2015年1月の高波による災害で長期不通になっていた日高本線の鵡川~様似間ですが、あまりの甚大な被害に加え、元々利用客の少ない赤字路線だったため復旧へのハードルは高く、残念ながら今日3月31日を以て鉄道営業を終了し、不通区間で運行されていた列車代行バスもこの日の最終便を以て運行を終了し、明日4月1日からは元々並行して路線バスを運行していた道南バスと、ジェイ・アール北海道バスの2社による路線バスが代わりに地域の足を担う事になりました。

 

 

災害後は乗客の安全を重視し、旅客列車の運転は見合わせたものの、該当区間を最徐行で車両の回送を行った上で静内~様似間は臨時ダイヤで列車の運行を続けてきたのですが、いよいよ浸食が激しくなり車両の回送すらもままならなくなった事から、2015年2月28日の様似8:12発、静内9:34着の9228Dの運行を以て列車の運行を完全に終了し、以後鵡川~様似間は永遠に列車が走る事はありませんでした。鵡川~静内の旅客列車に至っては同年1月7日の午前中の列車が最終運行となっています(下記リンク参照)。

廃線の引き金となった災害の概要

 

そんな日高本線ですが、2015年以降大半の区間が不通になったため苫小牧~様似の全区間を乗車した事は3度しかなく、最後の乗車は13年も前の2008年の事でした。

今回は、その3回のうち、1991年と92年に乗り鉄した時の時の事をピックアップして紹介し、寂しい終わり方となってしまった日高本線の不通区間を偲びたいと思います。2008年は既にデジカメ時代で写真を多く撮っているため、後日改めて別記事を立てるつもりです。

尚、写真については現在撮影マナー的にNGなモノもありますが、資料的価値を優先して掲載させて頂きます。ご了承ください。

 

私が初めて日高本線の旅をしたのが、今からちょうど30年前、1991年1月の事でした。

今は北海道フリーパスの名称に変わった北海道フリーきっぷ(普通車用)で、7日間道内各線を廻った旅だったのですが、2日目の1月8日に苫小牧早朝5:55発の633Dに乗って、終着の様似を目指しました。苫小牧へは、函館からの快速ミッドナイトの自由席(※北海道フリーきっぷの指定席は取り放題だったが、ミッドナイトの指定席は函館~札幌の相互利用のみでの発行)を利用し、5:25に到着しています。

当時の苫小牧駅の改札口はこんな感じ。当時は有人改札で、発車標もいわゆる『パタパタ』でした。改札ラッチのよつ葉乳業の広告は、道内の主要駅に掲出されていました。

 

 

 

633DはJR世代の車両でありながら、海岸地帯を走る事から車体の腐食が進んだため最も最初に形式消滅してしまった悲運の車両・キハ130形の2連でした。この時既に日高本線は全列車ワンマン運転を行っており、車両は全てキハ130に統一されていました。

私が乗車したのは先頭のキハ130 6で、前年6月に製造されたばかりでまだ半年しか経っていないのでした。後の車両(番号不詳)は鵡川までの回送でした。

 

 

 

6:23着の鵡川駅では、先述の通り後の車両を切り離すため約9分停車。

その停車時間を利用して、硬券入場券と乗車券を切符売り場で購入しました。当時は既に現在の駅舎に建て替わっており、乗車券類も簡易委託化されていましたが窓口は早朝から営業していたのです。

 
 
 
次の汐見から先は、本格的に太平洋沿いに出て日の出の後(たぶん日高門別付近)は存分に海の風景を楽しめるのですが、フィルムをケチったからか写真は1枚も撮らず…。
7:39着の静内駅では、8:22の発車までしばしの休息。
40分以上も停車したにも関わらず、やはり写真を1枚も撮っていなかったという…。
その間何をしていたのかは覚えていませんが、とりあえず切符売り場で硬券入場券のみは買っていました。当時は既にみどりの窓口としての営業をしていたためマルス端末が設置されており、硬券の近距離乗車券は売られていませんでした。
 
 
 
結局静内から先の区間も1枚も写真は撮っていません。
途中の本桐駅(9:09発)は様似発の638Dと交換するため3分程度停車するのですが、運転士に簡易委託で切符を売っている処を訊いてみたものの、ないとの事でした。
終着の様似駅には9:52に到着。ここで久々に写真を撮っており、線路終端部からの撮影でした。
 
 
 
当時既に簡易委託駅になっていましたが、切符類は窓口での発売でJR北海道バスの乗車券類も売られており、廃止時まで同様のスタイルでした。
また、キヨスクも営業しており、普段牛乳を飲まない私でしたが、地元の瓶牛乳(瓶にはSamaniのロゴが印刷されていた)を買って飲んだ記憶があります。
 
 
 
折返し列車の642Dは11:47の発車で約2時間の待ち時間があり、それを利用して10:40発の向別(むこうべつ)行のJR北海道バスに乗り、硬券入場券を購入するため浦河駅を目指す事にしました。
北海道フリーきっぷは現在の北海道フリーパスと同様、JRバス(一般路線)も乗り放題でした。乗車したのは車番537-4072の様似営業所所属、1984年式日野ブルーリボンP-HU(HT?)226AAで、スケルトンボディのHT/HU系としては初期のモデルでリアのスタイルが翌年以降のモデルと異なっていました(背後に同型車のリアが若干写っている)。
 
