高速バス「浜田道エクスプレス」で久しぶりの中国道を旅する | ごんたのつれづれ旅日記

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話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

久しく、中国自動車道を走っていなかったな、と思ったことが、旅のきっかけだった。

 

 

吹田JCTと下関JCTを結ぶ総延長540.1kmに及ぶ高速道路が、中国地方の中央部を東西に貫く形で開通したのは昭和58年のことで、昭和の終わりから平成の初頭にかけて、大阪以西へ向かう高速バスは、全ての路線が中国道を経由していた。

 

高度経済成長期の昭和37年から数次に渡って策定された全国総合開発計画では、「中国地方においては、高速道路網の東西軸は1本のみを建設する」とされていたため、中国縦貫自動車道の名で計画された中国道は、山陽・山陰両地方からほぼ等距離になる中国山地に建設され、曲線や勾配が多い線形を余儀なくされた。

舞鶴若狭自動車道、播但連絡自動車道、鳥取自動車道、米子自動車道、松江自動車道、岡山自動車道、広島自動車道、浜田自動車道などといった、魚の背骨のように中国道と直角に交わる高規格道路も、その後に続々と建設されている。

 

 

僕が初めて中国道を走ったのは昭和60年のことで、大阪駅と津山駅を結ぶ「中国ハイウェイバス」であった。

東名高速道路や名神高速道路、中央自動車道など、東京を起点とする高速道路を経験しただけの僕にとって、劇的な変化に乏しい中国道の車窓は、至極退屈に感じられたものだった。

それだけ関東平野を取り囲む地形が峻険ということであろうが、遙々乗りに来たのに中国道とはこの程度か、と拍子抜けしたのは、浅薄であった。

 

その後、主として夜行利用であったものの、山陽、山陰、四国、九州方面への高速バス旅で数え切れないほど中国道の世話になるうちに、いぶし銀のように熟成された車窓の魅力に惹かれている自分に気づいた。

窓外をゆったりと流れ行く落ち着いた景観に、関東近辺にはない安らぎを覚え、遠くまで来たものだ、という実感が湧いたものだった。

 

 
「中国ハイウェイバス」に続いて、昭和61年に、大阪と福岡を結ぶ夜行高速バス「ムーンライト」号に乗りに出掛けた時のことも思い出深い。

阪急梅田三番街の高速バスターミナルを発車して間もなく、

 

「この先、三次付近では雪となっておりますが、このバスはスパイクタイヤを履いておりますので、どうか安心してお休み下さい」

 

と交替運転手さんが案内したので、中国地方で雪が降るのか、と耳を疑った。

当時の僕の中国地方に対する認識は、その程度だったのである。

夜半に、ふと目を覚まして窓のカーテンの隅をめくると、暗い路面が、本当に真っ白に染まっていた。

西日本で雪景色を目にしたのは、それが初めてだった。

中国道が通り抜ける中国山地の気候の苛烈さを思い知らされた。

 

平成4年に鹿児島と名古屋を結ぶ夜行高速バス「錦江湾」に乗車した時にも、三次IC付近では、降雪のためにチェーン規制が敷かれていた。

前方に、雪煙を巻き上げながら、同じく九州各地から名古屋に向かう夜行高速バスの隊列を視界に捉えて、無性に心強く、嬉しくなったことが昨日のようである。

名古屋に到着しても、バスの前面に雪がこびりついていた。

 

 
同じ年に、大阪と三次を結ぶ高速バスを皮切りに、三次-広島間を出雲市駅発の「みこと」号に乗り継ぎ、広島-福岡間を「ミリオン」号で締めくくって、大阪から福岡まで昼行高速バスだけで走破した旅も、心に強く刻まれている。

この旅の直後に、「ミリオン」号は、早期に部分開通した山陽道に乗せ換えられたので、夜行便の利用を除けば中国道の全線を走破した唯一の貴重な体験となり、中国道の車窓を充分に満喫できた。

 

他にも、中国道を高速バスで走った記憶は、昼夜を問わずどれも鮮明である。

 

 

平成9年に山陽自動車道が神戸JCTと下関JCTの間で全線開通すると、大阪以西に向かう高速バスは一斉にそちらへ乗せ換えられて、中国山中や山陰地方に向かう路線だけが中国道に残された。

吹田JCTから下関JCTまで山陽道経由で537km、中国道より3kmほど短いだけであるが、中国道に多い急曲線や急勾配が忌避されたのであろう。

自然と中国道を走る機会も減った。

 

時に瀬戸内海を垣間見る箇所もないことはないけれど、山陽道も案外に山がちな区間が多く、ほぼ似たような地形に感じられたから、中国道に比して、それほど真新しさが感じられる訳ではない。

