東関道高速バス散歩(7)~平成21年東京-白子線・千葉白子急行線サンライズライナー~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

ふと、海を見たくなった。

 

山国で育った僕には、海への憧れがある。

東京湾岸の埋め立てられた海岸ではなく、自然のままの砂浜に立ってみたくなると、僕が選ぶのは、三浦半島か、九十九里浜であった。

 

 

三浦半島は、学生時代から友人と車で出掛けたり、職場の研修で逗子や三浦海岸で過ごした経験があり、手頃な距離感がある。

大学生の頃の僕は免許を持っていなかったが、気軽にドライブに誘ってくれる何人かの友人がいて、講義が終わると車で繰り出しては城ヶ島の灯台を目指したものだった。

大学が品川区にあったので、第三京浜から横浜横須賀道路を使う経路が定番で、当時横横道路の終点だった佐原ICで県道27号線に下り、金田湾に突き当たる野比で国道134号線に右折して波打ち際を南下する道筋は、今でもありありと思い浮かべることが出来る。

 

途中、第三京浜の保土ケ谷PAや国道沿いのファミレスで夕食を摂るといった道草をして、コーヒーのお代わりをしながら時が経つのも忘れてあれこれ話し込むような行程だったから、城ヶ島大橋を渡る頃には、深夜、日付が変わる様な頃合いになっていた。

エンジンを止めた数台の車が蹲っているだけの城ヶ島灯台の駐車場や、居並ぶ土産物店が全てシャッターを閉ざして真っ暗になっている路地を歩いていると、こうして夜更かしをして遊びに来ていることが、何やら大変な悪事を働いているような心持ちがした。

鬱蒼と木々が繁る坂道を登り、断崖の上に建つ灯台から月明かりに照らされた夜の海を眺めた時の、深閑として張りつめた空気を、恐ろしいもののように感じた。

それまで大声で喋っていた友人たちも、いつしか黙然と佇んで、気配を消している。

打ち寄せる潮騒と、一定間隔で闇を切り裂く灯台の光芒だけの世界である。

学生時代の様々な思い出の中でも、一段と鮮烈に心に刻まれるひとときだった。

 

 

社会人になってからは、九十九里浜に行く機会が増えた。

幅が広く、彼方が霞んでしまうほど長大な砂浜の方が、気分がのびやかになり、起伏が激しい三浦半島よりも落ち着くような気がするからだろうか。

 

九十九里浜を初めて訪れたのも、大学の友人とのドライブだった。

首都高速湾岸線から東関東自動車道、京葉道路、千葉東金道路を東進し、山田ICを降りてから、県道75号東金豊海線で不動堂海岸を目指したのである。

長閑な田園の中に集落や木立ちがぽつり、ぽつりと現れる県道75号線の風景は鄙びていて、ハンドルを握っていた関西出身の友人が、

 

「東京からちょこっと出るだけで、こんなに田舎になるんやなあ」

 

と呟いたことが、今でもはっきりと記憶に残っている。

 

 

自分で運転するようになっても、千葉東金道路を出てから九十九里浜に向かう道路の風情が忘れられず、海を見たくなったら、不動堂海岸に向かう頻度が増えた。

 

不動堂海水浴場の入口にある、焼きたてのハマグリを食べさせてくれる店も、行きつけとなった。

九十九里名物である焼きハマグリの店と言えば、浜焼きの元祖を名乗る不動堂海岸の食堂の知名度が高いようだが、店頭で焼いたハマグリを道端で食べさせてくれる、隣りのバラックのような小さな店の方が、1人で訪れることも多い僕には、敷居が低かった。

太平洋で採れた天然物の本貝は、とても身が厚く、食べ応えがある。

ずしりと重みのあるハマグリを網の上に置き、口が開いて、湯気を上げながら泡がブクブク鳴り始めると醤油を垂らし、身が箸で剥がれるようになれば、食べ頃である。

 

 

平成10年に、千葉東金道路の東金JCTから首都圏中央連絡自動車道が横芝松尾ICまで延伸されると、途中の山武成東ICから県道76号線成東酒々井線と県道121号線成東鳴浜線を使って、ほぼ一直線で行ける本須賀海岸に足を伸ばすようになった。

