昭和60年(1985年) 2月
山陰線旧型客車最後の乗車(私の場合)
※個人的事情に関するブログ
※小学5年生の学年末
【一部差し替え 令和4年4月12日等】
【修正 令和5年5月17日等】
1 はじめに①
今回のブログの投稿日は令和3年(2021年)4月29日です。4月29日は昭和の日です。
2 はじめに②
(1)昭和60年(1985年) 3月ダイヤ改正前の山陰本線京都口(事実関係)
山陰本線京都口においては、昭和60年(1985年)3月ダイヤ改正まで旧型客車が運行されていました。(山陰本線全線で旧型客車が消滅するのは、昭和61年11月ダイヤ改正)
旧型客車が山陰本線京都口で運行されていた時代、国鉄山陰本線は、私の地元(現在の京都府南丹市・京都府亀岡市。当時は「口丹地区」「南丹教育局管内」等の言い方がよくされていたと記憶している)では単に「山陰線」と言われていました。野中広務氏の著書にも次の通り「山陰線」という言葉が使われており、当時は「山陰線」という言い方が一般的でありました。
<引用>
「(前略)竹下登元総理も、島根県飯石郡掛合町の青年団長から飯石郡連合青年団長となり、メキメキ頭角を現していた。(中略)後に、東京の青年団体協議会の大会に行く時には、山陰線で一緒にという仲になった。(以下略)」
※引用元:『私は闘う』(著者:野中広務氏)
※引用理由:旧型客車が運行されていた時代の山陰本線について、一般的に山陰線と言われることが圧倒的に多かったことを証明するため
また、旧型客車が運行されていた時代の山陰線の列車について、私の地元では、当時は、一般的に「汽車」と呼ばれておりました(私の記憶では)。
(2)当ブログでは
・(1)に記載した事情により、今回のタイトルでは「山陰線」という言葉を使用しています。
・昭和60年3月ダイヤ改正前に国鉄山陰本線で運行されていた旧型客車について、当ブログにおいては、「山陰線旧型客車」と呼ぶ場合があります。
(3)個人的事情
私は、小学生の時(昭和55年4月~昭和61年3月)、何度も体調不良を起こし、小5の学年末まで何度も京都府立医科大学付属病院(いわゆる府立病院)に親や祖母に連れていかれました。往路は、国鉄山陰本線の八木駅から福知山発京都行き50系普通客車列車(1984年時点では、八木駅を7:07に発車する10両編成の50系普通客車列車)に乗車して京都まで移動し、復路は、京都駅を16時頃に発車する福知山行きの旧型客車(837列車)で移動しました。最後に、この方法で府立病院を受診したのは、昭和60年2月で、その際は、祖母につれられて受診しました。
※昭和60年2月の旧型客車乗車は、私にとって、最後の山陰線旧型客車乗車となりました。
※昭和60年2月の旧型客車乗車は、私にとって、令和3年3月におけるDL「やまぐち」号乗車前における最後の「茶塗装の旧型客車」乗車となりました。
※昭和60年2月の旧型客車乗車は、私にとって、令和3年3月におけるDL「やまぐち」号乗車前における最後の「DD51形ディーゼル機関車が牽引する旧型客車」乗車となりました。
※参考までに、#116のブログのURLです。
3 昭和60年(1985年) 2月府立病院受診 行程
昭和60年2月、祖母に連れられて、私は、京都府立医科大学付属病院(いわゆる府立病院)を受診し、検査を受けました。その時の行程は次の通りです。また、この時は、小学5年生の学年末でした。(自分と祖母の行動及び当時の50系客車、山陰線旧型客車に関する事実関係両方を記載しています)
<行程>
(1)八木駅→京都駅(国鉄山陰本線)
①往路は50系客車で移動(自分と祖母の行動等)
往路について、八木駅から京都駅までは、国鉄山陰本線を利用しました。具体的には、八木駅を7:07に発車する50系普通客車列車(10両編成)で京都駅まで移動しました。この列車は、京都駅に8:06に到着しました。(多分京都駅山陰2番ホームに到着)。
(列車番号等は②の参考資料をご参照ください)。
②当時の山陰本線京都口の50系客車等に関して(R5.5.17修正)
<参考 上記10両編成の福知山発京都行き50系客車の写真等>
<引用>
※昭和60年(1985年)5月12日八木駅にて
(ソロ鉄ブログ管理者補足説明)
※この写真は八木駅を7:07に発車する京都行き50系普通客車列車
※この写真の50系普通客車列車は、福知山5:36発京都行き834列車(834レ)。この列車は、福知山発車後山陰本線を経由し京都駅に向かう列車で、京都駅には8:06に到着。なお、昭和60年3月ダイヤ改正前は、福知山を5:38に発車する832列車であった。
※この写真は私の小6の時の修学旅行の写真。修学旅行終了後、学校が児童にこの写真を配布。
(自分で撮影した写真ではなく、当時学校から配布された写真のため、引用の形式に変更)
(R4.4.12差し替え)
<参考 当時の山陰本線京都口の50系客車参考資料>
<引用>
※DFアロー・中原研二氏撮影。使用については、DFアロー・中原研二氏より了解を得ております。
※内容は、山陰本線旧保津峡駅における50系客車(326列車)とキハ47形気動車(127D)との行き違いの場面で、1986年2月27日に撮影、とのこと。
※LLP有限責任事業組合トランスポート・DFアローのこちらのホームページもご参照ください。
