東関道高速バス散歩(6)~平成14年東京成東線シーサイドライナーと千葉成東線フラワーライナー~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
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平成14年3月に東京と成東を結ぶ高速バス「シーサイドライナー」の開業を知った時には、そう言えばこの区間に高速バスがなかったな、と虚を突かれた。

 

 

平成の初頭から全国に路線が急増した高速バスブームがひと段落し、新規開業がほぼ出尽くした観のあった時代である。

高速バスファンには、実現していない路線をあれこれと空想する楽しみ方がある。

東京と成東の間に高速バスを走らせてもいいのではないか、と考えたことは一度もなかったけれど、登場してみれば、盲点だったな、と思う。

 

早速、開業直後の日曜日に、いそいそと乗りに出掛けた。

浜松町駅の脇に聳える貿易センタービル1階のバスターミナルを発車するのは、京成バスが参入する千葉方面の高速路線に共通である。

その先駆けとなったのは平成3年に開業した東京-銚子線「犬吠」号で、東関東自動車道を使う高速バスとしては「シーサイドライナー」が2路線目であるけれども、平成10年に東京湾アクアラインを経由する東京-安房鴨川線「アクシー」号が浜松町発着で開業しているので、僕にとっては3度目になる。

 

 

定刻10時40分に浜松町を発車した「シーサイドライナー」は、海岸通りを北上して内堀通りに入り、八重洲通りの道端に設けられた東京駅八重洲口前停留所に停車する。

ここで十数人が乗り込んできて、閑散としていた車内がいっぺんに賑やかになった。

 

宝町ランプから首都高速都心環状線に入り、6号向島線、9号深川線でひしめく車の波に揉まれながら都心を抜け出し、首都高速湾岸線に合流すると、バスはぐいぐい速度を上げていく。

東関道を経由する高速バスには、浜松町発着路線とは別に、東京駅八重洲南口を起終点とする鹿島神宮、麻生、波崎、八日市場への路線が存在し、その乗車を含めても、実に6年ぶりの湾岸ドライブだった。

 

 

学生時代に、友人たちと、

 

「彼女を乗せて湾岸をドライブできたら最高だよな」

 

と言い合った憧れの道路でありながら、社会人になって幾度となく自分の運転で行き来するようになれば、いささか手擦れした観があるのは否めない。

 

長年に及ぶ憧憬の対象であるならば、それを手に入れたい、実現したいと願うのは、旅行でも恋愛でも自然の摂理である。

ところが、いざ願いが叶うと、途端に色褪せて見えてしまう心境は、如何なることなのか。

最初こそ、湾岸線を自分で運転するだけで嬉しくなったものだったが、繰り返し走り込むうちに、感動はみるみる薄れていった。

手が届かなかった片思いの頃が懐かしくなり、簡単に湾岸を走れるようにならなければ良かった、とさえ思う。

人間とは、実に気まぐれな生き物である。

 

ところが、たとえ見慣れた風景でも、こうしてバスの窓から眺めると新鮮味が甦って、心が弾み出す。

僕も余程のバス好きなのだな、と可笑しくなるし、幸せなことだと思う。

 

 

「シーサイドライナー」はそのまま東関道へ歩を進め、宮野木JCTで京葉道路に乗り換えて、更に東へと進んでいく。

京葉道路に入る高速バスは初めてだったから、僕は思わず身を乗り出した。

 

京葉道路は、広々とした首都高速湾岸線や東関道と比べれば、狭い路肩や曲線のきつさがひときわ目立つ構造で、心なしか、行き交う車の流れもためらいがちである。

両側に背の高い防音壁がそそり立っている圧迫感も、一因だろう。

堀割の区間も多く、両側の土手のてっぺんに家並みがぎっしりとひしめいているので、埋立地ばかりの湾岸線や東関道と比較するのが気の毒なくらいである。

防音壁の枠に錆が浮いていたり、舗装に継ぎはぎがあって凸凹していたり、所々で経年劣化が感じられるのは、京葉道路が国道14号線のバイパスとして一之江-船橋間で開通したのが昭和35年であるから、無理もないと思う。

我が国初の自動車専用道路として指定されたのも、名神高速道路より2年早い昭和36年であった。

 

 

