(※東日本大震災から7年後の2018年夏、岩手県の宮古から三陸鉄道北リアス線とJR八戸線に乗った。震災から10年を機に、その時の記事を加筆修正して再掲載します。 前回は北リアス線島越から久慈まで
 
久慈でJR八戸線に乗り換える。すぐに接続する1500分発八戸行きは「リゾートうみねこ」のはずだった。海沿いを走る八戸線で窓の大きい車両に乗れるのを楽しみにしていた。
 

 
 
イメージ 1
 ところが、跨線橋を渡り八戸線のホームへ行くと、意外な車両が止まっていた。駅の案内では、「リゾートうみねこ」は車両の不具合のため運休し、代わりに一般車両が同時刻を運行するという。14年ぶりに乗る八戸線は新型のキハ130系に置き換わっていた。。
 

 
 
イメージ 2
 2004年、久慈駅で撮影したキハ48。八戸線といえばこのカラーが今でも印象に残っている。
 

 
 
イメージ 3
 乗務員がタブレットを肩にかけて列車に乗り込む。今見ると実に貴重な場面だ。この頃のJRで、タブレット閉塞の列車運行は八戸線と久留里線だけだったと思う。
 
 八戸行きは2両編成。ほとんどの座席が埋まり、トイレに近い優先席しか空いていない。そこに坐るべきか、一瞬迷う。車内を見渡すと高齢者はいない。とりあえず、混み合うまで坐ることにした。
 

 
 
イメージ 4
 陸中八木に着いた。ホームの向こう側に港があり、海が見える。約14年のブランクのある八戸線でもこの駅は記憶に残っている。ここも震災で津波に襲われ、復旧までに約1年もかかったそうだ。駅名板が新調されている。
 
 以下、2004年に撮影した陸中八木駅の写真を掲載する。
 

 
 
イメージ 5
 キハ48を改造した「うみねこ」。列車交換のため陸中八木に数分停車した。駅員が運転士にタブレットを渡す。ちなみにこの車両は外観こそキハ48のままだが、車内は特急列車の座席のように改装されていた。
 

 
 
イメージ 6
 陸中八木駅は、港町の駅、あるいは漁港の駅という風情がある。
 

 
 
イメージ 7
 運転士からタブレットを受け取った駅員が腕木式信号機を操作する。JRで腕木式信号機が最後まで残っていたのはこの陸中八木駅だったという。その後、2005年には自動閉塞となり、腕木式信号機は汽車の時代から続いた長年の役目を終えた。
 

 
 
イメージ 8
 駅舎内にあるタブレット閉塞機。昔は田舎の駅へ行けばどこの駅にもこの機械が見られた。タブレット閉塞がなくなった後の陸中八木駅は古い駅舎が取り壊され、今はこぢんまりした無人の小さい駅舎になった。
 


 
イメージ 9
 この表示板は閉塞区間ごとのタブレットの形を表している。閉塞区間ごとに丸や三角などいくつかの形状に分類されていた。
 
 陸中八木駅で懐かしい気分になったのも束の間、優先席で横向きに坐っていては、どうにもローカル線の旅の気分が湧いてこない。種市でまとまって乗客が乗ってきたのを機に立つことにした。以後終点の八戸までずっと車両最後部で後方展望を見ながら過ごすことにした。
 
 
 
 
イメージ 10
 階上(はしかみ)では列車交換のため、数分停車。
 
 
 
イメージ 11
 気分転換にちょっとホームに降りる。車両の側面にうみねこのイラストがある。さりげない演出が八戸線沿線の特徴を表している。
 階上では地元の若い女性が数人乗ってきた。彼女らは車掌に「ほんはち」までと告げ、切符を購入する。「ほんはち」というのは本八戸のことだろう。正式な駅名ではなく地元の通称で会話が成立するところがちょっとおもしろい。
 

 
 
イメージ 12
 車窓からは松林越しに海が見える。どの駅間で撮ったか、忘れてしまった。八戸線にはこういう場所が多い。
 

 
 
イメージ 13
 陸奥白浜を過ぎ、次の鮫までは、海沿いを走る八戸線でも特に眺めのいい区間である。レールはやや高い断崖の上を進む。開放感のある風景だ。
 

 
 
イメージ 14
 久慈から海岸を北上してきた八戸線は、左に大きくカーブしつつ、北西から西、さらに南東へと進路を変える。ちょうどこの区間は海に突き出た小さい半島をぐるりと回るルートなので、日差しの向きも変わる。ずっと順光で青く見えていた海は、鮫の手前で逆光になりギラギラ輝く。
 

 
 
イメージ 15
 ウミネコの繁殖地として知られる蕪島が見えたら、鮫は近い。

(追記 震災から10年。この間、私が被災地に対してやったことといえば、義援金を送ったり、復旧した鉄道に乗って、お土産を買うくらいであった。ささやかなことしかできないが、震災の記憶を風化させてはならないという気持ちはいつまでも保ち続けていたいと思う。)