2011の東日本大震災、発災当時は「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」(英: The 2011 off the Pacific coast of Tohoku Earthquake):ウィキより、と呼ばれていたのを覚えておられますか。
東日本大震災、と現在の通称が正式に与えられたのは、4/1であったとも。
ウィキの「東日本大震災」の記事を読み直して見ると各メディアがてんでに名称を定めて報じていたのがよくわかります。
小生は民放さんには申し訳ないのですが、やはり災害報道はNHKと祖父の代から刷り込まれておりましたので、「東北関東大震災」という響きが耳に残っています。
発災から4~5日は会社に泊まり込みで、やっと自宅に帰れたのがちょうど今頃だったと思います。
当時、とてもブログ※当時はヤフーブログ、など書く気力も無く、というより、この非常時に・・・、と書くことを意図的に控えたことを覚えています。
ですから、発災後、1週間を経て始めて書いた記事↓には写真はなく、南関東から西の太平洋岸へのより大きな地震の襲来もメディアで取り沙汰されていましたから、この時期の風潮にあわせ自身が何かブログで出来ることはないかと模索して、以下のことを記事としたようです。
原文のまま少し、振り返ってみましょう。
※ヤフーより移転時に壊れた段落等は修正しています。
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2011/03/18記述UP
「湘南の関東大震災。今身近な鉄道への爪痕、序章。」
前回の更新から、8日間もたってしまいました・・。
JR東海道線 根府川駅駅舎(2代目)
根府川駅。首都圏に住む鉄道ファン、特に30代以上の列車撮影を主体としたファンにとっては、「聖地」への玄関口として親しみの深い駅ですよね。
もちろん当時は今のような無人駅ではなく、ちゃんと駅職員が配置され、小世帯ながらきっぷの集改札から駅の管理まで行き届いた業務が行われていたのは言うまでもありません。
ブルトレ全盛時代にはホームでの撮影や白糸川橋梁袂での撮影許可等でお世話になった方も多いのでは。
湯河原方ホームはずれから、鉄橋上のブルートレインをねらうアングルは一度は挑戦してみたいカットではなかったでしょうかね。
幾多の名作がこの駅と白糸川橋梁、通称「大鉄橋」で生まれたことは皆様ご存じの通りでしょう。
「ホームの向こうは海」の抜群のロケーションから、古来メディアに登場したのも一度や二度ではありません。
開駅は熱海線第一期開通時の大正11年12月21日。
先代の白糸川橋梁と併せて、風光明媚な駅として当時の絵はがきなどにも登場しています。
当初は真鶴駅まで単線非電化で開業、すぐに複線で開通、2年後に湯河原駅、そして終点熱海駅まで開通したのは大正14年と、3年間で全通を果たしました。
当駅と真鶴駅の間にあった名所「眼鏡トンネル」こと赤沢トンネルは今は新線切り替えでなくなってしまいましたが、昔はこの区間の白眉の一つでしたよね。
小田原駅を過ぎて早川の鉄橋を歩足り、最初に相模灘を目にする小峰の切り通しや石積のクラッシックなポータルを持つトンネル群(将来の丹那ルート開通を考慮して最初から複線構造を持つ)は開通当時のまま(純粋に開通当時のままではないです、理由は後述しますね)今でも目にすることができます。
根府川駅では現上り線ホームが開通当時築造されたホームそのものでありますが、なぜか上りホームなのに2番線。
実は1番線は元駅舎のあった現在の変電所下の部分が1番線ホームで、地域集配貨物廃止までは駅留め貨物の積み下ろしに使われていました。
さらに現在駅舎の建つ高い石垣も当時積まれたものだということが絵はがきの写真↑からもわかります。
ですが跨線橋の財産票は大正13年10月10日同10月5日竣工と鉄道開通の2年後となっています。