昭和39年に船橋-花輪間が延伸され、昭和41年に花輪-幕張間、昭和44年に幕張-殿台町間が順次開通し、昭和36年に一之江JCTで首都高速7号小松川線と接続して東京と直結する。

同じ年に、宮野木JCTで、当時は新空港自動車道と呼ばれていた東関道成田方面とも接続し、建設が予定されていた成田空港へのアクセスを担った。

昭和54年に千葉東金道路と接続する千葉東JCTと浜野町の間が開通し、昭和55年の殿台町-千葉東JCT間の開通によって、京葉道路の全線が完成する。

 

東京方面の東関道が昭和57年に開通するまで、京葉道路は、東京と千葉、そして成田空港を結ぶ唯一の高速道路として働き続けたのであるから、少しくらい古びていても、文句を言う筋合いはない。

 

 

それにしても、千葉市街地を迂回する穴川から貝塚、千葉東JCTにかけての区間の走りにくさは、群を抜いている。

決して線形が良いとは言い難い道路に車がひしめき、アクセルやブレーキを踏んだり戻したり、シフトをこまめに変更したり、運転手さんもなかなか忙しそうである。

 

貝塚と穴川はラジオの道路情報でよく耳にする渋滞多発区間で、下り勾配から上り勾配に変化するサグが穴川IC付近に存在し、また貝塚-千葉東JCTの間に掘削された京葉道路唯一の貝塚トンネルもボトルネックになっている。

全長191mの貝塚トンネルは、その上にある縄文時代の荒屋敷貝塚を保存するためトンネル構造に設計が変更され、史跡保護の心意気や良しとすべきだが、トンネルのために見通しが利かず、渋滞の末尾に追突する事故が多発していると聞く。

平成28年に貝塚-穴川間が片側3車線に拡張され、令和2年に上り線だけであるものの貝塚-千葉東JCTの間が3車線になり、更には平行する国道16号線千葉バイパスの貝塚隧道を京葉道路本線に転用する拡幅工事が計画されている。

 

自動車交通の整備とは、お金と時間が掛かるものだと思う。

 

 

千葉東JCTに近づくと、いきなり視界が開けて、「シーサイドライナー」は広々とした田園地帯に飛び出した。

 

思いもかけないことに、甘酸っぱい懐かしさが胸中に込み上げて来る。

僕にとって千葉東金道路は初めてではなく、千葉中央駅と成東駅を結ぶ特急バス「フラワーライナー」で走ったことがあった。

あたかもタイムスリップのように、僕は、十数年前の旅の強烈な記憶の中に引きずり込まれた。

 

 

「フラワーライナー」の元祖は、大正時代に両総自動車が千葉-東金間で運行を開始した路線バスと言われているから、かなり老舗の伝統路線である。

合併なのか移譲なのか不明であるけれど、昭和5年に京成電鉄の路線となっている。

太平洋戦争中の昭和18年に、京成電鉄は成東自動車を買収して、八日市場や松尾、八街、佐倉に路線網を広げ、千葉駅と蓮沼海岸を直通する急行バスなどとともに、千葉駅と東金を結ぶ東金急行線も成東まで延伸されたようである。

 

国鉄総武本線と平行する路線も少なくなかったが、昭和49年に同線が電化されて特急電車が運転されるまでは、バスの方が優位に立っていた。

ところが、総武本線の整備とともにバスの利用者数は減少の一途をたどり、八街や松尾方面の路線が淘汰されて、昭和62年2月には蓮沼方面の特急バスが廃止されたが、同時に、千葉と東金・成東を国道126号線経由で結んでいた東金急行線には、昭和54年に開通していた千葉東金道路を経由する新系統「フラワーライナー」が登場したのである。

 

 

この路線をどうして僕が知ったのか、記憶が定かではない。

時刻表巻末の会社線欄を眺めていて、目に止まったのであろうか。

 

「フラワーライナー」は、時刻表の高速バス・長距離バス欄には掲載されず、会社線欄の「成田・三里塚・多古付近」の項目の片隅に追いやられて、一見しただけでは高速バスとは判らない。