 

所々にイチゴの直売店が顔を覗かせる県道76号線は、下総台地の山ぎわを総武本線に沿っていて、途中、成東の町並みに差し掛かる。

昭和から平成の初頭にかけて、千葉-成東間特急バス「フラワーライナー」や東京-成東線「シーサイドライナー」で何度か足跡を印した懐かしい町であるけれども、初めて本須賀海岸を訪れた時は、目的地を定めて走っていたのではなく、位置関係が頭に入っていた訳でもなかったので、成東とはここにあったのか、と今更ながら驚いた。

電車やバスで訪れるのと、気儘な車で行くのとは、これほど印象が異なることに気づかされた。

 

 

本須賀海岸は、幅も長さも不動堂海岸より広く見える。

僕が訪れると、強い風が、砂煙を巻き上げながら渦を巻いていることが多かった。

近くに乗馬クラブがあるので、時折、馬に乗った人が砂浜を散歩している。

 

成東の名は、浜に押し寄せている荒波を見た日本武尊が鳴濤と名づけたことに由来すると聞いていたから、この海岸だったのか、と思う。

近くに食事を摂れる店があるような場所ではないが、それだけに人も少なく、時を忘れてのんびり過ごすには手頃だった。

帰りに、不動堂海岸に寄って焼きハマグリに舌鼓を打ったのは、言うまでもない。

 

 

平成27年の秋の土曜日に、仕事を終えると海が見たくなった僕は、車ではなく、電車で東京駅に向かった。

八重洲口の改札を出て地下街を歩き、軽く夕食を摂ってから、京成バスの東京駅八重洲口前停留所に足を運んだので、海よりも、高速バスに乗りたくなったのかもしれない。

 

平成3年に乗車した東京-銚子線「犬吠」号や、平成14年に利用した「シーサイドライナー」で立ち寄った頃には、八重洲通りの道端に置かれた簡素なバス停に過ぎなかったが、今では屋根が設けられて、九十九里や房総に向かう高速バス路線や、成田空港に向かう格安の「東京シャトル」がひっきりなしに出入りして、外国人も少なくない賑やかな停留所になった。

係員も常駐しているようで、成田空港行きのバスに大きな手荷物を積み込んでいる。

 

この立地を見ると、僕は近鉄の高速バスが停車する大阪駅前停留所を思い出す。

そこでは大阪駅すら見えない離れた場所に設置され、名前に反して地下鉄東大阪駅が最寄りであるけれども、阿部野橋、難波といった大阪市内で近鉄バスが寄る他の停留所に比して利用客が格段に多い。

京成バスの東京八重洲口前も、東京駅から少々離れているものの、大きなターミナルの集客力は凄いものだと思う。

 

その様変わりに目を丸くしながら、成東行きや、八街・千城台行きのバスを見送ると、間髪を入れずに「大網・白子・中里海岸」と行先表示を掲げた小湊鉄道バスが、のっそりと横づけされた。

 

 

東京を発着する高速バスで、海岸の近くまで足を伸ばしてくれる路線は、決して多くない。

夜行高速バスならば、東北の宮古・浄土ヶ浜に向かう「ビーム1」号や、南紀白浜に向かう「ホワイトビーチシャトル」、紀伊勝浦に向かう路線、四国の高松築港にある高松駅に向かう「ドリーム高松」号や「ハローブリッジ」号、今治桟橋に向かう「パイレーツ」号などがあるけれど、昼間の比較的近距離の路線では、なかなか思い浮かばない。

「〇〇海岸」と行先を掲げる高速バスは貴重である。

 
 

中里海岸は、剃金、古所、五井、幸治と並ぶ白子町の海水浴場の1つであり、白子町は、ハマグリとともに九十九里浜の名産となっているイワシ漁発祥の地でもあるという。

不動堂海岸でも、「イワシの町九十九里へようこそ」と書かれた看板を目にしたことが思い出され、我が国におけるイワシの水揚げ高は1位が銚子、2位が波崎、3位が飯岡、4位が片貝、5位が大津と、九十九里の漁港がベスト5に2つも含まれている。

 

