有間川駅の次は名立駅。
相対式ホームの駅ですが、通過列車が通る本線が中央にある新幹線の駅みたいな造りです。
沿線は春満開。
(帰りは反対側に座って戻ってこよう)
と、思うほどの美しい景色が点在しています。
次の筒石駅はトンネルの中にある駅として有名ですが、下車することなくそのまま乗車。
能生駅。
かつては能生は西頸城郡能生町(にしくびきぐんのうまち)でしたが平成17年(2005年)に糸魚川市および青海町(おうみまち)と合併して糸魚川市となっています。
国道8号線を通ると日没の頃に能生漁港のところでカーブする辺りでは昭和の古い時代を思い出させる雰囲気でとても好きなところです。
近くには大きな道の駅「マリンドリーム能生」もあって、カニの町としててれびの旅番組などでもたびたび取り上げられているからご存知の方も多い地名だと思います。
しかし、鉄道ファンの方には「能生騒動」としての認知度が高いかもしれません。
まだ新幹線など無かった昭和30年代半ば…戦後の混乱も収まり高度経済成長期に突入していた我が国において、庶民にとってマイカーはまだ高嶺の花でした。
もちろん航空機移動も富裕層の移動手段でしたから庶民の長距離移動は専ら鉄道が主体でした。
昭和38年生まれの私が小学生時代を過ごした昭和40年代になってマイカーもようやく庶民の手に届くこととなりましたが、高速道路は東名・名神くらいなもので、地方の高速道路はほんの一部分だけが開通しているだけでしたから鉄道が長距離移動手段の主役であることには変わりありませんでした。
鉄道においても特急は「特別急行列車」ということで贅沢、庶民の足は急行列車でした。
そんな時代背景と急成長を続ける経済…当時の国鉄はそれまで東海道・山陽本線だけを走っていた特急列車を全国に走らせる計画を進めます。
常磐線・東北本線経由で上野~青森間に東北初の特急「はつかり」が登場します。そして昭和36年(1961年)10月1日には新しい80系気動車の改良型であるキハ82型を擁して大阪~上野・青森間に登場しました。
当時の特急列車といえばまさに花形…ダイヤグラムは国鉄本社により作成され、停車駅も厳格に国鉄本社で決められていました。地方の鉄道管理局が勝手に決めることはできませんでした。
デビュー当時の特急「白鳥」の大阪~青森間の途中停車駅は京都・米原・敦賀・福井・大聖寺(上りのみ)・動橋(下りのみ)・金沢・高岡・富山・直江津・長岡・新津・鶴岡・酒田・秋田・大館・弘前だけでした(大聖寺と動橋は加賀温泉郷に点在する粟津・片山津・山代・山中の玄関口として、各温泉地がそれぞれの最寄駅である大聖寺駅と動橋駅への特急停車をめぐって激しく争ったため上下列車で停車駅を分け合い、その後は中間にあった作見という小さな駅を「加賀温泉駅」として特急列車の停車駅として昇格させて集約させることで収拾が図られました)。
そのような時代にあって能生駅になぜか「特急列車が停車する」というニュースが流れて町は大騒ぎとなります。
小さな漁村の急行どころか準急列車さえ停まらない駅の時刻表には上り「白鳥」の発車時刻が書かれ、一部の市販の時刻表にも発車時刻が掲載されたというのですから当時の地元の人々にとってはまさに素晴らしい大ニュースだったことは想像に難くありません。
町では婦人会が当日に備えて踊りの稽古をして、「ミス能生」まで選出、当日は浴衣姿で踊って特急「白鳥」を出迎えて14時34分に停車した列車の運転士に花束を贈呈するなどのお祭り騒ぎに…。
しかし、列車のドアは開くことなく下り「白鳥」が通過してゆくとそのまま発車、出迎えた町の人々は愕然として見送ったといいます。
タネ明かしをすれば当時単線だった北陸本線の能生駅で上下の「白鳥」の行き違いをするために先着した上り「白鳥」が運転停車(客扱いをしない運転業務上の停車=通過扱い)であることを国鉄本社や中部支社が金沢鉄道管理局に通達せず、金沢鉄道管理局では「停車」と思い込んで「運転停車」の時刻をそのまま発表し、駅の時刻表に書き込んでしまったということのようですが、当時の能生の人々は特急停車駅となることにまったく疑いを持たなかったのでしょうか…?
ちなみに能生駅の名誉のためにも記しておきますと、JR時代には一部の特急「北越」や上野駅と金沢駅を結んだ夜行急行「能登」が停車していたこともありました。まあ当時の特急と現代の特急ではは格がまったく違いますがね…。
梶屋敷~糸魚川間ではそれまでの直流1500V区間から交流20000V/60Hz区間へと変わります。
そのため双方の間には電流が流れていないデッドセクションが設けられており、電車(電気機関車を含む)は惰性で通過、通過中に直流/交流の切り替えが行われます。もちろん交直両用電車以外は乗り入れることができません
デッドセクション通過中の動画です。
日本海ひすいラインの旅客列車はすべて気動車なので関係ありませんが…。
JR北陸本線時代には国鉄型の485系・489系・583系特急型車両や413系、そしてJR世代の681系・683系特急型車両に至るまですべての旅客列車はここで交流/直流の切替をして通過していました。もちろん貨物列車や旅客列車を牽引していたEF81型電気機関車もです。
現在ではJR貨物のEF510型電気機関車のみがここを通過する「電車」ということになりますが、えちごトキめき鉄道がJR西日本から413系3両とクハ455を1両という国鉄型車両を購入、国鉄交直両用型急行色に衣替えのうえ松任から直江津まで元カシオペア牽引機に牽引されて直江津まで回送されてきたので再びここを通過するシーンが復活することになりそうです。
架線柱には「交流」や「直流」を示す板が取り付けられています(背景の国道の向こう側の建物と重なって見にくくなってしまいましたが…)。
ちなみに交流は赤文字、直流は黒文字で書かれています。
なお、動画で「まもなく、えちご押上ひすい海岸です」と案内音声がながれていますが、えちご押上ひすい海岸駅は先月13日…つまり令和3年(2021年)3月13日に開業したばかりのトキ鉄初の新駅です。
県立高校や病院が近くにあることから国鉄時代から駅の設置について懇願があったそうですが、前述のデッドセクションがすぐ近くにあることから、駅を発車した電車がすぐにデッドセクションに入ってしまって十分な加速をしないうちに惰性での走行となってしまうことから駅の設置が見送られてきたそうです。
しかし、えちごトキめき鉄道となって気動車での運転となったのでデッドセクションによる問題が無くなって新駅設置が実現したとのことです。
えちご押上ひすい海岸駅は用地の関係もあってなのか、踏切を挟んで千鳥状に上りホームと下りホームが設置されています。
このときは柏崎からこの列車に乗車して糸魚川で下車したのでした。
いま振り返ってみると、7年前のあの時は信越本線では両端にクハ183-1500番台、中間に189系を組み込んだ長野総合車両センターのN101編成、そして北海道で活躍したクハ481-1508を新潟側先頭車として組み込んだ新潟車両センターのK18編成、そして信越・北陸本線では大幅にリメイクされた新潟車両センターの485系30000番台…と、JR東日本に残存していた国鉄型特急車両でも個性的な編成にたまたま乗車、北陸本線のローカル列車でも413系の編成の金沢方に急行型車両の外観を色濃く残していたクハ455を連結していた編成(もちろんクハ455に乗車しました)に乗車できたという、振り返ってみればラッキーな日でした。