旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 車籍復活と特別塗装の2つの幸運を手にした初代「茶ガマ」【2】

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〈前回からの続き〉

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 16両の車籍復活組のEF65は、ほとんどが廃車前と変わらぬ姿で運用されたので、筆者も貨物会社に在籍した当時、あまり気にすることなく間近で目にしたものでした。鉄道を趣味にしていた同期から、「あれは車籍復活ガマだ」と言われなければ気づかないほど、ごく普通に走っていたのでした。

 その幸運を手にした16両の中で、非常に目立つ存在だったのが9号機でした。

 ファンからは注目される存在となった16両でしたが、この9号機はさらに幸運を手にしたのでした。

 それは、車体をぶどう色2号一色に塗り替えられるということでした。

 国鉄型直流電機の標準色は、青15号に前面を警戒色となるクリーム色2号でした。当然、車籍復活を果たした16両もこの直流電機標準色を身に纏っていましたが、9号機だけはぶどう色2号にされて更に注目を集める存在になったのです。

 特別塗装はよく旅客会社の車両でよく見かけます。電機では、ジョイフルトレイン専用車として運用されることを目的に、客車に合わせた塗装になることが多く、利用者からもすぐに分かる目立つ存在した。しかし、それは利用客へのサービスという面もあるのですが、貨物列車となると話は別です。そもそも貨物列車を利用する荷主は、その多くはコンテナ輸送を利用しているので、貨物駅で発送したコンテナを見送ることはなく逆に到着したコンテナを受け取りに来る荷受人もいません。だいたい、発送あるいは荷受けするコンテナを載せた列車が、どんな機関車に牽かれているのかなど気にすることなどありません。

 では、なぜこのような特別塗装に仕立てたのでしょうか。

 これはあくまでも筆者の見聞と推測ですが、一つには旅客会社が保有する電機を茶色塗装することが流行のようになっていた影響を受けたということです。特にこの当時の貨物会社の本社は旧国鉄本社ビルにあり、同じビルの中には東日本会社の本社もあるため、良くも悪くも非常に大きな影響を受けていたのです。

 例えばEF64 1001は、保有するお座敷客車「くつろぎ」に合わせて、1987年には茶色塗装になっていました。さらに、EF58 89やEF58 122、EF58 150と旧型電機ではあるものの、茶色塗装を身に纏って注目を集めていました。それならばと、貨物会社も9号機を茶色塗装にしたと考えられます。

 もうひとつは、企業イメージの向上だと考えられます。民営化後、JR7社の中で最多の機関車を保有する貨物会社ですが、旅客会社に比べて地味な存在です。筆者も職を変えてはいるものの、「元はJR職員です」なんて自己紹介をすると、たいていの人は旅客会社だと思われてしまいます。しかし、入社直後に九州に赴任した話をすると頭の上に「?」をたくさん作って、「九州に行くことなんてあるのですか?」と聞かれるので、「同じJRでも貨物会社なんですよ」と答えると、そこで初めて貨物会社の存在を知る人もいるほど、とにかく目立たない存在なのです(発足してから30年以上経った今でも同じことがあります)。

 そこで、企業イメージを向上し、かつて国鉄時代に散々たるほど顧客が逃げていき、誤解を恐れずに言えば信頼を失った鉄道貨物に、再び信頼を取り戻して利用してもらいたいという営業の意味も込めて、最大の商品である貨物列車の先頭に立つ機関車を広告塔に仕立てたと考えられます。茶色塗装を身に纏った機関車を走らせ、多くのファンの目に止まり、そこから口伝てで「鉄道貨物は変わったぞ」などと広まれば、いずれは顧客が戻ってくると考えたのでしょう。

 どちらにしても、一般にはあまり知られた存在ではなく、ファンの注目を多く集めたのは事実です。

 ただ、確実にいえるのは、9号機は現場の判断で茶色になったのではなく、会社の経営判断によるものだということです。筆者が小倉車両所に勤務していたとき、全般検査で入場したED76 1016がすべての検査を終えて出場するとき、先輩に「連結器を銀色に塗ったら格好いいだろう」と言ったところ、先輩は苦笑いしながら首を横に振りました。そして、連結器といえどもほんの僅かでも指定された塗色以外で塗装するには、本社に上申して許可を得なければならないと言われました。

 言い換えれば、現場の車両所の判断だけで標準とされた塗装からはみ出ることは、ほんの僅かでも許されなかったことを考えると、9号機を茶色にしたのはやはり本社の判断だったと言えるのです。

 

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平坦線区で運用することを目的に製造されたEF65は、国鉄直流標準電機として数多くが製造された。国鉄末期には、ジョイフルトレインの先頭に立つことを想定して、客車に合わせた塗装を施した車両もあったが、利用者とは直接接触する機会のないJR貨物EF65にも、写真のような特別塗装が施された。初代「茶ガマ」のEF65 9は、余剰車として廃車になったものの、JR貨物が買い取って車籍復活をさせて運用していた。(1992年頃 新鶴見機関区 筆者撮影)

