1990年8月29日の撮り鉄日記
(この日記は1990年8月29日の内容だが、ブログ投稿は2021年3月16日)
1990年8月当時の俺は17歳(高校3年生)
この日は、朝6:00頃、家を出発し、
亀有駅から青春18きっぷで、北千住乗り換えで上野、高崎線で高崎へ…
高崎駅の立ち食いそば屋で玉子そば食う。(朝食)
そして、高崎10:22発ので、渋川へ
つい一週間前にも、渋川の大正橋の袂のインカーブのところで、
日立80周年記念号を撮影したが、またリベンジ。
当時は、一応、立ち入り禁止の看板はあったものの、ここの線間乱入はJR東日本高崎支社に黙認されていたようで、何時間も前から乱入して、三脚を立てて撮影していても、通報されたり、排除されたりすることはなかったのだ。
例え、JR東日本の職員が見回りか、あるいは何かの作業のために来ることがあっても、怒られたりすることはなかった。
また、鉄道雑誌でも堂々と掲載されている撮影地で、多くの撮り鉄が訪れている定番撮影地だった。
(現在は認められないようだ)
尚、この日も、一週間前に訪れた時と同じガードマンがいた。
ガードマンがいても、乱入を断られるわけではなく、
建築限界内に入らないように見張られているだけだった。
俺は、この日は到着が早かったからなのか、
テツは、自分を含めて、まだ2人しかいなかった。
(もちろん、メインのものの時刻に近づくにつれ、鉄ヲタの人数は増えてきたが…)
そのもう1人のテツと喋っていた。
さて、とりあえず、来た列車を撮る。
115系 普通
当時は、湘南色の115系がバンバン走っていた時代だ。
185系 新特急『谷川』
115系 一次新潟色 普通
当時は、新潟の115系も、上越線水上以南にバンバン乗り入れていた。
当時の新潟の115系は一次新潟色が多く、この塗装はちっとも珍しくなかった。
もちろんN37編成とは限らない。
EF64-1000番台牽引の貨物列車
当時は専用貨物も珍しくなかった時代。
昼間にセメント輸送が下って行った。
そして、D51-498牽引 12系客車 最後尾にEF60-19(メロンパン)
日立80周年記念号
ケツ撃ちは、たぶん、
135mmレンズに、2つの2倍テレコンを重ねて、540mm相当で撮ったような気がする。
画質悪っ!
そのあと、その現場で会った鉄ヲタと、一緒に渋川駅の立ち食いそば屋でそば食った。(昼食)
一緒に岩本に行って撮影地をロケハン。
結局、津久田に行って、鉄橋の袂の定番撮影地へ…
ここの撮影地も、線間乱入だが、当時は多くの撮り鉄が何時間も前からスタンバイしていても、
JR東日本高崎支社から怒られたり、通報されたり、排除されたりすることは無かったのだ。
おそらく、線間乱入が厳しく禁止されるようになったのって、2010年か2011年か2012年あたりからだったような気がする。
さて、話は元に戻るが、
この時、テツは10人くらいだったような気がする。
(もちろん、メインのものの通過時刻が近づくにつれ、テツの人数は増えてきたが…)
俺はレンズを、50mmと135mmと2倍テレコンしか持ってなかったが、
ここでは80mmくらいを使いたかった。
さっきから一緒に行動を共にしているテツも、Canonユーザーだったので交渉したら、80mmレンズを貸してくれた。
ちなみに当時は、まだ、マニュアルのカメラを使っている人が多く、
Canonユーザーのテツヲタでも、EOSを持っているテツはあまり見かけなかったような気がする。
まず、115系 普通列車を撮る。
その後、帰りは新前橋から通勤快速で大宮へ…
南浦和で、さっきからず~っと一緒にいたテツとは別れた。
名前とか連絡先は聞いてない。
南浦和に住んでいるそうだが…
俺はそのあと、武蔵野線経由で帰った。
家に着いたのは20:20頃