よく見れば『全便定員制 ※成東駅発は東金駅で下車できません』と添えられた注釈が、発地では乗車だけ、着地では降車だけというクローズド・ドア・システムを彷彿とさせ、立席乗車が出来ない座席定員制ならば、この路線は高速バスかもしれない、と推察することは可能である。

そこに目をつけたのだとすれば、我ながら慧眼である。

当時はまだ路線数が少なかった高速バスに渇望していて、次に乗るべき路線はないかと鵜の目鷹の目で時刻表をめくっていたのかもしれない。

 

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ただ、あらかじめ「フラワーライナー」に乗ろうとして自宅を出たのではなかったような気がしてならない。

その時の最大の目的は、昭和63年に開業したばかりの羽田空港と千葉中央駅を結ぶリムジンバスだった。

自分の車を持てる身分ではなかったけれど、いよいよ、憧れの首都高速湾岸線をバスで初体験しようという趣向である。

 

それまで、都内数ヶ所と横浜駅だけにリムジンバスが運行されていた羽田空港に登場した新しい路線で、以後、首都圏各地に爆発的にリムジンバスが開業するきっかけとなった。

運行するのは、都心部にリムジンバスを展開していた東京空港交通と、横浜にリムジンバスを走らせていた京浜急行である。

 

僕が乗車したのは後者であったが、羽田-横浜間リムジンバスに用いられていた赤と白のツートンカラーを、橙色のような黄土色のような、くすんだ色に塗り替えた車体だった。

初めて目にする塗装で、共同運行の東京空港交通に似せたのかとも思ったが、微妙に異なる色合いだった。

いつしか目にすることはなくなってしまったが、羽田-千葉線と言えば、必ず思い浮かべる塗色である。

 

 

羽田空港に「ビッグバード」が完成する前の時代で、地方空港と大して変わらないターミナルビルを出た千葉行きリムジンバスは、羽田ランプから首都高速1号羽田線の高架に駆け上がり、昭和島JCTで連絡線に分岐して、右手に空港の敷地を見遣りながら、東海JCTで湾岸線に合流する。

 

工場や倉庫、貨物ターミナルが建ち並ぶ城南島から東京港トンネルをくぐれば、お台場である。

当時のお台場は、今の賑わいからは想像もつかないほど寂れていた時代だった。

レインボーブリッジが完成するのは平成5年、フジテレビが移転するのは平成9年、直径100m・高さ115mの観覧車が造られたのは平成11年とまだまだ先のことであるから、湾岸線から眺めるお台場は空地と工事現場ばかりだった。

 

首都高速9号深川線を分岐する辰巳JCTと、中央環状線を分岐する葛西JCTの、大蛇のように交錯している高架の下をくぐり、 荒川、中川、江戸川を続け様に渡ると、直径111m・地上高117mという葛西臨海公園の大観覧車が目に飛び込んでくる。

続いて、東京ディズニーランドに林立する円錐屋根の塔が視界に入る。

 

「ここより別料金」の標識を見上げながら東関道に入ると、少しばかり車窓が落ち着いて、千葉行きリムジンバスの車窓を飾るのは、高層ビルが林立する幕張新都心である。

平成元年に幕張メッセが開業する直前で、複数の高層ビルが建設中ながらその片鱗を覗かせて、お台場よりは体裁が整っていた。

 

僕が羽田-千葉間リムジンバスで東京湾岸を初めて旅したのは、我が国のバブル期における劇的な変貌の真っ只中だった。

 

 

湾岸千葉ICで東関道を降りたリムジンバスは、京葉線の稲毛海岸駅に立ち寄った。

 

その十数年後に、ひょんなことから、この駅のことを思い出すことになった。

僕が勤めていた都心部の病院に、1人の女子高生が入院したことがあった。

発熱と腹痛をおして登校したのだが、我慢できなくなるほど症状が悪化し、教師に連れられて受診したのである。

翌朝には症状が和らぎ、検査データも改善したので、退院が可能になったのだが、自宅の近くの病院で経過を診て貰うために、診療情報書を作成することになった。

その女子高生は、千葉県に住んでいた。

カルテを見ながら名前とID、性別、生年月日をパソコンの書式に打ち込もうとして、僕は思わず、

 

「へえ!」

 

と、素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

「どうしたんです?」

 

と、隣りで仕事をしていた病棟事務員が驚いて振り返った。

 