白子と言えば、僕は鱈、鮭、河豚、鮟鱇などの精巣を酢の物、焼き物、汁物、鍋物として味わう料理を思い浮かべてしまうけれども、白子町は、平安時代末期に、甲羅の上に白蛇を乗せた白亀を祀り、後に房総一帯を治めた千葉氏の祈願所となった白子神社が由来の地名である。

時刻表でこの路線の開業を知り、白子の名から九十九里浜を思い浮かべて、僕は海が見たくなったのかもしれない。

 

 

白子中里行きの高速バスは、東京駅八重洲南口前を定刻16時05分に発車した。

 

このバスは東京臨海高速鉄道の東雲駅の近くにある京成バス東雲車庫が始発であるが、乗り込んだ車内に、東雲から乗車していたと覚しき先客は見当たらなかった。

銚子線や成東線のように、どうして浜松町を起終点にしないのだろう、と思ってしまうが、僕がそれらの路線に乗車した時も浜松町からの利用客が大勢だった訳ではなく、車庫から浜松町を廻る意義が少ないと判断されたのであろう。

 

我が国初めての超高層ビルとなった霞が関ビルを上回る高さ152m、40階建てで昭和45年に竣工した貿易センタービルは、再開発のために令和3年に解体される予定になっている。

計画が公式に発表されたのが平成24年で、東京-白子線が開業したのはそれより早い平成21年6月であるけれども、事前に様々な根回しが行われたのであろうから、京成バスグループも、千葉方面路線の定番となっていた浜松町発着を取り止めたのかもしれない。

 

 

宝町ランプから首都高速都心環状線内回りに入り、6号向島線、9号深川線、そして湾岸線へと目まぐるしく渡り歩く道行きも、久しぶりである。

 

宝町ランプを初めて通った時のことは、今でもありありと覚えている。

全長10mを超える巨大な車体を操って、2車線が並ぶ狭隘な直角カーブの外の車線に大きくはみ出しながら左へハンドルを切り、左側の料金所ブースをくぐるというバスならではの大技に目を見張り、運転手さんの見事な腕前に舌を巻いたのは、昭和60年に東京と静岡・名古屋を結ぶ「東名ハイウェイバス」に乗車した時だった。

あれから30年が経過してしまったのか、と容赦のない時の流れに呆然とする。

 

バスに乗っていて、通り抜けることが出来るのか、と息を呑むような狭隘な場所に差し掛かると心が躍る、という心理はどうしたことかと思うけれど、バスファンとして知られるエッセイストの泉麻人氏も、狭隘区間のある路線バスを「キリキリ路線」と名付けて愛好していると聞く。

 

 

九十九里浜の南端に近い白子中里ともなれば、東京湾岸を使う経路よりも平成9年に開通した東京湾アクアラインを通る方が近くなるようで、横浜駅と羽田空港から、白子町の最寄りの鉄道駅である外房線茂原駅へ向かう高速バスは、東京湾アクアラインを経由している。

東京-白子線は、東関東自動車道を通るバスの中では、最も南寄りの地域を起終点にしていると言えるだろう。

 

当時は、東京湾アクアラインを使って東京駅と房総各地を結ぶ高速バス路線が増え始めた時代で、それらのバスが首都高速都心環状線外回りに進入する京橋ランプもまた、難所とも言うべき構造になっているのだが、それはまた別の話である。

 

 

首都高速湾岸線から東関道に歩を進め、宮野木JCTで京葉道路、更に千葉東JCTで千葉東金道路に入ったバスは、所々に紅葉が混じる下総台地を東に進んで行く。

都心部から湾岸、そして千葉市近郊の住宅地を通り抜けて田園地帯へと、目まぐるしくも変化に富んだ車窓は、テンポの良い映画を鑑賞しているようで、飽きが来ることはない。

 

ここを東京-成東線「シーサイドライナー」で走った時からも、既に13年の時が流れていた。

あの時は初春の陽光に溢れていた野山が、今は、弱々しい秋の夕日を鈍く浴びている。

 

 

東京から1時間足らずで山田ICを出た白子行きのバスは、山田インター・みきの湯前、季美の森・東一丁目、季美の森・南センター前、大網中学校入口、大網駅と、十数分の間に6つもの停留所に立ち寄る忙しさとなる。