何故なのかは分からないが、遠くまで来たという感覚が、山陽道ではあまり感じられなかった。

 

判官びいきの気持ちがあったのかもしれない。

国が策定した計画では中国道だけを建設すると明記されながら、いつの間にか山陽道が開通して関西と四国・九州を結ぶ大動脈の地位を引っさらってしまい、進捗は遅々としているものの山陰道も建設が進められている。

大阪から西へ向かうと、吹田JCTから神戸JCTまでのごく短い区間だけ中国道を使う。

神戸JCTで山陽道へ針路を変えるたびに、私をお忘れではありませんか、と中国道が恨めしそうに訴えているような気分にさせられた。

 

 

平成14年12月に、大阪駅と浜田駅・江津駅を結ぶ昼行高速バス「浜田道エクスプレス」号が開業した。

 

この路線を時刻表で見掛けた時には、度肝を抜かれた。

それまでも、関西から鳥取、倉吉、米子、松江・出雲といった山陰の主要都市に昼行高速バスが走っていたが、どの区間にも並行して夜行便が設定されていて、山陰とは遠いのだな、とつくづく感じ入るような運行ダイヤであった。

ましてや、大阪から約400kmの距離に位置する島根県西部の江津に直通する昼行高速バスなど、それまで運行されたことはなかったのである。

 

 

ただし、「浜田道エクスプレス」号が江津の手前で立ち寄る浜田駅には、大阪と浜田・益田・津和野を結ぶ夜行高速バスが立ち寄っている。

僕も梅田から浜田まで利用したことがあるけれども、所要時間は6時間30分であった。

夜行便は乗務員の交替や休憩などのために昼行便よりも余裕のあるダイヤで運転されている場合が多く、「浜田道エクスプレス」号の所要時間は、夜行便よりも30分ほど短いだけである。

そのような長距離を、丸1日を潰して日中に行き来するような奇特な客が実在するのか、と目を見張った。

 

車窓を楽しめるという利点があっても、僕が、夜行便と同じ区間を走る昼行便に乗り直すことは、滅多にない。

それでも、利用客が多かろうが少なかろうが、このバスに乗れば、久しぶりに中国道に会えるではないか、と心が逸った。

 

 

大阪で所用を済ませて1泊した平成15年6月の週末、僕は、大阪駅桜橋口にあるJR高速バスターミナルへ、いそいそと足を運んだ。

 

かつては「名神ハイウェイバス」と「中国ハイウェイバス」、そして東京行きの夜行高速バス「ドリーム」号が発着し、簡素なホームが1本備えられているだけだった乗り場も、各地への高速バス路線が拡充されるとともに敷地が拡張されて、プレハブのように鉄骨が丸出しの「TRAVEL COAT」が、蓋を被せるように建設中であった。

 

折しも、「急行 北条BC」と行先を掲げた「中国ハイウェイバス」が発車するところで、その後に津山駅行き「中国ハイウェイバス」が入線し、隣りでは名古屋駅行き「名神ハイウェイバス」と徳島駅行き「阿波エクスプレス」号が3台揃い踏みで乗客を乗せている。

僕が「中国ハイウェイバス」に乗車した20年前には、北条で中国道を降りる系統など設けられていなかったのに、と羨ましくなる。

昭和50年11月に「中国ハイウェイバス」が開業した時は、大阪-津山系統と大阪-落合IC系統だけで、平成元年に大阪-北条系統が加わり、平成4年にはから北条から加西フラワーセンターまで延伸された。

時刻表をめくりながら、いつかは、落合や北条といった中国山地に抱かれた町も訪れてみたいと夢想していたので、もし僕が「中国ハイウェイバス」北条系統の発車前に着いていたならば、大いに迷ったことであろう。

乗車したことがない路線に衝動的に乗りたくなってしまうのは、僕の悪い癖である。

 
 
薄暗く奥まった乗り場に横づけされた9時10分発の「浜田道エクスプレス」号は、横4列席が並ぶ中国JRバスのハイデッカー車両だった。
先程の北条行きは、背の高いスーパーハイデッカーだったのに、と思う。

10年前に大阪から福岡まで3本の高速バスを乗り継いだ旅でも、2本が横3列独立席を備えたスーパーハイデッカーであったことを思い起こせば、長時間を車中で過ごす長距離路線にしては物足りなさを感じてしまうのも事実である。

 

昭和の末期から雨後の筍の如く全国に高速バス路線が誕生し、豪華な車内設備を競い合った時代はそろそろ終わりを告げ、バス事業者もコストを厳しく見定める風潮に変わりつつあった。