たった2年で駅舎も跨線橋も建て替えられてしまったのはなぜか。
改札ラッチ横の関東大震災殉難の碑が、そのすべてを物語る生き証人です。
大正12年9月1日午前11時59分、関東南部を襲った未曾有の大地震。根府川駅はこの3連動地震の震源域に非常に近接していました。
ですから開通したばかりの熱海線も大きな被害を受けています。
沿線各所で崖が崩落し線路はズタズタ、真新しいトンネルは山体移動で随所で陥没、変形してしまいました。
今では鉄の撮影名所の一つとなっている根ノ上踏切のカーブにも元は根ノ上山トンネルが存在していましたが、トンネル上の山が地震動で崩壊し海側へくずれ落ちたため、トンネル本体は地山と共に消失してしまい、側壁を残して露天となってしまった跡だそうです。
(撮影時は気付きませんでしたが、確かにポータル名残の石組みと壁面のコンクリ擁壁と避難坑が写真に写っています)。
加えて根府川駅周辺の被害は筆舌に尽くしがたいほどで、開通後1年も経っていないホームや駅舎は軒並み倒壊。
駅北側の山で発生した大規模な地滑り(正確には山体の大崩壊)は駅構内の大半を埋め尽くしました↓。
1946/02/11米軍撮影 根府川
終戦直後のまだ、真鶴道路ができる前の写真です。空撮写真中央やや右側に根府川駅が見えます。山体崩壊した土砂が駅から海側にどのくらい押し出したかがよくわかります。
写真中央上に崩壊崖群が並んで見えます。これ↓です。
かなりの高さがあるのがわかります。
この場所から駅横の小山がそっくりすり鉢状に、一挙に海側へ崩れたようです。
ちなみにガードレールがある場所が消滅した1番線ホームです。
開通当時は現上り線一本の単線開通で現2番線が下りホームでした。
発震と同時に駅に進入してきた真鶴行き下り109列車(960型タンク機関車977号牽引、この機関車の4枚のナンバープレートのうち1枚がこのとき奇跡的に地上に残り、今でも交通博物館※現、鉄道博物館に所蔵されているそうです。砲金製プレートは大きくゆがみ、このときの衝撃の大きさを物語っています)を路盤・プラットホーム共々、80m下の相模灘の海中へと押し流してしまいました。
このときの模様を「神奈川県下の大震災と警察」と言う資料から拾ってみると
『・・・片浦村根府川白糸川沿岸の一部落が山津波のために埋没されると同時に、↓
白糸川北岸の一丘陵を隔てた熱海線根府川駅は、駅背後の断崖約六丁歩崩壊し、停車場建物および鉄道官舎を海中に押し出し、また恰も駅構内に入り将に停車せんとした午前十一時四十分小田原駅発真鶴行二、三等七両連結第百九列車をもはね飛ばし、汽関車一輌は渚に残り、他の六輌は乗客約二百人を乗せたまま海中に墜落し、プラットホームにいた約四十名も一斉に海中に投げ込まれ、折柄来襲した海嘯に浚われ、停車場、鉄道官舎等の建物も汽車も人も海中深く沈没して所在を失い、以上遭難者約二百四十名中僅かに四十名は生存・・・』
いかにこのとき起こった山体崩壊が凄まじかったかが、よくわかると思います。犠牲になられた方々のご冥福を祈りたいです。
写真の客車はナハ22000、台車はTR11でしょうか。
近年この駅下の海中に、押し流された駅ホームの一部が当時の姿そのままに沈んでいるのが発見されてダイビングスポットとなっています。(この詳細については↓ページにてご覧ください※駅名標はダミーです)。
写真は事故数年後、当該列車を引き上げたときの新聞記事です。
というわけで、瀟洒なたたずまいを見せる現駅舎は震災復旧時に建てられた2代目なので、当然、竣工も大正13年。
先代の趣を受け継いだこの駅舎は、下見板張りの外壁といい、浅い寄棟造りの屋根&付け庇といい実に優しく穏やかな雰囲気を持った駅舎です。
改札ラッチから跨線橋越しに望める相模灘も実に穏やかです。