 

季美の森とは、大手不動産がゴルフ場と一体に開発した新興住宅地である。

その発想の妙には感心するけれども、僕はゴルフを嗜まないので、ゴルフ場と住宅を一緒にしてどのような意味があるのだろう、と無粋な疑問が湧いてしまう。

ゆとりのある街路の両側に並ぶ瀟洒な家々が、傾きかけた西日に照らし出されている。

 

 

JR外房線と東金線が分岐し、Y字型に分かれた両線のホームの狭間に駅前広場があると言う独特の構造を持つ大網駅に到着したのは、時計の針が17時を大きく回った頃だった。

 

昭和の終わりも近い頃に、千葉-成東線「フラワーライナー」に乗って東金線の反対側の終着駅である成東駅に降り立ち、この大網駅まで東金線に初乗りした時のことを懐かしく思い出す。

大網駅の佇まいは、その時と全く変わっていないようである。

20年以上が経ってしまったな、と思う。

 

 

この旅は懐古調になり過ぎているぞ、と気を取り直した僕を乗せて、バスは、九十九里浜に向かう黄昏の県道83号線山田台大網白里線をひた走る。

 

ちば興銀前、増穂局前、柳橋、白里小学校と、乾いた声の降車案内が忙しく車内に流れるが、大網駅で大半の乗客が降りてしまったので、閑散とした車内で席を立つ人は少ない。

田園の中に散在する集落を縫うように、緩やかな曲線を描きながら、県道は東へ伸びている。

この辺りの光景は、東金から不動堂海岸や、成東から本須賀海岸へ向かう道筋ととてもよく似ているけれど、バスで九十九里浜に向かうのは初めてだったから、新鮮味がある。

 

秋の日は釣瓶落としとはよく言ったもので、大網駅ではまだ明るかった車窓が、17時28分着の白里海岸では、すっかり暗くなっていた。

 

 

バスは県道30号線飯岡一宮線に右折して、浜辺に沿って南へ針路を変える。

この道は、飯岡町から一宮町まで58.9km、九十九里浜とほぼ同じ長さで海沿いに伸びていることから、九十九里ビーチラインの愛称を持つ。

左手には黒々と闇に沈む家並みや雑木林が視界を遮り、交差点で海岸の方を見通しても、九十九里有料道路の盛り土に隠れて、太平洋を目にすることは出来ない。

自分の運転で走ったことがあるので、それも折り込み済みだったが、やはり物足りない。

 

県道30号線の南半分に当たる九十九里町片貝海岸から一宮町までの17.2kmには、県道よりも波打ち際を九十九里有料道路が走っている。

そこを車で走った時の快感を思い出せば、白里海岸にも白子海岸にもインターが設けられているのだから、僅か1区間であるけれども、東京-白子線のバスも九十九里有料道路を使ってくれればたっぷりと海が眺められるのに、と恨めしく思う。

そのような僕の願望など構うことなく、バスは、眺望よりも地元の人々に便利なことが優先です、と言わんばかりに県道を走り続け、浜宿、牛込、保養所入口、白子車庫、白子驚と、停留所を小まめにたどっていく。

 

 

白子驚、とは奇妙な停留所名だが、白子町内に「驚」という地名が実在し、「おどろき」と読む。

隣りの長生村にも同じ読み方の「驚」という地名があり、また山形県にも小国町に「驚」という地名があるものの、こちらは「おどろく」と読むらしい。

 

白子町の「驚」の由来は、

 

「治承4年(1180年)、荏柄平太胤長の子、小高小太郎平重之が臣僕数人を率いて此の地に来たり、土地を開拓して帰農し、郷士となった。開拓当時は部落の形を為すばかりで、村の名称も小高野村と称していたが、徳川幕府治世下の寛文11年(1671年)、代官・中川八郎左衛門が支配するところとなり、再検地をしたところ台帳面よりも開拓地が広く、121石余に増石するほどであったので、検地役人がただただ『驚き入りし次第なり』とし、それ以後、驚村と称した」

と町史に書かれている。

 