新幹線や航空機よりも遥かに長い時間を要する昼行高速バスであり、利点としては、乗り換えの煩わしさがないことと廉価な運賃くらいであるから、おいそれとは高価な車両を投入する訳にいかない事情は理解できる。

 

定刻にバスが動き出せば、どのような車両であろうとも、江津まで6時間半に及ぶ長旅を大いに楽しむことが出来るではないか、と嬉しくなって、多少の不満など跡形もなく消し飛んでしまう。

この日の乗客は十数人で、横4列席であっても隣りに座る相客はなく、のびのびと寛げたことも、気分が高揚する一因だった。

 
 
昭和14年の完成時にモダニズムの傑作と称された大阪中央郵便局に目を遣りながら、ふと、出て来たばかりの大阪駅桜橋口バスターミナルを振り返ると、20年前に、僕の中国道の旅がこの場所から始まったことに思いが及び、懐かしさが胸中に込み上げてくる。

 

昭和39年10月に我が国で初めての高速バス路線として登場した「名神ハイウェイバス」の起終点となり、昭和50年から「中国ハイウェイバス」も乗り入れが始まって、半世紀の間、高速バスの拠点として君臨したバスターミナルであったが、梅田貨物駅の跡地に建設されたノースゲートビルに移転した平成24年に、その役割を終えることになる。

せっかく造った「TRAVEL COAT」も、その翌年に解体され、大阪中央郵便局もいつの間にか取り壊されたと聞く。

 

 

大阪を朝に出発する高速バスに乗ると、いつも清々しい気分になる。

我が国随一の商都が目を覚まし、人々が一斉に動き出す朝の光景を目にすると、僕まで元気を貰っているような気分になる。

東京を発つ高速バスの窓から住み慣れた街の景観を見直すのも楽しいけれど、大阪発の高速バスの車窓に映るのは、最初から異郷の街並みである。

 

「中国ハイウェイバス」や「ムーンライト」号、大阪-三次間高速バスといったJR大阪駅や阪急梅田三番街を発車する路線は、ビル街の谷間の路地から新御堂筋に駆け上がり、地下鉄御堂筋線と並走しながら新大阪駅に向かう経路が定番であった。

「浜田道エクスプレス」号は、福島ランプから阪神高速11号池田線に乗り、高架から大阪の街並みを見下ろしながら、新御堂筋の西寄りを北上していく。

何かと新しさが目立つ旅の導入部で、密集した繁華街から一転して視界が開け、淀川と神崎川を渡って行く爽快さも、新御堂筋に勝るとも劣らない。

 

池田ランプでいったん国道176号線に降り、中国道池田ICに入るまでは、どうして阪神高速と中国道を直接繋がないのだろうと不思議に感じるのが常であったが、よく考えてみれば、先に用事が待ち受けている訳でもなく、何も急ぐ必要はない。

時間に束縛されるような世事から離れたくて、僕は「浜田道エクスプレス」号に乗ったのではなかったか。

 

 

宝塚、西宮と快適に走り込むうちに、少しずつ道路が上り勾配になっていくのが感じられる。

猪名川と武庫川を渡り、いつしか左右の車窓がなだらかな丘陵に変わっていくのを眺めていれば、大阪平野ともお別れで、「浜田道エクスプレス」号はいよいよ東西500kmに及ぶ中国山地の懐深く足を踏み入れていく。

 

日本の国土を旅すれば、都市部を抜け出すと、何処かで山の中に踏み込んで行くのは、宿命である。

いきなり箱根や高尾の山岳地帯が始まる東名高速や中央道、もしくは行けども行けども関東平野が終わらない関越自動車道や東北自動車道、常磐自動車道といった、東京を起点とする高速道路とは大いに趣を異にする、如何にも中国道らしい穏やかな始まり方である。

 

中国山地で最も古い歴史を持つ地層は、日本列島が海の底だった約3億年前の古生代石炭紀に、アジア大陸東縁に形成された秋吉帯と呼ばれる海底堆積物とされている。

秋吉帯は古生代末期から中生代初期にかけての秋吉造山運動によって陸地となったものの、次第に沈降して再び海底となり、約1億年前の中生代後期に入ると、マグマの上昇を伴う佐川造山運動により、再び隆起する。

この造山運動で火山活動が激しくなり、現在も中国山地を広く覆っている花崗岩は、マグマを主体とする火砕流の堆積物が冷却されたものである。

河川による侵食作用や風化を受けやすい花崗岩が削られて、小規模な起伏や段丘が多い準平原地形が主体の中国山地が誕生するのは、約6000万年前の後期中新世とされている。

 

