私鉄の103系と呼ばれた電車の話 その1
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今回は年末に入線してきた、東武の通勤形電車のかつての主力、8000系について書いてみたいと思います。
東武8000系は昭和38年に登場した通勤形電車です。
ちょっと脱線しますが、東武鉄道という会社は、優等用車両ではチャレンジ精神を発揮し最新鋭装備を盛り込む一方で、一般用の車両では手堅い仕様で、やや保守的な思想の電車を作る傾向にあるようです。
登場当時の東武の通勤形電車といえば、昭和36年に登場した2000系は日比谷線乗り入れ車両と言うことで、特急用のDRCこと1720系を通勤向けにアレンジした高性能電車となりましたが、地上用は車体・足まわりとも戦前~戦後間もなくの設計思想を引きずった7800系が増備されていました。
7800系の仕様は国鉄73系をベースに東武なりの改良を加えたものですが、所詮ツリカケ駆動に枕バネも板バネを使用した旧態依然としたものだったというだけでなく、車体も窓上下に補給板のあるクラシックなもので、ドアも片開きドア。屋根は戦前形を思わせるような丸屋根となっていました。
とまぁ、当時の東武の通勤車は一世代前の電車が闊歩するような状態だったわけです。
流石に昭和30年代後半に製造する電車としては7800系では流石に時代遅れということで、ようやく東武が重い腰を上げて、当時としては最新の仕様で登場したのが8000系です。
前面は踏切事故対応と視界確保の観点から他社に先駆けて高運転台となりましたが、デザインは後に「東武顔」と呼ばれる、貫通扉付ながら高くて天地方向の狭い窓が並ぶ、極めてシンプルなものとなりました。
塗装は当時の東武通勤形の標準だった、駱駝色をベースに窓周りと裾部分を朱色とするツートンカラーでした。
さて、肝心の足まわりですが、こちらはなかなか凝った仕様になってます。
台車はこの時代の私鉄車によく見られるミンデンドイツ式台車で、枕バネは乗り心地に優れる空気バネを採用しています。
経済性を考慮してMT比が1:1となることを前提としており、MM'ユニット構造を採用しつつも、2両編成や6両編成ではユニット式ではM車が多くなってしまうことから、わざわざ1M方式の車両も用意しています。(通常他社では割り切ってM比を大きくする場合が多い)
制御装置は一般的な直並列組み合わせ抵抗制御方式ながら、スムーズな加速を行うことができるバーニア抵抗を用いた超多段制御式となっていて、日立製のVMC-HT-20A(ユニット車)及びVMC-HT-10A(1M車)を採用しています。バーニヤ制御は加速はスムーズになるものの装置の構造が複雑になるため、当時としては標準装備となりつつあった発電ブレーキが省略され、電磁直通空気ブレーキ一本になりました。また、主幹制御器は3ノッチのみのシンプルなものになり、主制御器が凝ったものになる代わりに他の部分でコストダウンが図られたのでした。
モーター出力は狭軌のカルダン駆動用としては当時最強クラスの130kwのものを使用しており、日立と東洋電機の共通設計のTM-63型(MM'ユニット車)とTM-64型(1M車)が用意されました。余談ですが、TM-63とTM-64では電気的特性が異なっているのか、モーター音が異なっており、TM-64搭載車は起動時に甲高い音がするので音鉄界隈では比較的人気のある音となっていますw
逆に、両者とも日立製(HS-836-Srb及びHS-836Trb)のものと東洋電機製(TDK-845A及びTDK-845B)のものが存在しますが、メーカーによる音の差は存在しないようです。
駆動方式は狭軌では標準的な中空軸式平行カルダンで、ギア比は当時の通勤形としてはちょっと低めの5.31になりました。
これらの組み合わせにより、起動加速度は2.23km/h/sとしつつ、高速域での加速が国鉄の近郊形電車並を維持するという、見た目に反してオールパーパスな性能になりました。
東武は駅間の広い郊外区間も多く、路線の環境にマッチした性能と言えるでしょうか。
加速度はやや低めですが、73系や78系をはじめとする旧型電車が闊歩している状況下においては十分だったと言って良いでしょう。
設計最高速度は110km/hですが、運転最高速度は100km/hです。これは東武の通勤車の列車種別の最高速度が100km/hとなっているためです。本線などは2006年頃まで7800系の足回りを使用した5000系が活躍していたため95km/hでしたので、これでも十分だったんですね。
さて、8000系は昭和38年に登場した後、東武の主力として勢力を伸ばして行きます。