震災で倒壊し、土砂に埋もれた場所は放棄され先代とは別に一段高く残った石垣上に駅舎が建て直され、ホームへとつながる跨線橋が土台をさらに強固に作られて、新根府川駅として再建されました。
(写真手前側の跨線橋は複線化時に付け足されたもの)
この駅の設置を願い、念願がかなえられたのちは地域の玄関として駅を大切に守ろうとした根府川の人達の想いが届いた末の、早期の復活でした。
ちょうどこの写真↑を撮りに訪れた日は、過去の悲しい歴史の事実など覆い隠すかのように、桜が咲き乱れ春の柔らかな陽に駅頭は包まれており、散策を兼ねたお年寄りのグループがベンチで談笑するのどかな風景を見ることがでました。
ちなみに、前述の通り震災時には初代白糸川橋梁も箱根山塊で発生した山津波が、巨大な土石流となって白糸川をあっという間に駆け下り、鉄橋下にあった旧根府川の村落全てを飲み込みつつ、現在の橋脚と大して変わらない巨大なコンクリート製橋脚を跡形もなく押し倒し、これも現橋桁と瓜二つの新品のアンダートラスを落橋倒壊させています。
ただ、ひとつ幸いだったのは、駅で海中にはたき落とされた下り列車と交換する予定だった上り列車が、熱海側のトンネルをでて鉄橋にさしかかる直前まで到着しており、トンネルの出口が崩落土砂で半ばまで埋まったおかげで機関車が脱線停車し、鉄橋から転落もしくは橋桁ごと海中に引き釣り込まれずにすみました。
今でも、大鉄橋下にはこの山津波で埋もれてしまった、旧根府川本村にあったお堂から掘り出された仏様を新たに安置したお堂がありますが、ここには、堆積した山津波の厚さがそのまま保存されて、その莫大な力を目の当たりにすることができます。
この記事は2004年に編集掲載した記事を転載加筆したものです。
トンネルが消滅した痕跡?、あの大鉄橋が落橋?駅がそのまま海中へ?
とても信じられないキーワードが並んでいますが、これらは全て事実です・・。イメージか湧かない方は、実際に現地に行かれることをおすすめします。下から仰ぎ見る大鉄橋の巨大さ、山体崩壊後のえぐれた山肌、下りホーム先端に立てば列車が転落した海面までの高さ、すべてが実感できると思います。
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今回、この記事を書いたときよりも多くの関東大震災の神奈川県区域の鉄道被災写真が公開されていますので追加して掲載致します。↓
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発震で藤沢以南で貨物列車を含めて上下13本の列車が脱線転覆しているそうです。↓
馬入川鉄橋は橋脚崩落横転で完全落橋※現在でも引き潮時に川中に倒れたままのレンガ造りの橋脚を見ることができます。↓
酒匂川鉄橋もトラスが橋台から外れて落橋、小田原駅は倒壊は逃れましたが傾ぎ、全線で線路築堤は崩落変形しています。
現代に置き換えてみれば、線路路盤は震災当時から90年、当時と比べて幾多の列車が通行したことで十分に踏み固められ強度は格段に増しているでしょうが、運転速度は当時に比して数倍に増しているわけで、いくら安全対策が充実してきたとはいえ、東海/東南海を始め首都直下/第二関東震災など巨大地震発災時を考えると、空恐ろしい限りです。
自宅での被災時の備え以外でも、鉄道乗車中での被害低減行動などもよく調べて、そのときのために準備しておいた方が良さそうですね。
ちなみに聞いた話ですと、咄嗟のことなので出来るかは不明ですが、
ロングシートに座っていて発災に遭遇したときは、座っている人同士で両手をスクラムしつつ、手すりにしがみつくと脱線時に放り出されないで済むそうです。
---------------------------------------------------------原記事は2006/04に初稿、2011/03/18に加筆転載、2020/09/01に更に記事訂正して加筆再転載しています。