 

 こうして、車籍の復活と茶色の特別塗装という2つの幸運を手にした9号機は、そもそも昭和39年度第一次債務で製造された一次車の一員でした。中央本線東海道本線山陽本線の増発用の目的で、川崎重工・川崎電機のコンビで落成、吹田第二機関区に新製配置されました。

 新型機関車の製造は、通常なら試作車または先行量産車を製造し、各種の試験を経て量産されますが、EF65はそれらをすべてスルーして最初から量産されたのです。これは、すでに貨物用として多数が活躍していたEF60を基本としながら、歯車を高速寄りとしたことや、制御方式をEF60の単位スイッチから抵抗バーニア制御に変えた程度で、車体デザインもEF60の最終量産車である三次車と大きく変わらないこと、さらに逼迫する輸送量に対して、可能な限り速やかに機関車の増備が必要であるという理由により、いきなり量産に入ったのでした。

 しかし、新機軸である抵抗バーニア制御と自動進段機構を備えたCS25が度々トラブルを起こしました。これは、電動カム軸を動かす電動機を制御する回路を、主回路と共用したことに起因するもので、先行量産車などを製造して試験を行わなかったことが裏目に出たといえるでしょう。その後、トラブルの原因となったCS25の改良を重ね、CS25Cになってようやくトラブルを抑え込んだのでした。

 9号機も改良工事を受けつつ東海道山陽線の貨物列車を中心に活躍し、その後岡山機関区へ転じましたが、ダイヤ改正のたびに貨物列車が削減されていき、ついには1984年のダイヤ改正で、国鉄の貨物輸送の主役ともいえたヤード継走方式から拠点間輸送方式に転換、貨物列車も大幅に削減された結果、先輩格のEF60はもちろん、EF65も初期車を中心に余剰となり、分割民営化を目前に控えた1986年に廃車。翌年には国鉄清算事業団保有となって解体待ちの列に並んだのです。

 すでにお話したように、1987年の分割民営化の頃は好景気の結果、貨物の輸送量が大幅に増加し、これをさばくために列車を増発させますが、必要最小限の機関車だけを継承したJR貨物は、機関車の所要数も不足する事態になりました。

 そこで、廃車となって解体待ちをしていたEF65の中から、特に状態がよく、整備することで本線での運転に活用できる16両を購入し車籍を復活させ、廃車から2年が経った1988年に現役に復して稲沢機関区に配置されました。

 この車籍復活の際に、9号機は直流機標準塗色ではなく、全面ぶどう色2号、いわゆる茶色塗装を身に纏って、新標準塗色が制定される前のEF60登場時を彷彿させる姿で、再び東海道山陽線を中心に貨物列車の先頭に立ちました。

 こうして列車増発に対応する「救世主」となった9号機は、運用の中で首都圏にも顔を出す機会もあり、筆者のように運転や車両とは縁のない電気職場の職員ですら、9号機は非常に目立ち知られる存在となったのです。

 ところが、この幸運も長くは続きませんでした。

 1994年に東海道本線近江長岡駅付近を走行中に車軸の異常発熱、いわゆる「車軸焼け」を起こしてしまい運用を離脱。車軸の異常発熱は鉄道車両にとって致命的ともいえる故障で、「車軸焼け」の言葉通りに車軸が発熱により溶解を起こし、冷却すると車軸と軸受が融着してしまうので、何とか走ることができても低速でしかも短距離に限られ、最悪の場合は一体化してしまうので僅かな距離でも移動ができなくなります。修理も考えられたようですが、車軸焼けはかなり深刻なもので、自力走行のみならず9号機自体の移動ができないほど故障の程度は深刻だったようで、結局現地で解体されてしまいました。

 こうして、一度は2つの幸運を手にして、逼迫する貨物の輸送力増強に貢献しまし、趣味者からも茶色塗装のEF65として注目を集めた存在である9号機も、復活から7年、製造から29年で、不本意な故障でその歴史に幕を閉じたのでした。

 その後、茶色塗装は高崎機関区に配置の56号機に引き継がれましたが、こちらも2003年に廃車となり、三代目となる同じ高崎配置の57号機が継承しました。57号機は比較的長く運用され、2011年2月をもって廃車となっています。

 いずれにしても、かつての操車場という余剰車両の墓場に送られ、一度は解体処分の列に並んだ9号機でしたが、同時期に落成した11号機などがそのまま解体されていったのとは対象的に、致命的な故障で廃車とはなったものの、奇跡の復活を遂げて日本の物流をささえたことは意義の大きなことだったといえるでしょう。

 

 今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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