「いやね、稲毛って、市だったんだ」

「はあ?」

「いや、この患者さんの住所なんだけど、カルテに『千葉県稲毛市』って書いてあるじゃん。稲毛って千葉市だとばかり思ってた」

「それ、千葉県民として聞き逃せない言葉です」

 

その病棟事務員も、京成本線沿線に住む千葉県民であった。

 

「でも、このパソコン、『いなげし』って打っても変換されないよ」

「まさか?」

「ほら、『いなげし』って打つと、『稲毛氏』『イナゲシ』『稲毛し』って出るだけ」

「あれ?本当ですね」

「まあ、このパソコン、病院が支給された安物だからなあ」

「だんだん自信なくなってきました。普通、地名なら一発で変換されますもんね」

「おいおい、どうした、千葉県民」

「平成の大合併で新しく出来たんじゃないですか?」

 

と、近くにいた病棟師長が助け舟を出す。

 

「本人に聞いてみます?」

「いや、こっちで調べてみよう」

 

病棟にはパソコンが何台か置かれているものの、個人情報が入力されているため、ネットとは繋げていない。

スマホで検索すると、「千葉市稲毛区」と表示されるだけである。

詳しく調べてみれば、明治の町制施行で稲毛町が誕生し、周辺町村と合併して検見川町になって千葉市に編入、同市が政令指定都市になった際に稲毛区が誕生した、と書かれているではないか。

 

「大変だ!カルテからレセプトから全部、稲毛市にしちゃってる。訂正しなきゃ」

 

大慌てで猛然とパソコンのキーボードを叩き始める千葉県民なのであった。

 

「稲毛区の人が聞いたら怒りますね」

 

と、病棟師長がクスクス笑っている。

 

「あの娘さんに聞かなくて良かったよ」

 

と、僕も胸を撫で下ろした。

どうやら、女子高生が入院申込用紙を書く余裕がなく、付き添って来た教師が代わりに記入した住所欄に「千葉県稲毛市」と書かれていたようである。

東京の高校であるから、教師も思い違いをしたのだろう。

 

稲毛の地名を目にして僕が思い浮かべたのは、羽田-千葉間リムジンバスが稲毛海岸駅に立ち寄った時の、あっけらかんとして如何にも開発途上と言った雰囲気の街並みだった。

 

 

稲毛海岸駅を出た千葉行きリムジンバスは、羽田から90分ほどで、京成電鉄千葉中央駅西口に到着した。

 

千葉中央駅とは威風堂々の名前であるし、東口周辺は古くからの繁華街だったが、人の流れは、少し離れたJR千葉駅に集まり出していた。

西口に居並ぶビル群は立派であるけれども、人や車の往来は少なく、どこか場末の雰囲気が漂っている。

バス乗り場は、京成線の高架下に設けられた車庫に後ろ向きで駐車する構造である。

どっしりした造りだが、排気ガスでくすんだような、どこか暗い印象だった。

 

空港リムジンバスや、大阪、京都、金沢、信州、岡山に向かう長距離夜行高速バスの起終点となるのは、数年先のことである。

その先陣を切ったのが、羽田空港へのリムジンバスだった。

 

 

僕が千葉中央駅から「フラワーライナー」に乗り継ぐことになったいきさつは、よく覚えていない。

羽田空港からのリムジンバスを降りると、隣りに、成東町の町木であるキョウチクトウの花が描かれた華やかな塗装のハイデッカーが発車を待っていて、衝動的に乗ってしまったのかもしれない。

 

「フラワーライナー」は、混雑する国道16号線千葉街道をのろのろと進み、千葉大学のキャンパスや大学病院などに囲まれた亥鼻城址公園の脇をすり抜けて、千葉東ICから千葉東金道路に入って行く。

いいぞ、高速道路に乗るのか、と小躍りした記憶があるので、当時の僕は、「フラワーライナー」についての知識が皆無だったようである。

千葉東金道路は初体験だったから、首都高速湾岸線と東関道も含めて、この旅は良いことずくめであった。

 

 

下総台地を貫く千葉東金道路は、杉林に覆われたなだらかな丘陵と、浸食された谷津が繰り返し現れるだけの単調な車窓だったが、初めての道路であるから飽きることはない。

少し東京を離れるだけで、これほど鄙びた風景に出会えるのか、と目を見開いた。

 