中国山地の最高峰は兵庫県と鳥取県の境に聳える標高1510mの氷ノ山で、その他は標高1000~1300m程度、大半が標高200~500mという比較的低い山で構成されていることが、中国山地の特徴となっている。

西日本の最高峰である石鎚山は四国にあり、中国地方で最も高い大山も、中国山地から北に外れた独立峰である。

 

奥羽山脈が形成されたのが約800万年前、3つの日本アルプスを含む中部山岳地帯が200万年前、それよりも古い四国山地や九州山地ですら2000万年前に形成されたものであり、中国山地は、日本列島の他の地域と比べれば飛び抜けて古い地形と言える。

東名高速や名神高速、中央道のような猛々しく変化に富んだ景観が少なく、老成された印象を受けるのは、そのためであろう。

 

退屈であるのは否めないが、東京で忙しく仕事に追われているよりは、遥かに貴重なひとときである。

時間を持て余すあまりに睡魔が襲って来ても、バスは江津に向けて走り続けている。

何という文明の進歩、何という贅沢な時間であろうか。

梅雨の間に色濃さを増した野山の緑が、優しく心に浸みる。

 

 

周囲を山並みに囲まれた神戸JCTは、有馬温泉の北、三田市の南に位置していて、このような山奥まで神戸市域なのかと驚いてしまう。

「浜田道エクスプレス」号は、「山陽道 岡山」と書かれた標識には目もくれず、「中国道 津山」の標識が示す方向に針路を定めたことで、改めて心が躍る。

御無沙汰しておりましたが、今日はお世話になりますよ、と旧友に出会ったかのような気分になる。

「広島 345km」の標識を目にすれば、前途遼遠だな、と身が引き締まる。

 

山あいに敷設された鉄道や道路は、河川が削る地形を巧みに利用している場合が少なくない。

ところが、地図を見る限り、中国道が大きな川に沿っている区間は殆ど見受けられない。

ハイウェイは段丘状に傾斜している山の斜面を回り込み、時折現れる平坦部も、中国道と直角に交差して南北に流れる河川が切り拓いたものである。

中国山地の花崗岩は、風化して真砂(マサ)と呼ばれる砂粒状の地質に変化し、河川に運ばれて瀬戸内海や日本海に流れ出し、白砂清松の美しい砂浜や砂丘を産む。

一方で、真砂の地盤は不安定で、土砂崩れを惹き起こしやすいと聞く。

 

中国山地に人間が住み着くようになったのは旧石器時代とされ、縄文・弥生時代を経て古墳時代に至ると、大陸から我が国に製鉄技術が伝来するのと同時に、花崗岩に含まれる磁鉄鉱を利用した製鉄が始まったものと推察されている。

平安時代に、原料が磁鉄鉱から砂鉄に替わり、中国山地を舞台とする映画「もののけ姫」にも描かれた「たたら製鉄」に発展する。

川底の砂から砂鉄を掬い取り、粘土製の炉に薪をくべて純度の高い鉄を製造する「たたら製鉄」が盛んになるにつれ、木々が大量に伐採されたため、中国山地には毛無山と名づけられた山が多い。

中国山地に水田が開かれたのは近世になってからと遅く、江戸時代までの主産業は製鉄であり、次いで高原地形を活かした牛の牧畜だった。

太平洋戦争後、我が国では製造業の著しい発展が見られたが、中国山地は平地に乏しく交通も不便であることから、高度経済成長期を迎えると、若年層を中心に山陽や京阪神、首都圏への人口流出が増え、過疎化と高齢化が大きな問題となっている。

 

 

中国山地の花崗岩から成る地質を流れる河川は、浸食により居住や耕作が可能な平地を形成し、貴重な資源を供給する恵みの母であった。

滝野社IC付近では加古川、福崎IC付近では市川、山崎IC付近は揖保川、佐用ICでは佐用川、美作ICでは梶並川、津山ICでは吉井川、落合ICでは旭川、新見ICでは髙梁川、東城ICでは成羽川と、めぼしい河川を渡る前後には決まって大きな町が姿を現し、インターが設けられている。

どれも中国山地に源を発し、南の瀬戸内海に流れ込む川ばかりである。

陰陽どちらにもアクセス出来るように建設されたとは言え、中国道は、中国山地の脊梁よりも少しばかり南側に偏っていることを実感する。

 

例外は、庄原ICと三次IC付近を流れる西城川で、庄原から中国道の北側を西に向かって流れた後に、三次盆地で江の川に合流し、江津で日本海に注ぐ。

 