本線(伊勢崎線)と東上線でデビューを果たしましたが、やがて全線で活躍を行うようになっていきました。
「通勤形車では保守的な東武」はここでも発揮され、8000系はその後20年間に渡って製造され続け、最大712両の陣容を誇りました。
同じ昭和38年に登場して20年間に渡って増備が続き、3400両の大勢力を誇った国鉄103系と相似点があることから「私鉄の103系」などと呼ばれるようになりました。
20年間も製造が続くと当然ながら細かな仕様変更が発生し、東武8000系も様々なバリエーションが存在しています。
パンタグラフは当初一般的な菱形のもの(PT42系)が搭載されていましたが、冷房装置を搭載するようになった際にスペースが不足したことから、コンパクトな下枠交差式のPT4801に変更されました。非冷房車については冷房化工事の際に変更されています。
台車は上で書いた通りミンデンドイツ式のものを使用していましたが、途中の増備車からS形ミンデンに変更されています。
ドアについてはステンレス製で窓がHゴム固定のものを使用していましたが、後期の車両では金具固定式に変更されました。
窓枠については初期の車両では当時の関東私鉄では多くみられた上辺の角が丸いものとなっていましたが、昭和42年製の2次車から上辺も丸みも無いものになりました。
一方、国鉄103系でみられたような大きな外観の変化はなく、最終増備車まで形態変化は小さなものに止まりました。
塗装については昭和47年からセイジクリーム1色となりましたが、昭和60年からは現在のジャスミンホワイトに濃淡の青帯といういでたちになりました。以後、変更されることなく現在に至っています。
余談ですが、東武8000系は多数製造された影響でインフレナンバー車が存在します。
東武では4桁車番の場合、100の位が車種を表し、下2桁が製造番号を表すようになっていましたが、各形式で99両を超えてしまい番号が溢れることになりました。そこで東武は、上二桁をそのままに、下二桁をそのまま「3桁」にしてしまい、結果的に5桁の車番が誕生することになったのでした。
例えばクハ8100形の場合8199の次は81100、モハ8200形の場合モハ8299の次は82100という具合です。
時は進んで昭和61年。後輩の10000系が増えて行く中、初期車は製造から20年以上経過していることから更新(修繕)工事が行われることになりました。この更新工事は20年以上にわたって続けられ、様々なバリエーションを産んで行くことになります。
主な内容は腐食した外板の張り替えや、側面方向幕の取り付け工事ですが、車内の更新も行いカラースキームを10000系に合わせたものに変更しました。
昭和62年以降は前面形状も大幅な行われて、単調なHゴム窓の並ぶ「東武顔」スタイルから、6050系に類似した「額縁スタイル」に変更されて面目を一新することになりました。
だいぶ面目が一新されました。
平成9年以降は方向幕が3色LED式となったほか、前照灯にはHIDを使用する変更がなされ、室内も車椅子スペースが導入されるなど、だんだん「魔改造」の領域に近いものになっていき、平成15年以降はドア上のLED案内表示器取り付けや座席のスタンションポール取り付けなども行われていきました。
なお、Hゴムドアについてはドア窓の固定方法が、JR東日本でみられたゴムを併用したアルミ金具固定式にのものに変更となっています。
なお、2004年には支線転用のため3両固定・ワンマン化改造が行われ800系となったものが存在します。
さて、東武通勤車の「主」として活躍してきた8000系ですが、老朽化に伴い徐々に退役が進んで行くことになります。
平成16年の3両固定化で発生した余剰車が最初となりましたが、平成19年から50000系列の増備による置き換えや他系列の転配などにより本格的に廃車が始まります。
2010年には本線の浅草口から撤退、2015年には東上線の池袋口から撤退し、いよいよ主役の座を降りることになりました。
その後、本線系統の主要な列車からは姿を消し、数も全盛期の半分以下になりましたが、一方で支線や本線の末端区間ではしぶとく残っており、野田線では急行運用も見ることができます。
登場から半世紀以上となる8000系ですが、数を減らしつつも当面の間は活躍する姿を見ることができそうです。
また、最後まで原型顔で残った8111Fについては博物館に車籍を移動しており、動態保存車として団体列車などで活躍することになっています。
長くなってしまったので今回はここまで。
次回はもう少し模型自体について詳しく書いてみます。