出掛けて来て良かった、と思うけれど、どうして「フラワーライナー」は一人前の高速バスとして扱って貰えないのか、と多少不満でもある。

もともと国道126号線経由の路線バスが前身であるためなのか、それとも、千葉東金道路が東名高速や中央自動車道などよりも格下とされているのだろうか。

実際に走ってみれば、高速道路と称して何の遜色もない堂々たる高規格道路である。

最高速度も時速80kmであるし、律儀に制限速度を守っているバスを追い越して行く他の車も、高速道路に劣らぬ勢いである。

 

大宮、高田、中野のインターを猛然と通過し、野呂PAの標識が見えた時には、寄ってくれないものかと身を乗り出したけれども、たかだか30km程度を走る特急バスに、途中休憩などあるはずもない。

下総台地から九十九里平野に飛び出し、山田ICで国道126号線に降りた時には、千葉東ICからの13.9kmに及ぶ高速走行には大いに満足したものの、走り足りない気分もした。

 

 

国道126号線から県道119号線に左折し、下総台地の際を進む「フラワーライナー」の車内では、丘山小学校、雄蛇ヶ池入口、台方一丁目、城西小学校、上宿、八鶴湖入口、東金駅入口と、降車案内が間髪を置かずに流れ、ぽつりぽつりと乗客が降りていく。

 

東金とは気になる地名だが、その由来は鴇であると言う。

「東金町誌」には、『東金城は往古上総介の属館なりしが後年千葉氏の支城となりて鴇ヶ嶺城と云う。後東鐘城と唱へまた鴇ヶ根城と号す。大永元年東金城と改称せり』と記されている。

鴇とは「Nipponia nippon」、つまり我が国を代表する絶滅危惧種であるトキのことで、市内の西福寺境内にある山嶺がトキの頭部に似ているため鴇ヶ峯と称され、転訛して東金と呼ばれるようになったらしい。

江戸時代までは北海道南部、東北、北陸、中国地方に広く分布していたトキが壊滅的に数を減らすのは、明治以降である。

 

 

古びた商家と新しい商業ビルが渾然一体となっている東金市街の狭い路地を抜け、「フラワーライナー」は、片貝県道入口、裁判所前、東金商高入口、砂押県道、公平農協、家の子、成東高校、上町とこまめに客を降ろしていく。

 

成東町との境に近い家の子のバス停では、近くに児童施設でもあるのかと早合点してしまうが、その由来は南北朝の騒乱時代に遡る。

後醍醐天皇の皇子護良親王が鎌倉に幽閉された時、親王の息女である華蔵姫が父を慕って京から鎌倉に赴いたが、既に親王は非業の最期を遂げていた。

華蔵姫は悲嘆に暮れながら、南朝の勢力下である上総国姫島に下る。

 

姫島は、今でも東金市の大字の名として残り、家の子バス停も姫島にある。

家の子は正式には家乃子と書き、宮家の子である華蔵姫に因む地名と言われている。

近くにある妙宣寺が華蔵姫ゆかりの寺とされ、山門の仁王尊像は子育ての御利益で知られる。

 

この伝説には後日談があり、鎌倉の二階堂谷に棲みついていた大蛇が華蔵姫を慕って後を追ったが、長い道中で鱗が剥がれて傷だらけになり、精根尽き果てて、福俵村の田圃で命を落とす。

村の人々は大蛇の死骸に驚き、祟りを恐れて供養を行い、蛇塚を建てたところ、田園の中の島のように見えることから蛇島と呼ぶようになったと言う。

蛇島という名のバス停が、東金駅の南隣りにある福俵駅の近くに実在すると聞く。

 

 

「フラワーライナー」は、千葉中央駅から50分程の道中を走り切って、終点の成東駅に到着した。

 

平成18年に山武町、松尾町、蓮沼村と合併して山武市になり、自治体名としては消滅してしまったが、成東町の名は、日本武尊が東征の折りに、太平洋の荒波が押し寄せている様を見て、鳴濤と名づけたという言い伝えに基いている。

何となく内陸部にいるような心持ちになっていたが、ここはもう九十九里浜なのだな、と思う。

 

