旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

米軍専用線の返還に寄せて【4】

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《前回からの続き》

 さて、在日米軍瑞穂専用線と在日米海軍田浦油送施設専用線を担当せよと命じられたとき、それとともに渡された配線略図は非常に古いものでした。いったい、何年頃に原本が書かれたのかわかりませんが、前者の配線略図にはすでに廃止になって久しい入江駅と、瑞穂駅の名前が載っていました。さすがに、瑞穂駅は横浜ノース・ドックのことを指しているはわかりましたが、何しろ古い図面を国鉄時代から受け継いできて、何度も青写真(ジアソ感光複写機)で複写してきたのか、実際に現場にある施設と図面に乖離があるのではないかと直感的に感じたのでした。

 

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筆者は横浜ノースドックの他にも、横須賀線田浦駅から伸びる専用線も担当していた。この先には在日アメリカ海軍横須賀海軍施設(通称:横須賀基地)に隣接する吾妻倉庫地区にある油槽所へ続き、運転本数こそは少なかったものの、燃料輸送列車(通称米タン)が運転されていた。写真左側には在日アメリカ軍が専用借用し、日本陸運産業(現NRS)が保有するタキ38000が留置されている。米タンに使われるため、タンク体には通常の表記類の他に、輸送する燃料の種類を示す標記が見える。(1992年4月 長浦港付近 筆者撮影)

 

 そこで、筆者は担務指定を統括する主任にお願いをして、時間を見つけては横浜ノース・ドックの現地調査を担務指定にしてもらいました。それは、一から図面を敷き直す覚悟で臨んだので、線路の配置や転轍機の位置やその番号、さらには電灯線の配線など、電気区が管理するすべて設備について、現物と図面を突き合わせたのです。これにはかなりの労力が必要で、いったい何度ここへ通ったのか覚えてないくらい足繁く行ったものです。やがて一人ではなくなり、仕事に厳しかった通信を担当する指導職の先輩も一緒に現地調査に行ってくれるようになり、新しい図面を敷く準備が整えることができたのです。

 そして、実際に調べて、最も新しい施設設備を反映させようと、製図に入りましたが、筆者は手書きではなくコンピュータ上で描くことにしました。これは、手書きでは原本を保管しなければならず、そのために保管場所を確保し、青写真として印刷しなければならないなど、手間のかかることでした。

 また、近い将来はコンピュータ化されることを予想していたので、保管にも手間がなく、修正が生じたときには適宜それを行えるようにと、筆者は構内配線略図をコンピュータで敷き始めたのでした。

 さすがにこればかりは、上司の区長や同居する施設区の主任、電気区の先輩方は「何してんだ?」と、不思議そうな顔をしては覗き込んで訊いてきたものです。おそらくは、国鉄時代に図面を敷くときには定規と鉛筆、そして紙に書き込むのが当たり前だったのでしょう、筆者のようにパソコンを持ち込んで、画面上で図面を描くなんてことを考えもしなかったのでしょう。

 いずれにしても、筆者はアナログとデジタルの過渡期に鉄道マンとして働いたので、こうした図面を敷き直してデジタルで保存するという作業にも携われました。そのおかげで、配線略図の見方はもちろん、自分が担当する現場にはどのような設備があり、どこに配置されいるのかを熟知できました。また、鉄道の信号設備や通信設備など、列車の安全運行を支える設備について、その理論や実際、保全検査の実務をしっかりと学ぶ「教材」にもなり得たのです。そうした意味において、旧瑞穂駅、横浜ノース・ドックの米軍専用線は、筆者にとって鉄道マンとして仕事をする上でかけがえのない「師」にもなった、非常に思い入れ深い現場だったのです。

 その横浜ノース・ドック専用線が、ついに日本に返還されるとの報道に接し、時代の移り変わりを感じずにはいられませんでした。確かに、米軍の基地が(どのような理由があるにせよ)縮小することは歓迎すべきことでしょう。若かりし頃の筆者が鉄道での仕事を覚えるために足繁く通い、日本の鉄道でも特異な現場の実態をつぶさに調べ、安全輸送を確実に支えるための保守検査や保全工事の設計といった実務を教えてくれたのは、紛れもなくこの横浜ノース・ドック専用線でした。それは、今なお当たり前に在り続けていると思っていたのが、時代の流れなのか既に過去のものへとなってしまい、一抹の寂しさを感じずにいられません。とはいえ、軍事基地は少ないに越したことがないのは当たり前の話、こうして軍事輸送の線路が廃されるのは喜ぶべきことでしょう。

 

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高島駅からわずかに鶴見方へ行くと、東神奈川駅から横浜ノース・ドックへ続く道路が東海道貨物支線を横切る「千若踏切」がる。この場所こそが、かつての千若信号場→千若駅があった場所で、1955年に千若駅自体はなくなり踏切の名がそのことを伝えていた。写真右側に写る信号継電器箱にも「千若」の名が書かれている。本線の向こうには、穀物類をバラ積み輸送するホキ2200が連ねて停まっており、奥には三角屋根の上屋が在りその中に入っていっているのが見えるが、ここは日本製粉(現在のニップン)の横浜工場で、東高島駅から専用線が伸びており、ホキ2200を使用した小麦輸送が行われていた。分割民営化から7年以上が経過した90年代前半も、こうした国鉄時代と変わらぬ車扱輸送が多くあり、運用される貨車も物資別に適合した多種多様なものがまだ多く残っていて、見ていても楽しいものがあった。(東海道貨物支線・新興ー東高島 1994年3月 筆者撮影)

 

 いずれにしても、時は流れ時代も移り変わっていきます。社会の状況も変化していき、あったものが失われ、同時になかったものがつくられることは世の常です。鉄道から退いて既に27年、このように社会の変化とともに鉄道貨物を取り巻く状況も変わっていくのかもしれません。

 

 今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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