年代に端を発した一般道経由の長距離バスは、国鉄のスピードアップと我が国のモータリゼーションの発達に伴い、速達性と定時制が鉄道より劣るようになり、昭和50年代には、殆どが廃止を余儀なくされたのである。

 

 

僕が静岡を再訪した昭和59年に、時刻表に残されていた静岡県内の高速バスは、「東名静岡浜松線」と「東名静岡御前崎線」だけに過ぎない。

昭和60年代から平成の初頭にかけて、高速道路網を駆使する新たな高速バス時代を迎え、「静岡浜松急行バス」も昭和44年に東名高速に乗せ換えられて「東名静岡浜松線」に生まれ変わった。

 

ただし、全国版の時刻表における扱いは、散々だったとしか言いようがない。

一般道経由の急行バス時代には一顧だにされず、掲載された形跡すら見当たらない。

高速バスに脱皮してから、かろうじて「浜名湖・奥三河」の欄に「東名静岡浜松線」と「東名名古屋浜松線」が並んで掲載されるのだが、枠が狭く、定期観光バスと同じ記載方法で、血眼になって探さないと見過ごしてしまいかねない。

専用ページを設けている国鉄「東名ハイウェイバス」との格差は目を覆わんばかりで、後に扱いは多少マシになったものの、「東名静岡浜松線」は平成6年4月に廃止されてしまった。

県都と県内随一の工業都市を結ぶ路線が消滅するとはどうしたことか、と驚愕したが、新幹線と車の攻勢がそれだけ激しかったと言うことだろうか。

 

 

僕は、そろそろ引き返さなければならない。

新幹線に乗る財布の余裕はないし、各駅停車では間怠っこしい。

 

残された選択肢は、浜松駅を始発とする東京駅行き「東名ハイウェイバス」だけである。

浜松と東京の間は253.1km、僕の故郷長野市から東京までの距離に匹敵する。

ほぼ全てのバスストップに停車する急行便で、所要4時間半もかかるので、これまでで最も乗り応えのある高速バス旅になるはずだった。

 

もう1度、躍動感に溢れる東名高速の車窓を楽しむことが出来るではないか、と自らを慰めながら、僕は、国鉄バス乗り場を探し始めた。

 

 

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