皆様こんばんは。ブログおよびホームページ管理人の神@北見です。
最近は模型弄りがまた活発になってきてホームページの更新が疎かになってきていましたが、本日は久々に更新をしましたのでご紹介いたします。キハ58の若番車はJRへの継承車両がキハ28に比べて少なくあまり馴染みがありませんが、本日はJR継承車最若番で2000年以降まで活躍して有名であったキハ58 23が登場しますので注目ですね。今回は前回の続きで昭和36年度本予算内示で日本車輌で製造された車のうち、松本に新製配置された23~30をご紹介します。
このグループは8両全車が松本に配置され中央東線の急行「アルプス」系統に使用されました。松本には昭和38年3月末までに47両ものキハ58が配置され、312両が製造されたキハ58 0番台の1割以上を同区配置車が占めました。しかしながら同列車は長大編成を組むことから昭和38年4月より製造された長大編成対応の400番台によって一気に置き換えられ、なんとキハ58 401~440の40両がまとめて松本に新製配置されたのを皮切りに443・444と466~471の計48両が配置されました。これにより昭和38年10月の時点では0番台車47両は全車転出し、400番代48両に総入れ替えとなっています。キハ58系の製造後2年でのこのような大規模な転配が行われており、前回ご紹介した名古屋に配置された13~22も1963年で全車交代となっており非常に興味深いところです。
↑言わずと知れたJR継承キハ58で最若番のキハ58 23です。松本を追われた後は全国を転々としたのは有名で、特に1960年代前半は北海道や千葉への応援を含め各地をたらい回しのように移動しましたが、1966年以降は一旦高松で落ち着きます。そしてキハ65の増備により1970年に捻出され、千葉への応援の後九州大分へ転じます。その後は九州内を竹下・長崎と転じたのち、山陽新幹線博多開業の1975年3月で遠く小牛田に転じます。この後の7年の移動が非常に謎で、当車は九州時代に冷房化されていた筈なのに、冷房車の全くいない小牛田・弘前で長く活躍しています。そして東北上越新幹線開業に伴う1982年11月の改正で山形に転じ、急行「月山」「もがみ」の冷房化で活用されます。その後「月山」減車や「もがみ」廃止で国鉄末期には山形の若番冷房車は軒並み淘汰されますが、1986年11月改正で復活する急行「よねしろ」用に当車が抜擢され、山形から秋田に転じました。以降は同列車用として2008年まで秋田に在籍することになりました。
秋田は1982年11月改正までは急行「しらゆき」「きたかみ」用に東北では唯一のキハ58・28の冷房車を擁していましたが、同改正で急行が壊滅になった事で多くは山形に転じ「もがみ」「月山」用の冷房車に転用されましたが、一部冷房車は残った急行「むつ」で活躍していました。それも1985年3月改正で急行「むつ」が特急に格上げされて廃止されると秋田区は少数の非冷房キハ58系が普通列車用に活躍しているのみでした。しかし1986年11月改正で急行「よねしろ」が復活したため山形で用途を失ったキハ58・28の冷房車の一部が秋田に転用されました。この際にキハ58 23・54・82・122という若番達が山形から秋田に転じており、これが運命の転属になっています。1986年11月改正と言えば全国的に急行形気動車の整理が行われており九州や四国では比較的中期車のキハ58冷房車も淘汰対象になっていたので、これらを転用できれば良かったのでしょうがね。
前置きが長くなりましたが、形態は1991年の車両更新及び1993年の前面補強施工により当車がそれまで持っていた転属の痕跡が全く無くなっているのが残念でした。ただし東北に1975年以降在籍していたにもかかわらず終始タイフォンシャッターが取り付けられないなど、不思議な面は残していました。
↑参考までに車両更新前の姿です。正面では1970年に千葉へ応援に行った名残でヘッドマークステイが付いており、放送用KE66ジャンパ栓納めは秋田局標準で尾灯の横辺りにあり、足掛けは初期車の名残でタイフォン上部にありました。またその横に更に別の足掛けもあり、恐らく四国時代の放送用ジャンパ栓納め台座の名残であると思われます。このように1991年の更新前は相当濃厚な顔立ちでした。
キハ58 24
↑松本を追われた後は1964年より広島管内に居座り、1965年からは岩国に配置され急行「ちどり」で長く活躍しました。しかし1982年に運用減少で向日町を追われた汚物処理装置付き車が広島へ流れ込み、広島の中期車が岩国に転じ、岩国の車は全車が亀山に転ずるという入れ替えが行われました。当時岩国にはキハ58 5・24・25・40・43・136という若番メインの6両がいましたが全車が亀山に転じています。亀山ではキハ35系に代わりキハ58系が関西本線や片町線の運用に入るようになっており、また信楽線もキハ55系からキハ58系に置き換えられています。その後は1985年に急行「きのくに」廃止により和歌山から状態の良い車が転入したこともあり若番車はJRへ継承されず廃車になりました。
この車は初期車由来のタイフォン上の足掛けや、広島由来の車体側面中央にあるサボ挿しが歴史を物語っていました。
キハ58 25
↑この車は24とほぼ同じ経歴を辿っています。形態も似ていますが当車はワイパー更新が行われており、またタイフォン上の足掛けは運転席側も残置されており特徴的でした。