 
 
浦河駅にはバスは立ち寄らないため、最寄りの役場前停留所で下車(11:09)。
浦河駅舎は現在とほぼ変わらないスタイルですが、正面入口には札幌鉄道管理局様式のホーロー製駅名板が掲げられているのが見えます。日高支庁(現在は日高振興局)所在地にも関わらずコンパクトな駅舎というのには驚きましたが、国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正で交換設備が廃止された事によって運転取り扱いがなくなった事により、駅事務室側である建物の左側部分を一部解体し減築したからなのでした。それでも営業社員は配置され、支庁所在地のメンツもあり、流石に無人駅にするワケにはいかなかったのでしょう…。
 
 
 
目的の硬券入場券と乗車券を購入。乗車券は金額式となっていました。
 
 
 
ここまでは順調な旅だったのですが、駅待合室で列車を待っていたら駅員と他の利用客との間で何やら聞き捨てならない話を耳にし…。
それというのも、苫小牧の近くで踏切事故があり、様似からの列車は静内で運転打ち切りとなりバス代行になるという事で、この踏切事故があの忌まわしい下記の事故だったのです…。廃線の引き金になった2015年の高波災害が発覚したのも同じ1月8日で、何か因縁を感じずにはいられません…。
 
(Wikipediaより転載)
日高本線勇払沼ノ端通踏切事故

1991年(平成3年)1月8日 (列車脱線事故〈踏切障害に伴うもの〉)

JR北海道の日高本線苫小牧 - 勇払間の市道勇払沼ノ端通踏切で、立ち往生していたタンクローリー側面に鵡川発苫小牧行き普通列車(キハ130形気動車)が衝突。列車は脱線転覆し、列車の乗員・乗客53名のうち45名が重軽傷を負った。タンクローリーの運転手は車外にいて無事だった。
事故の原因は、タンクローリーが警報機が鳴り遮断機がおりてきているのを無理に渡ろうとしたことにある。さらに踏切内でハンドル操作を誤り脱輪して動けなくなり、車から出て手を振って列車に危険を知らせはしたが、列車は非常ブレーキをかけても間に合わず、タンクローリーに衝突したものである。
列車の運転士は一命は取り留めたものの、両脚切断の重傷を負った。この事故はJR北海道の以後の車両において、乗務員保護策として運転席を高い位置に設ける高運転台仕様や、衝撃吸収構造を採用するきっかけとなった。
 
その高運転台仕様や、衝撃吸収構造を最初に採用したのがスーパー北斗のキハ281系であって、当初は785系電車と同様の前頭部構造にする想定だったのを大きく設計変更する契機となったのがあの踏切事故だった、というワケです。私は翌日の朝刊をキヨスクで買って読んでこの事故の全容を把握しましたが、運転士の両足切断という事実を知ったのは後年になってからで、当時車両設計を統括していた柿沼博彦氏(後に副社長、会長を歴任)が運転士の見舞いに行った際に「足が軽い…見てくれ…」と言われた事に衝撃を受け、この設計変更に結び付いた、という事だったのです。
 
 
話を元に戻します。
様似発の642Dは12:10に浦河駅を発車し、13:09着の静内駅で運転が打ち切りとなりました。
その後苫小牧行の代行バスに乗り換えるのですが、バスの手配の都合上か結局13:50頃の発車となったようです。
やはりフィルムをケチったからなのか、この間も写真を1枚も撮っておらずその事が悔やまれます…。なぜか代行バス発車後にこんなどうでも良い写真を撮っていて、13:54と時刻が表示されており、良く見るとフロントガラス越しには『静内町農業協同組合』の看板が見えるので静内を発車後間もない頃に撮ったようです。何台で運行されたかは記憶にありませんが、当時の乗客数ではバス1台では列車の乗客を運びきれないと思われ、おそらく2台以上での運行ではないかと…。
バスはJR北海道バス様似営業所から調達した日野ブルーリボンのスタンダードデッカー貸切車(537形、以降の車番は不明)で、路線シャシーに観光バス用ボディを架装した車両と思われます。
 
 
バスは本日まで運行されていた列車代行バスと同様、各駅を丹念に廻り、苫小牧駅前には16:05頃(当時の時刻表に書いたメモによる)の到着で、列車の時刻(15:03)より1時間余りも遅れてしまいました。本来はこの後、まだ未乗だった石勝線の夕張支線に乗るために当時1本だけ存在した直通列車の15:27発1637Dに乗る予定でしたがそれは叶わず、後続の室蘭本線の列車に乗り追分駅で乗換となったのですが、既に夕張駅のキヨスクは店じまいしていて簡易委託の乗車券は買えず、途中立ち寄った新夕張駅も窓口の営業を終了していて硬券入場券すら買えなかったのでした…。
最初の日高本線乗車のオハナシは、ここまで。
 