ひっそりとしている三角屋根の成東駅を眺めながら、これからどうしよう、JR東金線にでも初乗りしてみるか、と思案した。

総武本線の成東駅と外房線大網駅を結ぶ13.8kmの東金線には、なかなか乗る機会がなかった。

総武本線が東金を通る案もあったらしいが、地元の有力者が人や資源の流出を恐れて回避させたと伝わっている。

千葉と東金を行き来するには、鉄道では乗り換えが必要になるので、直通する「フラワーライナー」の利用客も少なくないのであろう。

「フラワーライナー」で成東駅に降り立ったこの時が、1つの機会であった。

 

惜しむらくは、せっかく乗車したにも関わらず、東金線の車中も、大網からどのように帰ったのかも、全く覚えていない。

たまたま乗り込んだ「フラワーライナー」の印象が、それだけ強烈だったのだろう。

 

 

平成5年に、「フラワーライナー」は成東駅から光町役場まで延長された。

 

僕は、再び乗りに出向いている。

高速バス路線の延伸は珍しいことではなく、起終点を乗り通すことに拘りたい僕でも、そのたびに乗り直していては切りがないと思ってしまう。

見知らぬ土地に足跡を印す楽しみがあるとしても、車窓の大半は二番煎じであり、手間の割に得るものが少ない行為である。

「フラワーライナー」の光町延伸は例外中の例外で、今振り返っても、乗り直そうと思った心境は自分でも理解できない。

 

 

2度目の「フラワーライナー」は、光町からの上り便に乗ることにして、京成千葉線の電車で千葉に向かった。

 

京成電鉄本線が京成上野駅から津田沼駅を経て成田方面に向かっているため、津田沼駅と千葉中央駅を結ぶ京成千葉線は支線のような扱いで、東京方面からの直通列車も僅かな本数である。

どうして京成電鉄は東京と千葉の間の都市間輸送に力を入れないのか、前々から不思議だった。

 

京成千葉線の開通は大正10年で、京成本線の津田沼-成田間よりも早い開業である。

同じ年に市に昇格した県都千葉市への都市間輸送を優先した形であり、昭和10年に国鉄総武本線が千葉駅まで電化される前は、京成千葉線の方が運転間隔や利用客数において優位に立っていた。

国鉄の電化後も、両者の線路が並行する区間では、「国鉄の電車が走っていたら必ず追い抜け」との通達が出され、太平洋戦争の直後にGHQから競走を禁止する通達が出されたという。

現在のように埋め立てが進む前は、京成千葉線の各駅が海岸に近く、海水浴や潮干狩りを楽しむ行楽客で賑わい、京成稲毛駅や西登戸駅周辺は別荘地になった。

東京湾岸で別荘とは、信じられないことだけれど、それほど遠い昔ではない。

 

 

昭和47年に総武快速線が増設され、中央・総武緩行線と合わせて総武線が津田沼まで複々線となり、昭和56年には複々線が千葉駅まで延長、平成2年には京葉線が東京駅まで開通すると、京成千葉線は都心アクセスの上で劣勢となり、東京方面へ直通する電車の本数も大幅に削減されてしまう。

現在の京成千葉線は、朝と夜に京成本線直通の京成上野駅発着電車が設けられている以外は、京成千原線と新京成電鉄線に直通する各駅停車が合わせて10分間隔で運行されるだけという、寥々たる有様になっている。

 

ところが、津田沼駅で乗り換えた京成千葉線の電車の走りっぷりは、予想に反してきびきびとしていて、東海道本線と競合するために名を馳せている京浜急行を髣髴とさせた。

津田沼と千葉の間12.9kmの所要時間は17分、京浜急行本線に当てはめれば品川-川崎間とほぼ同じ距離を、同社の特急と似たような時間で走っていることになる。

同じ区間をJR総武本線の快速電車は11分で結んでいるから勝負にならないが、総武線各駅停車の所要は15分、京成千葉線でも幾つかの駅を通過する急行を走らせれば充分に競争力が発揮できるのではないか、などと勝手なことを夢想してしまう。

昭和40年代には、稲毛だけに停車する急行や、幕張、稲毛、みどり台に停車する快速電車が運転されていた時期もあったらしいが、いずれも廃止されている。

 

