その8(№5455.)から続く

今回は、JR発足前夜からその後にかけての、185系の運用の推移を見ていきます。
既に「61.11」実施の時点で、185系は「踊り子」と上野発着の短距離特急の運用を手中に収め、安定期に入ることになる…と思われましたが、一部では衰退の動きもみられるようになりました。

【「踊り子」停車駅増加】
これは「61.11」の8か月前、同じ年の3月に行われた小規模なダイヤ改正から実施されたものですが、「踊り子」について、平日と土休日で停車駅を分けるという大胆な施策を行いました。「踊り子」は観光特急であり、平日と土休日の乗車率の落差が大きく、平日のそれが低いことから、需要喚起を狙ってのことでした。
具体的には、それまで停車していなかった藤沢・茅ヶ崎・平塚にも平日限定で停車するようになり、大船-小田原間ノンストップが崩れています。当時東海道線東京口には東京-静岡間の急行「東海」2往復が残存していましたが、「東海」の大船-小田原間の停車駅は藤沢・平塚・国府津。数だけ言えば「東海」と同数ですから、もともと特急としては疑問符がついていた「踊り子」の、特急としてのさらなる地位低下を思わせるものでした。しかし、土休日は従来どおり、大船-小田原間はノンストップのままとされました。
しかし、平日のこれら3駅での利用が振るわなかったためか、あるいは伊豆方面への直通客から不評だったためなのか、このような施策も3年後の平成元(1989)年3月のダイヤ改正で取り止められ、平日・土休日とも、大船-小田原間ノンストップに戻されています。
なお、その翌年の平成2(1990)年4月28日から、車内のアコモデーションを185系よりも大幅にグレードアップした251系を投入、「スーパービュー踊り子」として運用を開始しました。これにより、列車の格としては「スーパービュー踊り子」が特急、「踊り子」が急行のような位置づけになってしまい、図らずも「あまぎ」「伊豆」の並立時代が再来したかのようになったのは、皮肉なことでした。

【快速「信州リレー号」の誕生】
昭和63(1988)年3月のダイヤ改正(以下「63.3」)は、青函トンネル開業と同時に、かつJR発足後初の全国規模のダイヤ改正として実施されたものですが、新前橋の185-200に注目すべき運用が登場します。
それが「信州リレー号」で、高崎で上越新幹線と接続、軽井沢・上田・長野方面への列車として、この改正から運転が再開されました。このルートは当然「横軽」、碓氷峠を通過しますので、この区間では補助機関車EF63の助けを借りることになります。ここで初めて、185-200の強化台枠が物を言うことになりました(185-200は189系や489系などとは異なり、補助機関車との協調運転はできない)。
当時走っていたL特急「あさま」の間隙を埋める列車としての意味があったのですが、お客がつかなかったのか、「信州リレー号」は平成6(1994)年12月3日のダイヤ改正で廃止となり、高崎-軽井沢間の普通列車に建て替え、高崎を夜出て碓氷峠を越えて軽井沢で滞泊、翌朝高崎に下りてくる運用となりました。


ちなみに、碓氷峠廃止が平成9(1997)年9月30日ですが、碓氷峠を登って行った185-200は、本来であればそのまま軽井沢で滞泊、翌朝戻るのですが、この日限りで碓氷峠区間が廃止されてしまうと高崎に戻れなくなることから、軽井沢到着後すぐ回送列車として峠を降りていきました。つまり185-200は、営業列車ではないものの、最後に碓氷峠を通過した電車となりました。