無論、中国道と交わるのは、川ばかりではない。

吉川JCTで舞鶴若狭道の分岐を目にすれば、大阪から「わかさライナー」号に乗って小浜を訪ねた旅の記憶が鮮やかに蘇ってくるし、播但連絡道と交差する福崎JCTを過ぎれば、大阪と岡山・倉敷を結ぶ高速バスに乗車した時のことが、ありありと思い浮かぶ。

現在は山陽道を使っている大阪-岡山・倉敷間高速バスであるが、僕が乗車した平成3年には、中国道から播但連絡道に乗り換え、部分開通だった山陽道や国道2号線、そして東備西播有料道路、通称ブルーハイウェイと目まぐるしく渡り歩きながら、岡山に向かっていた。

首都圏や関西地方から備讃瀬戸大橋を渡って四国に向かう高速バスも、山陽道の開通前には、同様の経路を使っていた。


大阪から瀬戸内にかけての、かつての複雑な経路のことを考えれば、中国道には気の毒であるけれども、山陽道は必要だったのだな、と思う。



兵庫県と岡山県の境に近い佐用ICの標識が見えれば、ここで中国道から国道373号線に降りた大阪-鳥取間「山陰特急バス」鳥取線のことが思い出される。

津山ICに差し掛かれば、「中国ハイウェイバス」でこの地を訪れたことや、ここで降りて国道179号線を北へ向かった大阪-倉吉間「山陰特急バス」倉吉線のことを、米子道を分岐する落合JCTでは大阪-米子間「山陰特急バス」米子線や大阪-松江・出雲間「くにびき」号といった、関西と山陰を結ぶバス旅をしたことが想起される。

さっさと山陽道に乗り換えた瀬戸内や四国方面への高速バスとは異なり、山陰を行き来する高速バスにとって、中国道は、現在でも不可欠な高速道路であり続けている。


そして、三次ICを通過すれば、大阪-三次間高速バスの車中や、雪に見舞われた「ムーンライト」号と「錦江湾」号の一夜が、その頃の人生の様々な場面と合わせて、懐かしく、時にほろ苦く、脳裏に浮かぶ。

 

これだけ好きな高速バスに乗ることが出来たのだから、恵まれた人生ではないか、と思う。

 

 

中国太郎の異名を持つ江の川は、広島県北広島町に聳える標高1217mの阿佐山を水源として、進路を鋭角に北へ向ける三次盆地までは北東方向に流れている。

三次盆地を過ぎた「浜田道エクスプレス」号は、江の川を遡るように西へ走り続けるが、江の川が中国道の南側に大きく蛇行しているので、車窓から中国地方随一の大河が見える訳ではない。

 

山の中を坦々と走り抜けていく中国道が、再び江の川と出会うのは、源流に近い北広島町の千代田ICの先である。

「浜田道エクスプレス」号も、4時間を超える中国道の旅を終えて、千代田JCTで浜田道に針路を変えた。

終点の江津は江の川の河口に開けた町であるから、水源近くから河口までを走り切るバス旅であった、と表現したいところだが、江の川は、あたかも「5」の字を描くように中国山地を190kmも東西に蛇行しているため、「浜田道エクスプレス」号の道行きは、江の川と全く関わりがない。

 

 

千代田JCTから先の中国道は、安佐、広島北、戸河内と山口に向かって伸びている。

もう少し中国道を走り続けたかったな、と思う。

 

ここで思い出されるのは、昭和59年から平成13年まで運行されていた大阪-東城・三次・千代田・安佐・加計間高速バスのことである。

僕が高速バスの旅に興味を抱き始めた昭和60年代は、まだ高速バスが現在ほど発達しておらず、利用者も限られていた。

それでも、旅行雑誌「旅」が高速バス特集号を発行したり、バスに設置する音響機器のメーカー「クラリオン」が、全国の長距離バスの写真集を出版するなど、少しずつ高速バスの情報が巷に流れ始めていた。

そのページをめくりながら、僕は、掲載されている高速バスの勇姿と、終点の見知らぬ町に、強く憧憬の念を抱いたものだった。

 

特に心の琴線に触れたのが、大阪-加計間高速バスの写真だった。

営業距離は390.5kmにも及び、昼行高速バスとして我が国最長であったことが、僕の心を掴んだのだろうか。

この頃から、中国道を高速バスで旅してみたい、という願望が芽生えていたのかもしれない。

高速バスで加計に足跡を記す機会に恵まれないまま姿を消してしまったことが、今でも無念でならないが、大阪から千代田までを昼行便で結んでいる「浜田道エクスプレス」号は、大阪-加計間高速バスの後継路線と言って良いのではないだろうか。

 
 