京成千葉線の電車の走りっぷりがあまりに小気味よかったので、東京-千葉間の都市間輸送に参加しないのは、やはり勿体ないように思えてならなかった。

 

 

京成千葉駅からJR千葉駅の総武本線下り普通列車に乗り継いで、横芝駅まで足を伸ばした。

車内は混雑していて、座ることは出来なかったけれども、鄙びた田園風景に目を遣りながら、隣りに立っていた若い女性とずっと話し込んで過ごした。

どうしてその女性と会話を交わすことになったのか、どのような話をしたのか、全く覚えていないけれども、30年近くが経過した今でも心に残る楽しい車中だった。

 

横芝駅から光町役場までは、歩きに歩いた。

距離にして2kmたらず、よく迷わなかったものだと思うけれど、駅前で地図でも見たのだろうか。

 

横芝駅は横芝町にあり、町並みを抜けて栗山川を渡ると、光町の町域である。

平成18年に2つの町が合併して横芝光町となっているが、光町は稲作を中心とした農業の町だった。

 

見渡す限り視界を遮るもののない九十九里平野を吹き渡ってくる風が強い。

背後の下総台地にある八街、成東周辺では、名物の落花生が植えられる前の、赤土が剥き出しになった畑に巻き上がる砂嵐がよく知られているけれども、海に近くて多少の潤いは感じられるものの、風の重みと冷たさは同じなのだろうな、と思う。

 

 

春の穏やかな日差しに溢れた長閑な田園を歩いているうちに、このような場所に身を置いていることが、とても不思議に思えて来た。

「シーサイドライナー」が延伸するまでは、光町の存在すら知らなかったし、訪れるつもりもなかった。

そして、これからも。

 

考えてみれば、不思議な縁である。

高速バスの路線数が少なかった頃には、同じ路線に何度も乗り直して楽しんだことはある。

路線が増え始めると、どうしても新しい路線に目移りがして、1度乗車した路線に乗る機会はめっきりと減っていた。

この旅そのものが異例だったのである。

 

光町とは一期一会、再びこの町に来て、この景色を目にすることは二度とないだろう、という予感がして、不意に、胸が締めつけられるような思いに駆られた。

何の変哲もない田園光景が、愛おしく感じられる。

限りある命を初めて実感した、と言い換えても良いだろう。

 

このような感覚は、その後の旅で何度か味わうことになるけれども、光町が最初であった。

 

 

平成14年の早春の千葉東金道路をひた走る「シーサイドライナー」の車内で、僕は我に返って、長い溜息をついた。

僕が今乗っているのは、昭和63年の「フラワーライナー」成東行きでも、平成5年の光町発「フラワーライナー」でもない、という現実に戻るまで、しばしの時を要した。

 

幾ら記憶の底をまさぐっても、10年前の光町から千葉への道中が、忘却の彼方に霞んでしまっているのは、どうしたことか。

僕は、本当に光町役場から「フラワーライナー」に乗ったのだろうか、と混乱してしまう。

いくら憧れの対象であっても、2度目になれば飽きてしまうのが、人間の性なのだろうか。

 

丘陵と谷津が繰り返される車窓は、「フラワーライナー」から眺めた10年前と、何も変わっていないはずである。

世はうたかた、と言うけれど、僕らの国の山河は、微塵も揺るぎはしない。

人生こそ、儚いものだと思う。

 

 

「シーサイドライナー」は、千葉東金道路を走り終えて山田ICを降り、東金の町を過ぎて、成東駅近くの車庫に12時20分に到着した。

 

東金市内と成東町内の降車停留所は、「フラワーライナー」と全く同じだった。

この地域と県都の往来を長年支えてきた「フラワーライナー」の実績を考えれば、首都に直通する「シーサイドライナー」の登場は当然のように思えたし、むしろ、どうしてもっと早く開業しなかったのか、と意外だった。

 

成東駅の簡素な駅舎を前にして、光町に足を伸ばしてみたい気がしたけれども、「シーサイドライナー」は成東から先へは行ってくれない。

「フラワーライナー」も、延伸して僅か3年後の平成8年に光町役場への運行を取り止めてしまい、成東止まりに戻されてしまった。

 

 

 

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