みなさんこんにちは。前回からの続きです。

 

 
 

6月のラストランが迫った、日本初で日本最後となった多扉車(たとびらしゃ)「京阪電車5000系」と、全国的に見ても、朝ラッシュ時の混雑が殊に激しかった京阪沿線において、昭和30〜50年代に旅客輸送対策のために行われた事業を、時系列に取り上げるということをしています。守口市にて。

 

今項では「京阪線1500ボルト架線電圧昇圧(昭和58年)」について掘り下げています。

列車の増発と、8両編成の増結を行うためには必要な事業だったといいますが、その経緯について、京阪社史から拾ってみたいと思います。

 

 

電車線電圧の1500ボルトへの切り替えは、1983年12月3日夜半から4日早朝にかけて実施し、4日の初発列車から1500ボルトでの営業運転を開始した。昇圧にあたって京阪電鉄は、およそ15年の月日と総工費250億円を投じ、変電所16個所、整流器34台、車両558両の改造・新造という大規模な昇圧準備を行った。

 

 

また、1500ボルト昇圧に伴い、600型、1300型、1700型の各車両、移動変電所などが廃車となり、新たに7両編成の6000系車両77両を投入した。昇圧の最大の目的は、現行の600ボルトの限界であった7両編成を超え、8両以上の長大編成の運行による輸送力増強にあった。

 

 

 

昇圧に当たり、旧型車を一気に置き換えることとなった「6000系」。現在でも全車両が幅広く活躍している。出典①。

 

昇圧前の列車編成、列車本数は、600ボルトの限度いっぱいに達していた。

だが、1500ボルトに昇圧すると、電流は600ボルト時の約半分まで減少するため、電車線に余裕が生まれ、列車の長編成化と高速運行が可能になった。また、輸送力アップに加えて、昇圧によって運転保安度も向上した。

 

600ボルトでは、平常時も限界に近い電流が電車線に流れているため、事故時の電流との区別が困難であったが、昇圧化することで平常時の電流が少なくなり、事故電流との区別が容易になった。

さらに電流の減少と高い電圧によって、列車に安定した電気を供給できるようになり、速度の向上、運転性能の確保や安定的な列車冷房の提供など、乗客サービスが一段と向上した。そのほかにも変電所、電車線、饋(き)電線(注釈:架線に電気を送るために変電所から設置されている電流線)、レール・地下埋設管などの設備投資・メンテナンス費用の節減、電力料金の低減など、昇圧の効果は多岐に及んだ。

 

 
 

1500ボルト昇圧によって速度が向上し、増発が可能となり、また、淀車庫の第2期工事の完成(注釈:1983年11月。「淀車庫」の使用開始は1980年3月)によって同車庫の全面利用が可能となったため、京阪電鉄では、1984年3月29日にダイヤ改正を行った。

 

主な変更点は、

①通勤時間帯の拡大に対応して、朝夕ラッシュ時の最混雑時間帯の前後に急行と準急を増発

②列車種別の変更・区間延長、宇治線と京阪本線との連絡時間の短縮によるサービス向上の2点であった。

(京阪電鉄開業100周年記念誌「京阪百年のあゆみ「第6章 石油危機後の経営(1975~1984年)第3節 鉄道・運輸事業 4.輸送サービスの向上と安全運行システムの充実 1500ボルト昇圧化」P372 平成23年3月)

 


さらに、付け加えますと…

 

昇圧のもたらす効果としては、

① 10両連結以上の長大編成列車の高速運転が可能となる

② 故障電流のキャッチが容易となり、運転保安度が大幅に向上する

③ 変電所のシリコン整流器(注釈:電力会社から送電される電気は交流。それを鉄道会社の変電所で直流に変換する必要がある)の出力が増加し、当分の間、変電所の増強が不要となる

④ 電車線の摩耗が少なくなり、電車線のライフサイクルが延長できる

⑤ 饋(き)電線の増強がまったく不要になる

⑥ レールからの漏れ電流が少なくなり、レール、地中埋設管などの腐食防止に役立つ

⑦ 電車線、き電線、レールなどに生じる送電ロスが減少し、電力コストの低減が期待できる

 

