a Swallow Angel living in Kyoto. | 安芸もみじ / Historys, Trains, Townbikes - Hiroshima JAPAN

a Swallow Angel living in Kyoto.



久しぶりのスワローエンゼル・C62ー2号機のUPです。

京都鉄道博物館の蒸気機関車は、ずっと8620形 5630号機の無限列車を、先にUPしていたので、ずいぶんと先送りとなって。

とうとう春、4月になってしまいました(笑)

前回のC62ー2号機の記事は1月4日の更新で、SLスチーム号が乗り場ホームを発車して、往復して到着するまでの写真でした。



今回は"a Swallow angel living in Kyoto"のタイトルの通りで、蒸気機関車館での風景をUPしました。

天気は悪くてもう夕刻なので、ちょっと独特な雰囲気な写真となりましたが、相変わらずの日没までです。

C62ー2号機は1948(昭和23)年5月20日、日立製作所笠戸工場にて品番№1930として誕生しました。

新製配置は一足先に配属されていた1号機と同じ広島鉄道管理局の糸崎機関区で、6月14日に糸崎入りをして3号機・4号機と一緒に数日間の訓練運転を実施し、6月19日から営業運転を開始しました。



東京~大阪間の特急つばめと特急はとの、戦前と同じ8時間運転を実現するにあたり、1950(昭和25)年8月11日付けで宮原区に転属となり、翌12日から東海道・山陽本線の普通列車の牽引をしつつ、長距離高速運転の試運転を開始。

同年10月1日のダイヤ改正で東京~大阪間の内、まだ非電化だった浜松~京都間と既に電化されていた京都~大阪間を直通で特急つばめ・はとの先頭に立ち、単式2気筒16.0㎏/c㎡・最大出力2,163PS・最高速度120km/hの高性能をいかんなく発揮します。

1951(昭和26)年4月には、鷹取工場にて冷蔵貨車のレ10000形の内装ステンレス板を飛燕に型抜きしたマークをデフ板に取り付け、同時にキャブの手すりもステンレスに交換されました。

同年10月1日より、スハ44系が特急つばめ・はとに投入され、スハニ35 + スハ44 × 3両 + スロ53 × 2両 + マシ35 + スロ53 × 3両 + マイテ39の11両編成となり、悪天候時の遅延や燃費の悪化が発生するようになり、1953(昭和28)年1月、鷹取工場にて重油併燃装置を搭載して、牽引定数をそれまでの500tから550tに引き上げます。



C62ー2号機は宮原区所属機なので、特急つばめ・はとの下り列車は担当しませんでしたが、浜松区所属機の、約20km続く大垣~関ヶ原間の10‰連続勾配を補機無しで、11両編成の特急客車を65~70km/hで駆け上がっていく姿は圧巻で、多くのファンを魅了したそうです。

新製当時、満鉄向けのストーカーを製造していたダイハツでは、終戦によって納入先を失って倉庫へ不良在庫と化していた物を流用して搭載していましたが、1955(昭和30)年1月に国内向け標準ストーカーに交換。

しかしボイラー圧力が上がらないなどの不調が頻発するようになり、東海道本線全線電化完成を控えて本格的な修復は実施されず、1956(昭和31)11月19日のダイヤ改正に伴って予備車となります。



他の宮原機が山陽本線の運用に転属して行く中、C62ー2号機は同年11月25日付けで第一種休車指定となり、吹田第一区にて留置されます。

1957(昭和32)年1月8日、第一種休車の指定解除を受けて、19日より鷹取工場にてボイラーを新缶に交換と、軸重軽減工事を受けます。

まだ工場中の21日付けで小樽築港区へ書類上の転属となり、2月7日から苗穂工場へ入場して耐寒耐雪工事が実施されました。

1958(昭和33)年1月、苗穂工場にて重油併燃装置の耐寒タイプへ交換工事が実施されますが、宮原区時代の不調が極寒環境の影響で悪化の一途を辿り、1968(昭和43)年4月の時点では小樽築港区のC62の中で、最も調子の悪い機関車となります。



1970(昭和45)年7月28日~8月7日、苗穂工場にて全検を受けた際、蒸気の缶圧回復工事も行われ、不具合は減少したものの、本格的な回復までには至りませんでした。

1971(昭和46)年7月15日・8月22日・9月15日に、急行ニセコのC62三重連運転を小樽~長万部間で実施。

同年11月12日、国鉄製作映画『蒸気機関車-その百年』の撮影用に、山手貨物線経由で梅小路区へ貸出し。

撮影終了後、折り返し小樽築港区へ返却されて12月14日より苗穂工場へ中間検査Bを受けるために入場。



1972(昭和47)年6月18日・7月2日・7月9日、鉄道100周年記念特別企画として小樽~倶知安間で104レをC62ー3号機と重連運転を行い、8月27日には小樽・岩見沢~札幌間にて"さよならC62号"を同じくC62ー3号機と重連で運転され、この9131レ・9232レをもって北海道での最終運転となりました。

同年9月13日、梅小路区へ転属となり蒸気機関車館の動態保存機に加わります。

10月14日・22日・11月5日・19日に、SL白鷺号が京都~姫路で運転され、12系客車 × 10両を単機で牽引し、翌1973(昭和48)年3月11日・4月22日にも運転され、この列車がスワローエンゼル・C62ー2号機の本線営業運転のラストランとなりました。

