この経緯は昭和32年に大映の専務だった曽我正史がワンマン社長の永田雅一に反逆し、京王電鉄・新歌舞伎座・千土地興行の社長松尾国三のバックで設立しようとした事に始まる。
しかし永田がそれに気づき政治的に手を廻し、運輸省から京王電鉄に圧力をかけ動きを封じた。
日映事件は本が出来る位の内容なのでここでは電鉄に関する事だけを記事にする。
さて、曽我は三宮との面会が叶う事になった。
会談の機会を持った曽我が 新会社の設立構想に就いて一応説明し、
『何か質問があれば答えますから』と言ったが、三宮氏からは大した質問もなかった。
曽我は、この会談での三宮の為人の印象を、
「非常に口数の少い人で、愛嬌もない。
まるで漢文の先生と話しているような感じで私は此の人が映画企業に乗り出すと云う期待を持つ事は無理だなあと感じた」 と・・・
しかし三宮は後日、OKの返事を出す。
堅実な三宮が映画製作に参画を表明したのである。
これには京王幹部達も驚いたが、説明した曾我や松尾がもっと驚いた。
それは東急には東映と言う映画会社もあったからだった。
これ等の経緯についても曾我や松尾は知っていたから疑念が消えなかった。
「三宮さんは東急の五島会長の承諾を得られたのか?」と・・・
すると三宮からは、
「五島さんの所へ挨拶には行きます。
しかし現在の京王はいつまでも子供でありませんからどうかご懸念なく」
と決意を表明したのである。
それならばは愈々実行に取掛ろうと云う事になった。
資本金8億円は株式を公募せず発起人となる。
京王三宮氏側がその半額の4億、松尾氏が今里・大神両氏の応援を得て4億と資本構成の原則が決定した。
こうして 「日映」 株式会社設立に向け、事態は具体的に動き出そうとしていた。
しかし、この話は直ぐに五島の耳に届く事となった。
五島は副社長でもある息子の昇に連絡を入れた。
昇は三宮と仲が良かったからだ。
昇もすぐさま大映社長の永田に連絡した。
寝耳に水だったのは永田である。
曾我に裏切られた永田はこれまた日映の阻止に向けて政界工作を始めた。
と同時に昇は三宮に説得をする。
他の東急幹部達も説得をする為、三宮に面会を申し入れた。
結局、三宮の決意は固く五島自ら説得をする事になるのである。