なお、185-200が碓氷峠を越えることそのものは、臨時列車など他の列車でも何度かあり、臨時特急「そよかぜ」などに充当されたこともあります。

【スキー臨時列車としての活躍】
国鉄からJRへの移行期は、バブルといわれる未曽有の好景気の時期で、かつスキーブームの時期でもありました。
スキー客を対象にした臨時列車自体は、国鉄時代から全国各地で運転されていますが、昭和60(1985)年から運転を開始した「シュプール号」は画期的でした。この列車は往路夜行・袋夜行とし、「シュプール号」乗車自体を旅行商品として設定し運賃・料金を格安に抑え、始発駅を多様化して(首都圏の場合大船・横浜や千葉・新宿など)多様なニーズを掬い上げた画期的な列車として特筆されるものです。
185-200は、主に上越方面への「シュプール号」に多く充当されました(これに関連して、185-200の一部の編成に特別塗装が施されたのですが、この話題は追って取り上げます)。
また185-200は、「シュプール号」とは別に、当時スキーシーズン毎に運転されていた石打方面への臨時特急「新雪」に充当されたこともあり、あるいは「新特急谷川」の水上-越後湯沢・石打間延長運転などもありました。
平成13(2001)年度を最後に「シュプール号」の運転もなくなり(首都圏の場合。この時点では中京圏・関西圏など他地域では残存)、「新特急谷川」(後に「新特急水上」、さらに「水上」と変更)の水上以遠への延長運転の機会も減少し、平成22(2010)年12月、遂に定期列車としての運転もなくなってしまいました。
スキー臨時列車の衰退の要因は様々なものがありますが、一番はスキー人口そのものの減少でしょう。景気低迷の長期化とともに、語弊を恐れずに言えば若者が「貧しくなった」結果、さらにその少なくなった可処分所得を他の娯楽に振り向けるようになったためです。またその中でも残ったスキー客は、割安なスキーバスの利用、あるいはSUV車などによる自らの運転で現地に向かうようになったためです。このころになると、スキー人口の減少により、スキー場へ通じる道路の渋滞も滅多に起こらなくなっていて、これも鉄道にとっては不利な要因でした。

【「なすの」の衰退】
坂を転げ落ちるように、急激に衰退していったのがこの列車。
「60.3」では、上野発着の短距離特急で185系を充当する列車について「新特急」なる冠をつけ、割安な特急料金を設定して利用促進を目論んだことは、以前に触れたとおりです。
その中で、かつての急行「なすの」をなぞるものとして登場したのが「新特急なすの」。この列車は、東北線の黒磯までの短中距離、新幹線のない途中駅の需要を拾うことが想定されていました。「60.3」の段階では、廃止された急行「まつしま」(上野-仙台)を補うべく9往復まで成長したのですが、所要時間が急行時代と殆ど変わらないにもかかわらず、特急化によって料金は高額になったため、利用は伸び悩みました。
そこで早くも、3年後の「63.3」の時点で、利用客の少ない4往復を快速「ラビット」に格下げ、「新特急なすの」は5往復に減便されてしまいます。これによって、新前橋の185-200は所要編成数が1本減り、その1本が田町に転属し、「踊り子」の増強に供されました。
格下げされた快速「ラビット」が好評を博した半面、「新特急なすの」の利用率は相変わらず低迷を続け、遂に平成2(1990)年3月のダイヤ改正で、朝の上り1本と夕刻の下り1本を残して快速に格下げ、発着駅を上野から新宿に変更と、大幅な削減が実施されてしまいました。「60.3」から僅か5年経過後のことです。
さらにその5年後の平成7(1995)年、今度は「新特急なすの」の愛称自体が変更され、浅野上りを「おはようとちぎ」、夜の上りを「ホームタウンとちぎ」とそれぞれ改称されました。
この体制が15年続きますが、結局平成22(2010)年12月、「おはようとちぎ」「ホームタウンとちぎ」は、列車そのものが廃止されてしまいました。これにより、185系が宇都宮・黒磯に顔を出す運用は消滅しています。

以上が、185系のJR発足前後からの足取りを概観したものです。
予告編では、このあと「変わり種運用」を取り上げる予定だったのですが、今回であらかた言及してしまいましたので、次回以降は回数・内容とも変更するかもしれません。悪しからずご了承ください。

その9(№5473.)へ続く

 

令和3年3月25日 本文一部訂正