https://www.apionet.or.jp/DF5051/dd51/dd51_09.htm
(ソロ鉄ブログ管理者補足説明)
・この写真の50系客車は7両編成。上記の通り、この写真の客車列車は326列車、とのこと。
・1985年3月~1986年10月の326列車は、当時の時刻表等によると、園部発京都行の客車列車で、朝の通勤列車でもあった。326列車が京都に到着後、折り返し福知山行き833列車となった(多分)。また、1985年3月~1986年10月の時期については、山陰本線京都口の普通客車列車は全て50系だったと記憶している。
(R3.4等アップロード)
<参考>
※kumoha54氏がユーチューブに投稿された動画にも、1984年における、福知山発京都行き50系客車で、八木駅を7:07に発車する50系客車(10両編成、京都駅に8:06に到着)が登場します。その動画のURLは次の通りです。
<参考>当時の京都駅の駅舎は次の通り
<引用>
※ヤフオクで入手したオレンジカード
(2)京都駅→府立病院(自分と祖母の行動等)
市バスで移動
(3)府立病院受診等(自分と祖母の行動等)
半日かかりました。詳細な内容は覚えていません。昼食は、いつもの通り、府立病院の食堂(地下?)で中華そば。
(4)府立病院→京都駅(自分と祖母の行動等)
市バスで移動
(5)京都駅→八木駅(国鉄山陰本線)(R5.5.17修正)
①復路は山陰線旧型客車で移動(自分と祖母の行動等)
復路については、京都駅から国鉄山陰本線を利用し、山陰線旧型客車で八木駅まで戻りました。具体的には、京都発福知山行き837列車(山陰線旧型客車の普通列車)にて移動しました。この時は、茶塗装の旧型客車に乗車しました。
これは、私にとって最後の山陰線旧型客車乗車となりました。
なお、八木駅にて、亀岡に向かう同じクラスの小5の児童数名(この児童数名は、児童だけで亀岡に向かおうとしていた様子)に見つかり声をかけられました。
②837列車に関して(事実関係)
837列車(京都発福知山行きの山陰線旧型客車)は、京都駅山陰2番ホームに入線し、(1985年1月時刻表によると)京都駅を15:57に発車し八木駅には16:59頃に到着するダイヤとなっておりました。(参考までに、この837列車は、八木駅を16:59に発車し、山陰本線経由で福知山に向かうこととなりますが、福知山には18:57に到着するダイヤとなっておりました)
この列車の勇姿に関して、参考となる写真資料が何点かありますので、参考までに掲載・引用します。
<837列車>
<引用>(R4.5.6追記)
※メルカリで入手、出品者了承済み、転載等禁止
※場所は、かつての山陰本線保津峡駅
(ソロ鉄ブログ管理者補足説明)
※この写真は、昭和60年3月以前における山陰本線保津峡駅。時刻は夕方頃と思われる。詳細な年月日については不明
※この写真の旧型客車は、夕方の京都発福知山行き普通客車列車と思われる。
※この写真の50系客車は、夕方の園部発京都行き50系普通客車列車と思われる。
※その他詳細については今回は記載省略
<茶塗装の旧型客車 車内>(R4.10.27差し替え)
※令和2年12月 京都鉄道博物館にて自分で撮影。当時の茶塗装の旧型客車車内。
<その他>
・次のブログをご参照ください。
・なお、八木駅については、令和3年4月10日より新駅舎が使用されておりますが、これまでの旧駅舎については次の参考資料の通りであります。
<参考 当時の八木駅駅舎>
<引用>
※令和2年10月、当時工事中であった八木駅仮囲いに展示されていた写真。
※右上の写真が、八木駅旧駅舎。
※引用理由:昭和60年における八木駅駅舎についても、この旧駅舎の写真とあまり変わらないと思われるため、参考までに引用。ただし、当時は国鉄のため、「JR」はついていない。
(R2.10アップロード)
4 昭和60年(1985年) 2月府立病院受診後(個人的事情)
この日の受診以後、私は、府立大学で受診する、ということはなくなりました。しかし、昭和60年(1985年)2月の時点では、山陰線旧型客車が私の地元から消滅する、ということを私は夢にも思っていなかったです。
また、当時のテレビCMでは、西川きよしが昭和60年(1985年)3月ダイヤ改正後について「便利になる、便利になる」と盛んに言っていたのを私は覚えております(細かいところまでは覚えていませんが)。
しかし、実際にダイヤ改正が実施され、旧型客車が私の地元から消滅したことに気づいた時、私はショックでありました。(私の場合は、八木駅の発車時刻が書かれたペーパーが新聞と一緒に家に届いた際、浜田行き・米子行き・出雲市行きの列車がなくなっているのを見て、旧型客車が消滅したと気付きました)
このことに関しては、後日、改めてブログを作成するかもしれません。
私が再び茶塗装の旧型客車に乗るのは、あるいはDD51形ディーゼル機関車が牽引する旧型客車に乗るのは、この時(昭和60年3月)から36年後の、令和3年(2021年)3月のDL「やまぐち」号乗車、ということになります。
<参考文献>
『私は闘う』(著者:野中広務氏)(文春文庫)
『国鉄監修 交通公社の時刻表』(1985年1月号)(日本交通公社)
<Pick>
引用箇所について転載等禁止
本日も最後までご覧いただきありがとうございました。