途中、瑞穂IC付近では江の川の支流の八戸川、旭IC付近で八戸川の支流の家古屋川に沿う区間もあるものの、平成3年に全線開通した浜田道は、山だろうが谷だろうが眼中にありません、と言わんばかりに、トンネルと橋梁を繰り返しながら、浜田に向けて傲然と山々を貫いている。

平成以降に完成した高速道路には、同様の贅沢な構造が少なからず見受けられる。

川が道を導いていた時代は終わったのだな、と思う。

 

中国道に比して集落が減ったように感じられるからであろうか、このあたりの中国山地は、いよいよ深い。

 

 

それまでの泰然とした走りっぷりとは打って変わって、「浜田道エクスプレス」号は、千代田IC、大朝IC、瑞穂IC、重富バスストップ、旭IC、金城バスストップと、主要なインターや高速道路上の停留所に立ち寄っていく。

忙しく減速と加速が繰り返され、降り支度を始める乗客の姿も目立ち、まったりしていた車内の空気が、ざわざわとなる。

 

江津へは、大朝ICで降りて国道261号線を北上する方が近道なのだが、「浜田道エクスプレス」号は、石見地方の中心都市である浜田市を無視する訳には行かないのであろう。

浜田ICで高速道路を降りた「浜田道エクスプレス」号は、浜田駅前の停留所で大半の乗客を降ろした後に、国道9号線を東に戻っていく。

 

 

浜田川の河口に形成された平野に広がる浜田市は、我が国で有数のカレイや鰺の水揚げを誇る漁業の町である。

 

このあたりから西側の山陰海岸は、なだらかな砂浜や砂丘が多い東側に比べれば、入り組んだ海岸線になっていて、その境目は、山陰本線で浜田駅の東隣りにある下府駅近辺である。

山陰本線に沿って国道9号線をのんびりと走る「浜田道エクスプレス」号は、下府、波子、都農津と、日本海の風雪に耐えるかのように家々が寄り添う集落を通り抜けていく。

波子では、左手に、白く波頭を浮かべた日本海が広がる。

国道を行き交う車の数も少なく、軒を掠めるようにバスが通り抜けていく集落に人影はない。

色彩を失った寂しげな車窓が、僕の胸を打つ。

浜田から江津までの20km、30分ほどの国道9号線の車窓は、「浜田道エクスプレス」号で最大の秀美であった。

 

 

「浜田道エクスプレス」号の利用者数は順調に推移したようで、この旅の4ヶ月後の平成15年10月には、浜田駅を経て益田駅に向かう系統が1往復設けられ、1日3往復となった。

しかし、平成23年には2往復の江津系統の1往復が浜田駅止まりとなり、翌年には浜田止まりの便が消えて、江津・益田系統各1往復に減便されている。

 
 
平成28年に三次ICにも停車するようになり、令和3年からは横3列席の車両にグレードアップされて、現在でも健在であるのは喜ばしい。

大阪から石見まで、高速バスで行き来するのんびり派は、少数かもしれないけれど、確実に存在したのである。

 

いつかは、横3列席でのびのびと過ごしながら大阪から益田まで乗車してみたい、と思うけれども、浜田から江津までの水墨画のような車窓を思い浮かべると、それを上塗りしてしまうのではないかと怖れるあまり、なかなか食指が動かない。

 

 

山陰地方で最も人口が少なく、東京からの時間的距離が最も遠い市として地理の教科書に取り上げられたこともある江津市もまた、眠っているかのような佇まいであった。

「浜田道エクスプレス」号が江津の手前で停車した都農津の町並みの方が賑やかに感じられたくらいで、右手から海岸近くまで迫る海岸段丘が少し後退したな、と思う間もなく、バスは江津駅前に滑り込んだ。

 

江の川の河口にありながら、江津の市域に平地はあまり見られない。

緑鮮やかな山々を背景に、ひっそりと静まり返っている江津駅に降り立っても、海運の要所として北前船が数十隻も帆を並べ、廻船問屋や蔵屋敷が建ち並んで、大森銀山に継ぐ石見国第2の町として栄えた面影は、微塵も感じられなかった。

 

 

僕は、江津駅を15時30分に発車するディーゼル特急「スーパーおき」4号に乗り継ぎ、16時22分に到着した出雲市駅でリムジンバスに乗り換え、出雲空港を17時45分に離陸するJAIR5039便で広島西空港に飛んだ。

 

「浜田道エクスプレス」号が江津駅に到着するのは、時刻表通りならば15時40分である。

余裕のある運行ダイヤを組む長距離バスでは時々経験する早着であったからこそ、到着予定時刻より早く発車する「スーパーおき」4号に乗れたのである。

遙々6時間半近くも費やして辿り着いた江津の滞在時間は、僅か数分に過ぎなかったことになる。

 

