総鉄道について、発案当時当時12歳だった私が、何を考えて線を引っ張ったのかを思い出すままに考察します。

 

授業で使う地図帳に勝手に線を引っ張る事から架空鉄道が始まる、これは今も昔も変わらないでしょう。私が当時使っていた「高等地図帳」はそうしたヒゲ線で真っ黒でした。

 

その頃私が惹かれていた風景とは「寂しい風景」。

 

地図帳しか地理的情報がなく、行った事のない他所の土地は荒涼とした原野としか想像が付きませんでした。その多くは地図帳で緑や薄緑に塗られていて、駅はあっても駅前には何も建物がなく、サアッと整地された分譲地に立てられた幟旗が強風に吹かれ惑い、その萬陣の弩風は乾燥した赤土を吹き上げ、遠景の林の梢から梢へ、野から野へ、黄色い砂塵を吹きやり追いやる、そうした自然が蛮力を振るって止まない荒涼の大地です。

 

そんな中、千葉県成田空港「予定地」近くの谷あいに流れる「両総用水」の文字が目に留まり、それに沿って関東鉄道のような気動車が走る路線があったらどんなにか「心折れる程寂しい事だろう」、その思いで線を引っ張ったのが最初でした。

 

因みにこうした「見知らぬ土地の荒涼とした景観が醸す心寂しさ、心寒さ」への怖れと憧憬の気持ちが、後に弊屑サイト「(ピー)景院」の由来となって行くのですが、それはまだまだ後のお話。