[ 国立公園鉄道の探索 ]
島原船津(島原鉄道線)
島原鉄道線の駅では、海辺にある大三東や古部が耳目を集めていますが、この島原船津も面白い駅です。
駅は、その名の通り港に近いところにあります。そのため、風景が好いだけではなく、歴史的にも見所がありまして、散策拠点とするには相応しい駅だと思います。
ホームからも海が見えます。
駅には貨車も置いてありました。貨物営業は60年以上も前に終了しているようですから、その後も鉄道事業用の資材運搬などで使われていたのだと思います。
駅舎も趣があります。
踏切を渡って海へと向かいます。黄色いディーゼル車が沢山待機していました。
駅構内の一角に神社がありました。お社のわきに車輪も奉られておりました。
港の一部が駅と接している、といっても差し支えない程です。
点検中の車両もおりました。
反対側から眺めてみます、かなり急カーブして検査場へ入るようです。
車両が移動しました。、しっかりとしたビットが出現しました。ここから車両下部の点検ができるようになっていることが分かりました。
もう一つ、島原港駅側の踏切を渡って海辺を目指します。
島原船津駅は、九十九島(つくもじま)の近くにあります。1792(寛政4)年に起きた大地震で眉山が崩落、その時大量の土砂が有明海へ流れこみ出来た島々です。島原大変といわれた大災害ですが、現在は松島のような景勝の地となっています。
波静かな島々の内側は天然の良港となっています。
港の背後には、九十九島を作り出した眉山が聳えています。
港の一角に「島原街道」という表示があり、「龍馬の長崎初上陸の地は島原だった」と記された銘板がありました。
そこには、勝海舟の「海舟日記」から一部抜粋された文章が表示されています。
1864年、四か国連合艦隊が長州・下関を砲撃しようという動きがあり、それを「回避させよ」という幕命を受けた勝海舟は、海軍塾塾頭の坂本龍馬らを率いて神戸から長崎へと向かいます。この時は、神戸から瀬戸内海を西へ船で移動して、佐賀関付近で九州へ上陸、肥後街道など中央構造線沿いの最短距離をとって熊本へ、そして有明海を渡りここ島原に再上陸して長崎へ進むことになりました。
「海舟日記」の島原付近の描写には興味深い記載も含まれています。
「 二十二日
払暁 島原へ着船 城下本陣へ休息 直ちに出立 」と格調高い文章が始まります。
この後は難しい、現在では使われていない漢字も混ざりますので現代風に読んでみます。
「この地から長崎までは、険しい地勢である。田畑の間に大石も見られ、小石が道路に満ちていて大変な悪路である。雲仙岳の噴火による
西洋でいうラアミ(溶岩)が時を経てこのような姿となったものと思われる。
会津(現在の愛野)に泊まる。 二十三日 」
とあります。
この描写からは、眉山崩落による島原大変から72年たった段階でも、あたりの土地がかなり荒れた状況であったことが窺えます。
近くには、蔵造りの建物も見られます。
有明海から水揚げされたお魚を商う店もありました。