は1978年当時、私は地図帳に引っ張った両総鉄道で何をしたかったのか?

 

路線としては総武本線の横芝から多古町、栗源町を経由して成田線の佐原を結ぶ非電化単線の民営鉄道で、当時開港間際だった成田空港(開港はこの年の5月20日)は華麗にスルーしている線型でした。

 

勿論当時の私も考えました。折角人が大勢集まる空港だから、何か関連性はあった方がいいのではないかと自問自答、しかし結論はスルーでした。理由は「ローカルな雰囲気が崩れる」と言うもので、「三つ子百まで踊り忘れず」と言うヤツです。(下の画像は1975年、小4の頃描いた落書き。当時からこんな景観に萌えていたんだ、ヤなガキだ)

 

 

 

私が目指したのはキハ41000や関鉄800のような気動車が(12歳がチョイスする車種ではない点に注意)水田の畷や集落の陰を走り抜ける光景であって、明確に町場のそれではなかったのです。「雀百までわしゃ九十九まで」ですね。