縦58.5cm、横27.5㎝
本図の正式名称は「伊予国宇摩郡別子鉱山ヨリ同国新居郡新居浜浦二至ル概略ノ地図」である。本図と上巻ロ絵(ラレッシュヴィル図)図録27は描写法が酷似し額装が同じなので、いずれも明治15年(1882)ごろ惣開製錬所(のちの新居浜製錬所)の建設説明資料として作成されたものであろう。江戸時代以来の狭く険しい中持ち道と、明治13年11月完成したばかりの屈曲して緩やかな勾配の牛車道が対比参照できて奥味深い。
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(*´・д・)ノ☆コンバンワ☆
牛車道は牛による物資運搬の効率化を図るために作られた運搬路で
住友初代総理事廣瀬宰平によって1876(明治9)年に開削に着手していましたが
翌年に勃発した西南の役で一時中止になり、
その後1880(明治13)年11月に銅山峰から石ヶ山丈を経て立川中宿まで約10kmが完成しました
この事業により粗銅の運搬は、仲持と呼ばれる人達による運搬(女性30kg、男性45kgの荷物を背負って運んでいた)から牛による運搬に移行し、物資輸送の効率化に寄与しました
2018年6月3日にえんとつ山から上部鉄道の紫石までを折り返しましたが
その時つづら折に標高を稼ぐ道が地形図に所々載っており、
もしや牛車道なのではと思ってましたが…
別子銅山に詳しい方々のHPやblog記事を拝見している中で牛車道が現存している事を知りました
この2018年の探訪では、山根公園に駐車して尾根伝いに稜線(緑のルート)を歩いて上部鉄道の石ヶ山丈駅跡へと至りましたが
今回は九十九折の牛車道を辿って上部鉄道まで牛の如く、辛抱強く歩きたいと思いますw
いやいや牛になったつもりで長い長い大回りの牛車道を辿ります
1894(明治24)年に複式索道が完成し、それを利用して2年後には上部鉄道と下部鉄道も完成します
二つの鉄道は石ヶ山丈駅-打除駅間の索道によって結ばれました
別子銅山の近代化の変遷で牛車道は大動脈から外れ、
牛から蒸気機関車・索道へと移りますが
索道で運べない荷物を運ぶために何頭か近江牛が残されたという資料があったので
上部鉄道の完成が即牛車道の廃止とはならなかったと考えられますが
1902(明治35)年、第三通洞の開通により、
東平(とうなる)を経由するルートに移行し、上部鉄道も1914(明治44)年には廃止となります
この時より石ヶ山丈を経由する牛車道は使われる事が無くなったものと思われます
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今から107年前に使われなくなったと思われる牛車道は
現在、藪になっている所や林道になっている所があるようなので
別子銅山に詳しい春秋さんと定年後の自遊人さんの資料を参考にさせて頂き
道しるべとして、牛車道の踏破にチャレンジしたいと思います
大日本帝國陸軍陸地測量部作成の地図 明治39年
春秋のホームページ↓
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/haruaki/bessi/isan/hadeba/tekkanndou/index.htm
距離13.8km、所要時間5時間51分は立川橋から石ヶ山丈駅跡までのGPS軌跡にある距離で、石ヶ山丈から立川橋までの帰路は含まれていません
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