―などがあげられる。

(京阪電車開業70周年記念誌「京阪70年のあゆみ」昭和55年発行「第10節 着々と進む1500V昇圧準備 昇圧の効果」P222-P223)

 

かいつまんで述べますと、昇圧により、

①変電所からの電力供給に余裕が生まれ、さらに電力を要する列車本数の増発や車両の増結、また冷房装置の増備が可能になった。

②昇圧前の「電圧が低い=電流が高い」という言わば「ぎりぎりの状態での変電所の運用」が改められ、安定した電気量の供給が可能になったことなどから、電気系統での安全保安度の向上に資した、などというところでしょうか。

 

 

昇圧までの間、列車の増結や増発がそれ以上困難だった昭和40〜50年代にかけて、ショートリリーフ、切り札として登場したのがここまで取り上げて来た「5000系」でした。

 


同時並行して工事が進められていた「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」も、完成にはまだまだ時間を要する状況だったことから、混雑著しい、平日朝ラッシュ時における輸送において「5000系」は「即戦力」として多大な貢献を果たした、という事実を改めて申し添えておきたいと思います。出典②。


ちなみに「5000系」は、1970(昭和45)年のデビューから昇圧を想定していたため、大きな改造を施すことなく活躍を続けることができました。

 

 
 
 

そして、昇圧の最大の目的であった長編成化、すなわち「8両編成化」は、1985(昭和60)年4月のダイヤ改正により、朝夕ラッシュ時のみ運転の「淀屋橋〜樟葉間」急行列車でようやくにして実現します。

 

 

京都地下線の切り替え地点を通過する、試運転列車。長年親しまれた、鴨川沿いの京阪電車はこの地下線開業で姿を消した。1987(昭和62)年5月24日、七条〜東福寺間にて。出典③。

 

 
 
 

さらにその後、各駅のホーム有効長の延伸工事進捗と、京都地下線の開業(1987年5月)による翌月のダイヤ改正において、全線(淀屋橋〜三条間)での8両編成化(ただし急行以上の種別に限る)が可能となり、長年の懸案が解消されました。

 

 

そして、2年後には「鴨東線(おうとうせん)」が出町柳まで開業。

現在に至る、京阪電車の路線骨格はこのようにして成り立ちました。出典③。

 

さてここまで、昭和30〜50年代にかけて、京阪電鉄が取り組んだ、輸送改善のための事業について以下のように取り上げて来ました。

 

 

①淀屋橋・北浜地下延長線開業(昭和38年)

 

 

②天満橋〜野江間高架複線化(昭和44年。翌年に複々線化)いずれも出典④。 


 

③土居〜寝屋川信号所間高架複々線化(昭和55年)出典②。 

 

 

④京阪線架線電圧1500ボルト昇圧(昭和58年) 出典③。 

 

 

「大阪からは鬼門の方角」として、開発が遅々として進まなかった京阪沿線ですが、昭和30年代後半に差し掛かった頃からようやく開発が進み、その結果、全国に例のないほどの爆発的な人口増加に拍車がかかりました。出典④。


これら4事業は、その輸送改善に資するためのものでしたが、そのいずれかがひとつでも欠落していたら、決して効果を発揮し得ないものだったのでしょうし、長年にわたる事業を少しずつ組み合わせることでこそ、多大な効果があったのだと、ここまで掘り下げて来て感じます。



その経過の中、本題の「5000系」の果たした役割というのが、実に大だったことは忘れてはならない史実のひとつだったに違いありません。

出典⑤。

 

(出典①「京阪時刻表1984」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1984年)

(出典②「記念誌 クスノキは残った 土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事の記録」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1983年)

(出典③京阪電車開業80周年記念誌「過去が咲いている今〜京阪この10年」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1990年)

(出典④京阪電車開業100周年記念誌「京阪百年のあゆみ」京阪電気鉄道株式会社編・刊 2010年)

(出典⑤「5000系誕生50周年記念スタンプラリー」台紙 2020年12月)

(広告ポスター類「くずはモール」内「sanzen-hiroba」での期間限定展示)

 

次回以降は、昨年12月に実施された「5000系」に関するイベントの様子をお送りしたいと思います。

今日はこんなところです。