2021春・青春18きっぷ(4回目)【花見】備中高梁~備中松山城 | ウォーリーのブログ

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3月30日(火)は、平日の公休日でしたので、「青春18きっぷ」4回目を利用して、岡山県備中高梁へ、花見に出掛けて来ました。

仕事、早出出勤する時より、一時間早く起きて、5時過ぎに自宅を出発。平日でしたので、自宅近くから、始発のバスに乗車して、大阪環状線大正駅へ。

大阪駅5:58発、姫路行の快速に乗車すると、姫路駅からは、7:31発の伯備線・新見行の普通列車に乗車する事が出来、備中高梁駅には10:13に到着しました。

 

備中高梁駅に併設している、高梁市図書館内、観光案内所で自転車を借りて、高梁市内を散策して備中松山城へ向いました。備中松山城は、2018年9月以来3度目の訪問と成りました。前回は、普通の自転車を借りましたが、途中からの急な坂道に苦労しましたので、今回は電動自転車を借りました。

駅を出て、城見通りを備中松山城へ向う途中、高梁キリスト教会堂の前を流れる紺屋川。高梁川に流れ込む、紺屋川は、かつて備中松山城の外堀の役割を果たして居ました。河畔には美しい桜と柳の並木道が続き、県下最古の高梁キリスト教会堂や藩校有終館跡など情緒豊かな町並みが広がっており「日本の道100選」にも選ばれて居ます。

当日、3月30日は、桜が満開でした。

 

紺屋川美観地区から、伯備線の踏切を渡り、急な坂道を登って、城見橋公園(五合目)まで行きました。今回は、電動自転車を借りましたので、楽に登る事が出来ました。

城見公園からは、登城整理バスで、ふいご峠(八合目)まで行、此処からは、徒歩で30分程で、天守に着きました。

 

歴史と文化の薫る町、高梁市は、鎌倉時代の秋庭三郎重信によって延応2年(1240)に、市街地の北方、臥牛山の山頂へ砦が築かれて以来、明治維新まで城下町として、こと地方の政治、経済、文化の中心となり栄えてきました。それだけに幾度もの盛衰を繰り返しており、中でも、三村元親と毛利・宇喜多連合の合戦となった備中兵乱は有名である。江戸時代には、水谷3代(1642~1693)が備中松山城の改築、城下町の整備などに尽力した。幕末には、老中を務めた、坂倉勝静公(5万石)を助け、藩財政を再建した山田方谷も有名である。

 

標高430mの臥牛山頂付近に建つ天守は、国の重要文化財で、現存天守を持つ山城としては、最も高い所にあり、鎌倉時代に秋庭重信が大松山に城を築いたのを起源とし、天和3年(1683)に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になりました。

明治維新を迎えて廃城と成り、昭和に入ると、放置された天守は崩壊が進み、忘れ去られて居ましたが、高梁中学校教諭の、信野友春が、崩壊寸前前の山城を調査し一冊の本にした。此により、町は1939年(昭和14)、天守の修復費用を捻出。しかし、瓦2万枚を山の上に運ぶ手段と費用の問題が立ちはだかった。此を知った旧制高梁中学校の生徒達が中心となり、子供達も加わった町ぐるみの協力で城の瓦は、山の上に運び上げられ1940年(昭和15年)、天守の修復作業が完了しました。

その後、1997年(平成9年)東御門・腕木御門・平櫓・土蔵などが復元され、更に、2001年からの平成大修理を経て、往年の姿が蘇りました。

 

注:紺屋川美観地区への訪問日は、3月30日で満開。4月2日、JR西日本による、桜だよりでは、「散り始め」と成って居ます。