次の山陰本線上りの特急列車は、江津16時32分発・出雲市17時21分着の「スーパーまつかぜ」12号で、最終便であるJAIR5039便に間に合わない。

かなり危ない橋を渡る旅程なので、このように大胆な計画を僕が事前に立てる筈はなく、「浜田道エクスプレス」号が手前の浜田駅に到着するのは定刻ならば15時10分、「スーパーおき」4号が浜田駅を発つのも同じ15時10分である。

つまり、僕は、「浜田道エクスプレス」号が早めに運行していることを浜田駅で察し、江津駅で「スーパーおき」4号を捉まえて、更にJAIR5039便にも乗ることが出来るだろう、という綱渡りのような計画を編み出したのである。


JAIR5039便は、「スーパーおき」4号の車内から携帯で予約した。

 

 

広島に向かう選択肢としては、江津駅を16時に発車し、広島駅に18時51分に着く陰陽連絡バス「江の川」号もあり、こちらは国道261号線を通るので捨て難い魅力があるのだが、陰陽を連絡する航空機を初体験するという妙案に心を奪われたためなのか、全く念頭に浮かばなかった。

それとも、「スーパーおき」4号に間に合わなければ、「江の川」号に乗るつもりだったのかもしれない。

 

確かなのは、僕が小型ジェット機のボンバルディアCRJ-200型機で中国山地を一息に飛び越え、午後7時前には、太田川放水路と天満川に囲まれた中州の突端に位置する広島西空港に立っていたという事実である。

これまでも数々の陰陽連絡鉄道やバスを利用して来たが、航空機による陰陽連絡は所要40分、飛行時間は正味30分にも満たず、あまりにも呆気なさ過ぎた。

大阪から6時間半ものバス旅を楽しんだ優雅な時間とは、あまりにも掛け離れた慌ただしさであったが、1度は陰陽連絡の空路を経験してみたかった。

 

 

広島西空港は、昭和36年に初代の広島空港として開港し、昭和47年にはジェット化に対応する滑走路延長工事も施されて、平成5年に現在の新しい広島空港が完成するまで、中国地方の中核都市を行き来する航空需要は、ここが一手に支えていたのである。

大半の航空路線が新広島空港を発着するようになっても、JAIRなど一部の航空会社が広島西空港発着路線を残し、平成8年に開設された出雲便もその1つであったが、平成17年にJAIRが広島西空港発着便から全て手を引き、平成22年にはJACが運航していた宮崎便と鹿児島便も廃止されて、定期航空路線が消滅してしまう。

 

陰陽連絡の空路としては、昭和38年から同47年まで東亜航空が米子線を運航していた歴史があり、JAIRは出雲便と並んで鳥取便も運航していたが、JAIRの撤退と同時にどちらも廃止され、広島発着の陰陽連絡空路で現存する路線は1つも残されていない。

 

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新しい広島空港は広島市街からおよそ50km、三原市の標高330mの頂上を削って設けられた航空母艦のような構造で、リムジンバスで1時間程度を要する。

広島西空港と比してアクセスの時間が長いことから、東京-広島間ですら新幹線のシェアの方が4:6と高く、名古屋-広島間や大阪-広島間では新幹線の方が有利となるため路線が存在しないことを鑑みれば、陰陽連絡でも、鉄道やバスの方が便利なのだろう。

 

平成24年に、広島西空港は、定期航空路線が運航されていた空港としては、我が国で初めて廃港になり、現在はヘリポートとして運用されている。

広島空港に比べれば、広島西空港の方が便利な立地条件で、新幹線にこれほど利用客を奪われることもなかったかもしれないが、大型機の発着が可能となる拡張が難しく、着陸に際して広島市街地の上空で旋回を余儀なくされるという安全面の不安要素から、移転はやむを得なかったのだろう。

この旅で、出雲-広島西空路に乗っておいて良かったのだと思っている。

 
 
広島駅からは、19時10分発の横浜行き夜行高速バス「メイプルハーバー」号に乗車した。

この路線の歴史は古く、平成元年12月に横浜・町田と三次・広島間の夜行高速バス「赤いくつ」号として運行が開始された。

 

広島を発着する長距離夜行路線が三次を経由するのは、中国道だけが東西の道路交通を担っていた時代の定番であったとも言え、平成元年3月に開業した東京-広島線「ニューブリーズ」号も、ダブルトラック路線として同年9月に開業した名古屋-広島線「セレナーデ」号と「ファンタジア」号も、平成2年12月に開業した大阪-広島・呉線「ビーナス」号も、全て三次駅に停車していた。

