発災当時、あまりにも衝撃的な景色に色つき画像は憚られ。10年経ち、元のカラー画像で。島越。 | 湘南陽光電しゃ館 鉄道館

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発災後、あちらの世界へと旅立たれた犠牲者の方々には新盆となる2011年8月。

被災地では盆をする方の人々まで逝ってしまい、盆飾りもなく、むなしく倒壊したままの墓石の並ぶ墓地を多く見かけました。悲しい景色。

小生も一戸へ帰省致しましたあと、帰り道に三陸沿岸浜街道を選んで、久慈へ出て車で南下しました。

発災前、何度か走った浜街道国道45号線は海沿いとなる場所は、大津波に洗われズタズタにされて、至る所で迂回道が設けられ、その仮設道路ももうガタガタで段差も激しく、こりゃエライいことだわ、と実感しました。

帰省行きがけに寄った八戸線では線路が綺麗さっぱりさらわれて、ダート道路みたいになってるところが線路敷だったなんて、どこにでもありました。

まるで、草ぼうぼうの廃線跡みたいでしたから、復活して「うみねこ」の再開記念列車に乗って大津波で叩き落とされた鉄橋を渡ったときは、涙が出ました。

ただ、津波被害を受けた街区は八戸線沿線、当時の三鉄北リアス線陸中野田駅までの沿線では、すでに街だったものの残骸(今でもガレキと言いずらいです)もかたづけられたあとで、不自然に広がる平地が遠くまで続いているという雰囲気でしたが、バイパスから山越えをして田野畑へ入ると景色が一変したのです。

駅前広場には大津波で運ばれてきた漁船が放置されていました。そして、浜に目を向けたとき「エッ!?」と目を疑いました。

駅から浜まで続いていた町並みが消滅しているのです。

まるで新たに造成された、建物が建つ前の新興住宅地みたいでした。

そのときの印象を当時のブログ↓で感じてくださいませ。

そして、今回のブログテーマに関わる記事↓です。

島越。その衝撃的な光景は声も出ず「・・・。」絶句、とはこういうことか。

帰宅して早速記事を書き始めたのだけれど、あの光景があまりにもショックで、思いつくまま書いても、犠牲になられた方々の事がよぎってしまい、文脈もなにもむちゃくちゃでUPしています。

途中、「街が消滅してしまったこの光景には、カメラを向けることができずあえて海側を撮影したが、色つきでこの惨状を紹介するには気が引けた・・。申し訳ないが、このカットはあえてモノクロで掲載させていただく。」とある写真が何枚も出てきます。

今回、それらモノクロ写真のうち、最も心が痛んだ島越で撮影した写真の色つき原画を掲載致したいと思って、この記事を書きました。

 

2011/08/17撮影 三陸鉄道旧島越駅 

「憤怒のひまわり」こと、10年経っての「語りかけ呼びかける癒やし花」

〃 山田線鵜住居駅

当時はこのひまわりの色合いをそのまま掲載することにはどうしてもためらいがありまして、あえてモノクロにして掲載しました。

手向けの花としては色合いがあまりにも鮮やかで、慟哭しつつ大津波の逆巻く波間にのまれていかれた方々に対して、なにか臨終の地を冒涜するような気がしてならなかったからです。

特に上2枚の元島越駅背景のひまわりは、海に向かって屹立して花びらがあり得ないほどの勢いで逆立っていて、こう言ってはなんですが、怒りというか鬼気迫るモノを感じてしまい、掲載するのも躊躇われたのを思い出します。

3枚目の山田線(元)鵜住居駅のカットは逆に駅から出てくるお父さんお母さんを今か今かと待っている子供さんのように見えて、涙したのも思い出しました。

でも、この姿があまりにも切なくて、もうどうにも当時は掲載できなかった一枚です。

10年一昔と言いますが、節目であり節目ではない今年、あえて色つきの画を掲載できて、なんというか、方々の供養が出来たような気がします。

この区間は全て鉄路も駅も元以上に復興復活致しましたし、これからは新たなお立ち台(名撮影地)を探しに、新生、三鉄リアス線の撮影に励もうと思っています。