1974(昭和49)年7月から約4ヶ月、長野工場へ全検入場して不良個所の徹底修理が試みられたものの、根本解決には至らず本線での運転は断念されます。



1979(昭和54)年3月28日付けで廃車となり、備品として梅小路蒸気機関車館にて静態保存機となった事で、C62形蒸気機関車は形式消滅となりました。

梅小路機関車館の経営方針としてJR西日本から要請を受けて、国鉄は1987(昭和62)年3月に車籍を復活。

同年4月1日よりJR西日本所有の動態蒸気機関車の1機となり、以降は構内運転ながら乗客を乗せての運転が継続されます。

2009(平成21)年5月、重篤な加熱器のトラブルが発生して2012(平成24)年10月10日まで構内運転を休止し、梅小路蒸気機関車館開館40周年記念に併せて構内で復活運転が行われました。



2016(平成28)年4月29日、京都鉄道博物館落成に伴い同館扇形庫にて公開展示され、現在に至ります。

尚、余談ですが北海道へ転属したのはC622・C623・C6227・C6230・C6232・C6242・C6244の7機でした。

と、幾度となくC62ー2号機の写真はUPしてきたものの、今回やっと機関車の履歴書の記事となりました。

さて、写真でC62ー2号機のバックに写っている車両ですが、赤いのは言わずと知れた50系客車で、扇形庫の№20に隠れているのはC59-164号機です。



№16にいるのはD50-140号機で、展示されている動輪は左からD51・C56・C12です。

夜の蒸気機関車は独特の雰囲気で、SLスチーム号の最終便からターンテーブルへ、そして給炭線への一連は日没からとばりのブルーな光が、水銀灯と相まってスワローエンゼルを美しく包んでくれました。

尚、新製配置で糸崎へ配属された1~4号機の内、C621とC622は梅小路そしてC623は苗穂へ保存されていますが、C624は1958(昭和33)年8月14日 木曜日14:03頃、南岩国~川下信号所間を上り特急かもめ牽引中に、岩国基地近くの踏切で警報無視の米軍トレーラーと衝突してトレーラーを推進したまま、84m突き進み築堤下の田圃に転落大破。

長らく休車扱いで残骸は放置されていましたが、1960(昭和35)年1月27日付けで正式に廃車となり、C62形の最初の廃車になっています。



急行日本海を牽引中に土石流に流された貴婦人・C57ー1号機(現やまぐち号牽引機)は、2号機を潰してドナーカーにしてまで修復されたのと、どうしても対比して考えてしまいます。


やはり明暗を分けたのは、その形式の1号機と4号機という立場の違いなのか、蒸気機関車余剰という時代の違いなのか・・・・。


そしてもう1つ、岩国で残骸となって放置され、月日が経って廃車となった機関車で米軍も関連してくると、どうしてもD51-639号機も思い出してしまいます。


さて、今回の記事はC62ー2号機の履歴書ではありますが、2019年12月の1号機と2021年1月の2号機の記事と合わせて、C62ストーリーとスワローエンゼルストーリーになっています。



聖火リレーと蒸気機関車の共演は、やはり時間帯を合わせた計画的なイベントだったのでしょうね。


C12-66号機のヘッドマークは、しっかり聖火リレーですもんね。


何か・・・・あの場に居たかったな。


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美容院に行く頻度は?

Today is Haircut Day in Japan, a memorial day for women's rights and gender equality,今天是日本的理髮日、這是紀念婦女權利和性別平等的紀念日


今日はヘアカットの日。


明治維新があり新政府が樹立した頃、国民の意識改革と欧米列強の文化を取入れようと、1871(明治4)年に散髪脱刀令が出されました。


朝、髷を結う時間は膨大であり、一度結うと月代を剃るぐらいで滅多に結い直しをしなかったため、衛生的にも問題がありました。


そこで明治政府は廃刀令と同時に断髪令を出して、髪のセットを簡略化して時間の有効活用を促しつつ、衛生面でも向上させようと考えました。


Rurouni kenshin,GINTAMA,浪客剑心和银魂


ところが江戸時代、よく時代劇で見かける髪ボーボーに髷を結っている浪人姿は、実際はご法度とされていた違法行為でした。


農工商の農民・町民のみならず、武士であっても町奉行所によって逮捕できるほどの重罪で、自宅から外出する際には必ず月代を剃って髷を結わなければなりませんでした。


それがある日突然、月代を剃るな髷も結うなと言われても、例え犯罪でなくなったとしても、心の底で背徳感は拭えなかったと同時に、正装の美徳という価値観は変えられなかったようで、髷を結わない文化が定着するには約10年の歳月がかかりました。


それとは反対に、日本髪と呼ばれる髪型からいち早く脱却したがったのが女性でした。


a Human rights,Women's rights,Against all discrimination racial and sexual discrimination,反對一切歧視


さすがにパーマやブリーチといったものはありませんでしたが、一般的な髪型は現代とさほど変わらないほどのバリエーションが流行ったようです。


これに対して政府が発したのが女子の断髪禁止令で、1872(明治5)年4月5日に発布されました。


近年、この過去の事案を元に女性の自由を訴える一環として、4月5日をヘアカットの日と言うようになりましたが、いつ誰が制定したのかは不明で、正式な記念日というよりは誰かが言い始めていつの間にか定着した日のようです。


ただ安易な語呂合せやシャレなどではなく、歴史に基づいた男女平等や権利を訴えている日なので、もっと正規の記念日として広がっても良いように思いますが、いかがでしょう。


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