長生村の方は、同村教育委員会の「長生村地名物語」によれば、

 

「昔は交通が不便であり、遠くへ出かける時の乗り物は馬や駕籠に頼るしかなかったが、とりわけ庶民には草鞋ばきの徒歩を励行した。山村の人々にとっては、海を見る機会とて年に1度あるかなしかであっただろうと思われる。静かな山村に住む人々が初めて海を見た時、彼らは果たしてどう感じたことであろうか?山村の静かな風景に対して、怒涛逆巻く荒海の動の風景を眼の前にして、ただただ驚くばかり。長生村の驚海岸は、こうして山村の人々が呼び始めて、やがて地名になっていったのではなかろうか」

 

と記されている。

 

小国町の「驚」は、誰かが何かに「ただただ」驚いたのではなさそうで、川の激流の「轟き」が「おどろき」に変化したものと伝えられている。

小国町には赤芝峡で有名な荒川が流れ、「驚」は、その支流の明沢川のほとりにある。

 

 

17時46分に着いた終点の白子中里は、背の高い棕櫚の木々に囲まれた広い駐車場だった。

 

自家用車が駐車されている敷地をぐるりと回って、乗降扉を開けたバスから出ると、生暖かい風が僕を包み込み、むせるような潮の匂いがする。

強く湿り気を帯びた独特の風の重みは、真夏の海水浴場を思い出させる。

身にまとわりつくようなべったりとした感触は、とても心地良いとは言えないけれど、これだ、と思う。

城ヶ島や不動堂、本須賀海岸と変わらない、この海の空気を味わいたくて、僕はこのバスに乗ったのだ。

 

 

砂浜まで歩いて、夜の海原を眺めてみたい、と考えていたのだが、ふと気づくと、降りたばかりのバスの隣りに、「千葉駅」の表示を掲げた全く同じ塗装をまとった小湊鉄道のバスが駐まっている。

停留所のポールを見れば、「サンライズライナー 急行千葉駅行」と書かれているから、東京-白子線には設けられていない愛称までつけられている。

後に小湊鉄道のHPを開いてみると、千葉-白子線の時刻表には「千葉白子急行線」と書かれているだけで、「サンライズライナー」の文字は見当たらないから、同社ではどのように扱われている愛称なのだろうか。

 

時刻表に目を凝らしてみれば、この便は17時50分の発車、なんと到着の4分後ではないか。

 

 

その次には18時55分発の上り最終便もあり、それまで1時間あまりを海辺で過ごすことが可能だったが、あろうことか、僕は「サンライズライナー」に衝動的に乗ってしまったのである。

 

車内には乗客の姿が皆無で、主のない座席が薄暗い照明に照らされながらずらりと並んでいる。

運転席に座った初老の運転手さんが、このような遅い時間に千葉へ行くのか、と怪訝そうな表情を浮かべたような気がしてならない。

地方と都市を結ぶバスは、午前の上り便と午後の下り便の利用客が多く、逆の便は空いている傾向がある。

白子に用事があってこれから帰るところです、といった顔で平然と乗り込んだつもりだったが、あれあれ、こいつはたった今、東京からのバスを降りて来たばかりではないか、と見抜かれているかもしれない。

 

車窓を思う存分楽しめる最前列の席もあいていたけれど、僕は運転手さんと会話を交わすのが何となく気恥ずかしくて、前から3列目あたりに腰を下ろした。

 

 

たった1人の乗客を乗せた「サンライズライナー」が走り出すと、途端に後悔の念が込み上げて来た。

僕は、海が見たくて、はるばる出掛けて来たのではなかったのか。

花より団子、海よりバス、であったのか。

 

僕は、「サンライズライナー」の存在を前もって知っていた訳ではない。

白子中里で、ほう、千葉行きのバスがあるのか、ならば乗ってみたい、と思っただけなのだが、それならば、午後6時近くに鉄道駅からも遠い土地に着いてから、僕はどのような手段で帰る算段だったのか。

大網駅や茂原駅への路線バスくらいあるだろう、と楽観的に考えていたのか。

今から思えば、冒険だったかな、と、ちょっぴり背筋が寒くなる。

 

