1の坊主っくりが繰り出すネタにしては余りにもなネタだったと、今にしてもそう思います。

 

2学期になってクラスの皆が「架空〇〇」ごっこに飽き出した頃、定期試験と文化祭に向けての練習で忙しかった「筈の」私は、間髪を入れずに「国鉄陸越北線(現陸越東線)」のアウトラインを書き始めていました。非電化・電化私鉄から非電化国鉄ローカル線に重心が移ったため、両総鉄道の進化はここで一旦ストップします。この時点で明確にした事は、路線の設定と車両の一部、そしてイメージボードには描かなかった「まだ見ぬ田舎としての異世界」の景観だけでした。

 

 

1981年、悪名高き「神奈川方式」と言う予定調和型高校受験システム(ア・テスト5割、内申3割、本番2割)の恩恵を受けて無事中学から足を洗ったと思った途端、高等学校と言う闇のダンジョンに堕ちた私は、再び両総鉄道のリペイントに取り掛かっています。

 

この時は構内線路配置図、列車運用図表、車両運行図表まで見よう見真似で描き散らかし、栗源発横芝経由新宿行き急行(勿論気動車)を設定して見たり、系列会社で大風呂敷を広げて「世界に広がる両総鉄道グループ」だのをやらかして、順調に架空鉄道として成長させていました。

 

当時のノートは見当たらないので、恐らく引っ越しのどさくさに廃棄されてしまったのでしょう。