キハ58 26
↑この車は1963年に松本を追われた後は名古屋に転じており、名古屋では1963年にキハ58 13~22が転出している最中に松本から名古屋に転ずるとは少々意味不明です。以降は名古屋で長く活躍しますが1970年には急行「紀州」の運用の絡みでしょうか、和歌山に転じます。その後は和歌山で長く活躍しますが、若番で老朽車であったからでしょうか1980年の381系増備による急行削減で捻出されそのまま亀山に転じます。この頃の亀山では主に勾配路線の信楽線で運用されました。1982年には美濃太田へ転ずるも1984年には七尾に転じ一生を終えました。
亀山時代と七尾時代では顔つきが変わっており晩年は若番車の痕跡が少なくなっていました。ワイパーは原形のままで七尾標準の手すり撤去は施工されていませんが、タイフォンには傘状カバーがかぶさっていました。また水タンクは新潟・金沢標準の扁平の物に交換されていました。
キハ58 27
↑松本を追われた後はしばらく東北を転々としましたが、長大編成対応車配備により1965年に和歌山へ転じて長く使用されます。1972年にはキハ81転用による「くろしお」増発のため急行が減少し、福知山へ転じます。その後は豊岡で長く活躍しましたが、1985年3月の急行「きのくに」廃止によるキハ58系中後期車の転入により捻出され、1985年には廃車になっています。
形態は後藤工場標準形に整形されており、若番車の面影はあまりありませんでした。福知山地区の車両は放送用KE66ジャンパ栓納めがタイフォンの上にある車が多かったですが、当車は関西地区のように尾灯とタイフォンの間付近にありました。
キハ58 28
↑非冷房車ながらこのグループの中ではかなりクセの強い形態をしています。
松本を追われた後は東北を転々としましたが、長大編成対応車配備により1965年に水戸へ転じて長く使用されます。1966年より常磐無線アンテナが使用されますので当車も同アンテナを取り付けました。その後は長く水戸で活躍しましたが1980年に徳島より冷房車を受け入れると非冷房車は捻出され盛岡に転じます。1982年11月の急行削減後は一ノ関に転じて大船渡線・北上線の普通列車で使用されましたが、同区最若番であったこともありJRへ継承されず廃車になりました。
当車は常磐無線アンテナ取付車では最若番でした。一ノ関へ転出後はアンテナが取り外されていたようです。当車はタイフォンカバーに特徴があり、水戸から盛岡に転じた際に回転蓋式に改造されていますが、通常は横向きに取り付けられるものが当車は455系電車等のように作用箱が上に来るように縦向きに設置されました。こんな付け方の車は当車しか見たことが無く、極めて珍しい車になっています。また当車は水戸時代が長いこともあり、デフロスタが水戸特有の取り付け金具が左右にあるものを付けています。
キハ58 29
↑松本を追われた後は長崎に転じ、後に高松に転じて四国で長く使用されました。1973年に高徳本線の運用が分離された際は徳島へ転じ、以降同区で活躍しました。1978年には気動車急行「ちくま」「ゆのくに・越後」の廃止により長野から高松にキハ57が転用された関係で高松の中後期車が徳島に転入し、徳島の若番車が他へ転用される動きがあり当車は七尾に転じました。以降急行「能登路」で活躍しましたが、先日のキハ58 17と同じく国鉄末期の車両転配で廃止の決まっていた越美南線用の美濃太田区キハ58と交換され当車は美濃太田に転じました。そして2か月余りの活躍の後越美南線は廃止され、当車も廃車になりました。
1980年まで徳島にいたこともあり四国の痕跡が強く残っており、特にKE66放送ジャンパ栓納めは四国特有の形状です。それに加え七尾でワイパー更新され運転席窓下の手すりは無くなっており、七尾と徳島のミックスされた顔になっていました。屋根上の水タンクは確認できる資料がありませんでしたが、ひょっとすると扁平のものに交換されているかもしれません。
キハ58 30
↑松本を追われた後はキハ58 26と同じく名古屋に転じますが、1965年には高松に転じます。以降しばらく四国で活躍しますが1970年のキハ65増備で和歌山へ転出し、1972年には「くろしお」増発で捻出され岡山に転じます。岡山では「伯耆」「砂丘」等で活躍しましたが1980年の減車で福知山に転じます。そして1986年11月の福知山線電化で急行「丹波」が廃止され用途を失い廃車になりました。
外観は後藤工顔でしかも福知山によくあるタイフォン上に放送用KE66ジャンパ栓納めがあり、正面窓には丸いステッカーが貼ってありました。側面の運転席側窓の下部には台枠付近に点検蓋があり、これは四国によく見られた形状でした。同車の数少ない四国時代の痕跡でしょう。
いかがでしょうか。今回のグループも転配の多い車両ばかりで興味深いものがありました。特に北海道から四国・九州を渡り歩いた23番はその筆頭格と言えるでしょう。
次回は続きで昭和36年度本予算内示のうち、新潟鐵工製のキハ58 31~42をご紹介したいと思います。
今回も最後までご覧いただきありがとうございました。それでは次回もお楽しみに!!
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にもキハ58系各車の解説がありますのでご覧になってください。