8年後の平成9年10月に「赤いくつ」号は廃止されたものの、2ヶ月後に、横浜・町田-福山・広島へと経路を変更した「メイプルハーバー」号として運行が再開されたのは、同じ年に山陽道が全通し、中国道から経路が乗せ換えられたことと無縁ではないだろう。

 
 
「メイプルハーバー」号の運行距離は912.1km、所要時間は13時間にも及ぶ。

夜行高速バスとして我が国有数の長距離・長時間走行であるから、久々に乗り応えのあるバス旅になるはずだった。

 

運行に加わっている中国バスはなかなかユニークな路線を展開する事業者で、横浜・町田-福山・広島間に個性的な派生系統を産み出した。

平成17年に昼行便として我が国最長距離となる「弥次喜多ライナー」が、また全席個室という豪勢な夜行便「ドリームスリーパー」が平成24年に登場し、僕らバスファンを驚喜させた。

「弥次喜多ライナー」は、1年にも満たない短期間で廃止されてしまったが、「ドリームスリーパー」はそのままの豪華な車内設備を売り物にして、新幹線より高価になる運賃を引っ提げて、今では東京-広島間と東京-大阪間で運行を続けている。

 

†ごんたのつれづれ旅日記†

 
この帰路は、忘れ難い記憶を僕の心に刻んだ。

 

広島駅新幹線口を定刻に発車した中国JRバスの「メイプルハーバー」号は、横3列独立シート・29人乗りの座席配置で、僕があてがわれたのは、横に4席が並ぶ最後部の窓際だった。

次に停車した広島バスセンターで隣席にも客が座り、この夜は文字通りの満席になった。

横4席と言っても最後部で通路はなく、シートは独立席と同じ構造であるから、「浜田道エクスプレス」号より専有面積が広い。

一夜を共に過ごすことになった隣りの客は、きちんとネクタイを締めたビジネス客らしき出で立ちで、

 

「失礼」

 

と僕に向かって一礼し、背広を脱いで鞄と一緒に網棚に放り投げると、リクライニングを倒して目を瞑った。

 

いくら座面が広いと言っても、左右を他人に挟まれた席の居心地が良いとは思えない。

窓際にいる僕の方が、遥かに恵まれた境遇と言えるだろう。

これでは座席の出入りもままならないではないか、と不安に感じるところだろうが、僕は、隣席の男性の旅慣れた振る舞いに少なからず感銘を受けたので、今夜はこの席から動かないぞ、と決心した。

用足しは乗車の直前に済ませているし、福山駅前を出た時点で、途中での開放休憩が設けられていない旨を、交替運転手さんが案内している。

もっと短い夜行路線でも、時々は席を立って、客室中央のトイレに備わっているサービスコーナーで紙コップにお茶や冷水を汲み、喉を潤すのが楽しみだったが、この夜は、ペットボトルの飲料も持ち込んでいる。

 

だからと言って、翌朝8時20分に到着した横浜駅東口までの13時間が窮屈だったという覚えはなく、僕も、後ろに気兼ねすることなく背もたれを目一杯に倒して熟睡した。

時にはカーテンの隅をめくって夜景を楽しんだりしながら、これといった支障もなく過ごしたのである。

 

今でも、「メイプルハーバー」号と言えば、自席に缶詰となった一夜のことが真っ先に思い浮かぶ。

特別な体験であったことは間違いなく、僕も余程のバス好きなのだな、と我ながら呆れてしまう。

 

 

旅を終えてから、僕は、大いに悩むことになった。

 

広島と江津を結んでいた陰陽連絡バス「江の川」号が、この旅の直後、平成17年6月30日に廃止されたのである。

今回の旅で「江の川」号を選べば、江津から国道261号線を経由して中国道に乗り、「メイプルハーバー」号に間に合うように広島へ出ることが出来たのだ。

航空機など利用している場合ではなかったか、と臍を噛んだ。

 

それにしても、昭和50年から30年もの長きに渡って陰陽連絡の一端を支えてきた老舗のバス路線が、いとも簡単に消えてしまうとは、まさに驚天動地である。

僕らは、何という不安定な時代を生きていることであろう。

「江の川」号の廃止は、所轄する中国JRバスの営業所の廃止がきっかけと聞いている。

それだけ、この地域の過疎化が深刻であることの表れと言うべきか。

 

せっかく、大阪-加計間高速バスの無念を晴らすことが出来たのも束の間、僕は、また1つ、叶うことのない後悔を抱える羽目になったのである。

 

後に、広島西空港の廃港と陰陽連絡空路の消滅の報を耳にしたことで、あの時は航空機を選んで良かったのだと自らを慰めるているものの、「江の川」号への未練は、未だに片づいていない。

 
 
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