続きです。
いよいよ最終日。前日酷い終わり方をしてしまいましたし、翌日にお仕事も控えているのでゆとりのスタートとします。
〈目次〉
企救丘駅・志井公園駅乗り継ぎ
まずは適当な新幹線で小倉駅に。
乗りつぶしというのもありますが、どうやら終点から結構簡単に乗り換えれるという事なのでそれのお試しも兼ねます。
しかし駅の位置が目立つ目立つ。確か広告も兼ねてわざと目立たせるように作ってるとかどっかの雑誌かなんかで見たような気がします。
車窓はいたって普通の住宅街を走る普通のモノレール。通勤に使っている人も多くいそうです。
10分間隔というのも乗りやすいポイントでしょうね。
そして企救丘駅に到着。ここから日田彦山線志井公園駅に乗り継ぎます。
町中を10分掛からずに乗換が完了。
wikiによるとモノレール駅完成後にこの志井公園駅が開通したという中々の交通局泣かせの駅らしく。
列車本数はこちら志井公園駅が1/h程度に対して、企救丘駅は6/h。運賃は40円程度日田彦山線が安い程度なのでそう致命傷にはなってないような気がします。
ただ定期の料金が通勤通学共に5,000円程安いというのが日田彦山線の強みのようです。
ラッシュ時は2-3本列車が来ますからね。
棲み分けはある程度出来てるもの…?と思われます。
ここからは下関を目指します。
途中西小倉に寄りつつ本州方面の列車で下関へ。途中で名物の交直セクションを楽しみます。
未だに交直セクションで電気が落ちるのがこの区間の415系の面白いところですね。
○○のはなし乗車録
下関からは○○のはなしに乗車します。
ちなみにこれは予約の面で最難関だったのです。
今回の企画で他に乗車した列車は案外予約自体はすんなり取っていただいたようなのですが、これだけはどうしても満席ばかり。ギリギリのところで出たキャンセルに無理矢理滑り込む形となりました。
この区間唯一の観光列車かつ山口県内は幕末維新フリー以外のフリー切符が基本的に無いので人気となったものと思われます。
西日本は意外とフリー切符が少ないのです…
途中海のある区間で徐行したり、海が見える方を向いて…といういわゆる鉄板要素が盛り沢山。
パッと見正直ありきたりな観光列車の一角なのですが…
コンセントがついている。
キハ40にコンセント装備。べるもんたは勿論花嫁にすら付いていなかったコンセントが標準装備されている電源乞食系の人間には本当に嬉しいサービスでした。
途中で撮影タイム?も勿論用意されています。
そして沿線に何も見当たらない。季節の問題なのでしょうが、米とか植わってるんですかね…?普段は…
そう思いたい。ただの荒れ地ではないことを。
そんなこんなで長門市駅に到着。
列車は東萩に向かうのですが、このまま東萩に行ってしまうと列車本数の都合上1日それで完全に消えてしまうので今回は長門市で下車としました。
個人的にはやはり長門有希でしょうか。艦これとか出てくる人も居るのでしょうが、自分の中ではやはり長門有希。
結局元祖はこの辺りの国名ですので
存在意義とは?仙崎支線
そして後から来た列車で仙崎駅に到着。
並行バスの方が本数も多く便利なところまで向かっているので存在意義もよく分からない路線。結構あっさり切られるような気もしますが、今の今まで残っているという事は意外と鉄道としての使命がまだ果たせているのかもしれないですね。
この後折り返して長門市駅に。
周辺の夜はスナック、昼はランチみたいな店でママと喋りながら食事。
こういうので良いんだこういうので
美祢線乗車録
美祢線といえば時刻表で何故か他のローカル線とは異なり、黒色で表示されている路線。運賃は一般路線と同じという不思議な路線ですね。
理由も有名な通り元々の貨物輸送の名残。
ということで沿線には貨物が走ってたであろう痕跡が多々残る路線です。
そんな夢の跡が残る路線という事で前々から乗ってみたかった路線に今回初乗車です。
過去には南大嶺駅から大嶺駅までの路線も伸びていたほどに面白い路線だったようです。
ちなみに個人的な話ですが、この路線の存在を初めて知ったのが1990年の時刻表を入手した大学生ぐらいとかなり後だったんですよね。
なんじゃこりゃ?と思いつつ、まぁ貨物の名残の一つだなと。
廃止も1997年4月とギリ生まれる前なので何とも言い難いのですが、写真の切り欠きホームから過去に列車が発着していたというのはアツい。
そのうち駅の跡地にも行ければいいですねぇ…
そう思いながら厚狭駅に到着。
ここからまた九州方面に戻ります。
続く