 
爆  笑ニコニコニヤリウインクおねがいラブ照れチュームキー口笛えープンプンびっくり笑い泣きキョロキョロショボーンえーんてへぺろガーングラサンプンプンニヤリウインクおねがいニコニコ
 
 
次に紹介するのが、翌1992年1月7日に乗車した時の事で、奇しくもこの日が2015年の鵡川~静内の営業列車最終運行日になろうとは…。
この時も北海道フリーきっぷ利用で道内を7日間廻っており、2日目だったこの日は札幌9:26発の5006D北斗2号で10:12に苫小牧駅に到着しました。
到着後、ホーム上にあった駅そば屋で腹ごしらえをしましたが、この駅そば屋がなくなってもう久しい…。背後に写っている711系も過去帳入りしました。
 
 
 
この時乗車した日高本線の列車は10:34発の様似行639Dで、キハ130 3と9の2連。
私は後の9のほうに乗車しました。
 
 
 
2両目のキハ130 9の車内。1988年製の1次車はBOX席が4人掛けだったのに対し、1990年製の2次車は片側が2人掛けで立席スペースを増やし、キハ40形よりもさらに多く定員を増やしています。そのため座席は全て埋まり、立ち客も出る程の混雑振りだったのです。29年後に廃線になるのが信じられない位。しかしこの混雑も途中駅までで、静内駅からはかなり席に余裕があったと思います。
 
 
 
この時は太平洋の車窓風景を撮影していましたが、寄りによってこの時カメラの時刻表示をoffにしていたので、どの区間で撮ったのか定かではないのです…。時刻さえ判れば特定できたのですが。
 
 
 
車窓の2枚目。砂浜で昆布干ししているのが見えるのでおそらく東町~日高幌別の間と思われますが…。
 
 
 
終着・様似駅には13:28に到着。
比較的利用客が多い列車からか、終着まで2両編成での運転でした。
折返し列車の13:46発2640Dは写真のキハ130 3に乗車しました。
 
 
 
ここで初めて撮影した様似駅舎。
建物自体は現在とほぼ同様のスタイルですが、現在観光協会が入っている部分はJR北海道の子会社だったアスター商事のスーパーマーケットが入っていました。
 
 
 
様似から折返しの2640Dは、15:06に静内駅に到着。
車両自体は16:12発の4642Dとして苫小牧へ直通するのですが、別列車のため直通客も一旦降ろされます。それまで1時間弱の小休止。
 
 
 
当時の静内駅は比較的大きな木造駅舎でした。
牧場風の入口のギャンブレル(駒形)屋根の上には風見鶏が見えます。左側の生そばの看板は、駅の営業最終日まで営業していた西谷弁当店の店舗で、廃線後も現在の店舗で営業を続けるとの事。右側に少し写っている北海ハイヤーのブルーバード910形タクシーも懐かしい…。
 
 
 
ピンボケ気味の画像で恐縮ですが、様似~苫小牧で乗車したキハ130 3の車内。BOXシートは4人掛けとなっています。今もキハ54、150、143の各型式で見られる座席モケットの柄は、このキハ130形から採用されたのです。
 
 
 
前年に鵡川、静内、浦河、様似の各駅で硬券を購入済みだったので、この時は4647Dとの交換で7分程停車した日高門別駅のみ乗車券を購入しました。確か当時営業していたキヨスク店舗での発売で、近距離用は金額式となっています。
 
 
終着・苫小牧駅には17:55に到着し、日高本線の旅が終わったのでした。また、この時がキハ130形最後の乗車になってしまったのでした。
以降、乗り鉄から離れていた時期もあり、再び日高本線の列車に乗車するのは16年後の2008年になってからで、車両は既にキハ40の350番台に置き換えられており、同線の不通区間で乗車したのはその時が最初で最後になり、以後二度と日高本線を全線列車で行く事はなかったのでした…。
 
ショボーンえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんえーんショボーン
 
あの忌まわしい災害がなければこんな最後も迎える事もなく、もし路線が生きていたら風光明媚な車窓を活かして観光列車を運転させて活性化させ、沿線への観光客増加にもつながったかもしれない事を思うと返す返すも残念な事であります。また、この廃線は日高振興局管内から鉄道が完全になくなるという意味でもあり、道内の振興局としては檜山に続いて2つ目となります。留萌本線も存廃の瀬戸際に立たされており、さらに北海道から鉄道のない振興局が増えるのは確実です。「北海道は鉄道を廃止し過ぎた」的な事を先頃国土交通大臣が仰っていましたが、結局アレもコレも廃線にしてしまえば、木の枝を切り過ぎて幹も枯れるのと同じ事になりそうで、一体、北海道の鉄道は今後どうなってしまうのでしょうか…。
 
この記事を書き終える頃には、もう列車代行バスの運行も駅の営業も終了し、名実共に廃線を迎えます。今はとにかく、列車が来ないまま最後の日を迎える事となった日高本線の不通区間に、思い出をありがとう、と伝えたいです。