白子驚、八斗、五井納屋、住吉神社前、白子車庫、白子アクア健康センター入口、剃金東、保養所入口、剃金十文字、牛込東、牛込、北納屋、浜宿、新浜宿、南四天木、中浜原、堀川橋、北四天木、臨海荘入口、白里海岸と、「サンライズライナー」の停留所は東京-白子線よりも遥かにきめ細かく、1~2分どころか、数十秒間隔の区間もある。

一般路線バス用の停留所を全て網羅しているのかも知れないが、乗って来る客は誰もいない。

 

 

最初は東京-白子線と同じ道を戻るだけであったが、県道83号線で大網駅から白里海岸に出て来た東京線と異なり、「サンライズライナー」は、白里を過ぎても、九十九里浜に沿う県道30号線を更に北上していく。

車窓は漆黒の闇に塗り潰され、心なしか沿道の灯も少ない。

 

南今泉、南汐浜、中汐浜、北今泉、サンライズ九十九里、と丹念に海沿いの集落や施設に寄りながら九十九里町に足を踏み入れたバスは、国民宿舎サンライズ九十九里の敷地内で転回すると、いきなり、九十九里ICから盛り土の上に敷かれた東金九十九里有料道路に駆け上がった。

ここで自動車専用道路に入るのか、と虚を突かれた。

 

東金九十九里道路は、九十九里有料道路と交差する真亀JCTから、千葉東金道路山田ICの近くの台方ICまでの10kmを結んで、平成10年に開通している。

「サンライズライナー」がこの道路を走るとは予想もしていなかったけれど、東京-白子線が通らなかった経路なので、思わぬ儲けものをした、と嬉しくなる。

時刻表には掲載されていないけれども、千葉白子急行線「サンライズライナー」の開業は、東金九十九里有料道路が開通した1ヶ月後であるので、端からこの道路を経由する前提で登場したのだろう。

 

バスが高速道路に入ると、訳もなく心が浮き立つ。

東金九十九里有料道路は対面通行で制限速度も時速60kmと低く、厳密な区分では高速道路の範疇には入らないけれども、インターを出入りする立派な自動車専用道路で、休憩所も設けられているから、走り心地は高速道路に引けを取らず、僕も余程の高速バス好きなのだな、と苦笑したくなる。

生まれて初めてバスで高速道路を体感した「東名ハイウェイバス」での爽快さの記憶が、自分で運転するようになっても、心の奥底から消えることはないのだろう。

 

 

瞬く間に東金九十九里有料道路を走り終えた「サンライズライナー」は、台方ICでいったん国道126号線に下り、丘山台三丁目、東千葉メディカルセンター、むぎわら公園、南センター、山田インター・みきの湯前と、こちらでも東京線よりこまめに停留所を経由してから、千葉東金道路に乗る。

最後の乗車停留所まで他の利用客が姿を現すことはなく、千葉まで僕1人だけという貸切状態が確定した。

何という贅沢か、とくすぐったいような気分になるけれど、運転手さんは、さぞかし張り合いのないことであろう。

 

国道126号線は車の量が多く、行き足が鈍った。

すぐ前を、成東発東京行き「シーサイドライナー」と思しき塗装のバスが、渋滞に引っ掛かっている。

道路の建設には膨大な費用と手間が掛かることを承知していながらも、どうして東金九十九里道路と千葉東金道路を繋げないのだろう、と、もどかしく感じてしまう。

 

 

ようやく流入路に入ることが出来た山田ICからは、十数年前に千葉-成東線「フラワーライナー」で走った道筋をなぞるだけである。

順調に走り出してしまえば、旅が幕を閉じようとしている寂しさが込み上げてくる。

やっぱり、中里海岸でゆっくり過ごせば良かったかな、と時を巻き戻したくなる。

終点のJR千葉駅まで残すところ30分たらず、潮風の匂いを嗅いだだけで肝心の海を見ることは出来なかったけれども、初体験のバス路線の車窓を満喫した週末の小旅行も、間もなく終わりを告げようとしていた。

 

次に九十九里浜にドライブする機会があれば、不動堂でも本須賀でもなく、白子中里を訪れてみようと思う。

 

 

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