頑張れ支線(盲腸線)の旅17⑷ | としのブログ

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西宮北口駅の歴史

 
 
 
西宮北口駅の開業は、神戸線の開業と同じ1920年(大正9年)にまずは神戸線の駅として開業、当時は周辺は田んぼだらけだったようだ。
 
開業前1915年頃の地図に阪急神戸線の予想線路を書き込みました。


翌年には、西宝線(現在の今津線)が宝塚から南下して来る、しかし最初の予定では西宝線は、西宮北口の一つ北側の門戸厄神から南西に伸ばし西宮市街地に線路を延ばす予定だったが頓挫してしまい西宮北口に繋がり、1926年(大正15年)阪神電鉄の今津駅に繋げるように変更した、そのため西宮北口駅では神戸線と今津線の平面交差(ダイヤモンドクロス)が生まれる事になる。

有りし日の西宮北口駅のダイヤモンドクロス、大都市の真直角のダイヤモンドクロスは非常に珍しく、路面電車同士や鉄道と路面電車はあちこちで見かけました。
私は子供の頃、よくこの西宮北口駅に行った記憶があります、それは後で紹介します西宮球場に行くためで、その時の印象は「普通のポイントでは出ないぐらいの大きな音のガタンゴトンの音」だった記憶があります。


開業当時の西宮北口駅、今津線から神戸線に直通できる渡り線が、神戸側にも有ることが分かる。


最初は、複線同士の交差であったが、後に神戸線は4線になりホームも今津線を挟んで大阪側と神戸側に分かれる大掛かりな駅になる。


開業当時は、西宮の市街地から外れた武庫郡瓦木村で田園風景が広がる場所であったが、その後急速に発展し都会的な街に変貌すると、阪急神戸線も過密ダイヤと10両編成を求められ、次第にダイヤモンドクロスがネックになっていく。

1984年(昭和59年)今津線を南北に分断し、ダイヤモンドクロスを廃止し、今津北線は宝塚ー西宮北口間を今津南線は今津ー西宮北口間をそれぞれ折り返し運転になる。


その後、神戸線と今津北線を橋上駅化し、今津南線を高架駅に計画、下りホームの旧8号線に今津南線の西宮北口駅の仮設ホームを設置し、現在の5号線の工事を始める。

分断後の地図


2010年(平成22年)今津南線の西宮北口駅の高架化が完成、現在に至っている。


改札を出てペデストリアンデッキを南に歩きました、おっと懐かしい阪急お得意の動く歩道があります。


ペデストリアンデッキと同じ高さに有る今津南線。


ペデストリアンデッキを少し歩くと道を挟んで阪急百貨店が有ります、この百貨店も含めこの一帯を「阪急西宮ガーデンズ」と呼ばれますが、以前この場所には「西宮球場」がありました。

有りし日の西宮球場(西宮スタジアム)です、私は子供のころよくこの西宮球場に連れてこられた記憶があります、しかし阪急ブレーブスのファンではなく、私の親は競輪が好きだったようで、この西宮球場は阪急ブレーブスの野球が無い時に木製のバンクで競輪が開催されていました、1947年(昭和22年)、当時、阪急ブレーブスの成績が悪く、観客動員もパッとしなかった為、小林一三の発案により競輪を開催すると大当たりし、野球をはるかに超える観客が押し寄せたらしい、しかし2002年(平成14年)3月をもって西宮競輪は閉鎖、西宮スタジアムもその年の12月31日で閉鎖され65年の歴史にピリオドを打つ、その後この地に出来たのが西宮ガーデンズで有る。


駅前にあるマンホールの蓋の図柄です、これは正に西宮スタジアムですね。


先に紹介した、今津南線から神戸線への渡り線である、そしてこの踏切は県道606号線の踏切で、よく見ると!

西宮スタジアムが閉鎖されて約20年経った現在でもこの踏切の名前は「球場前」である。


同じ踏切を神戸線側を見る、かつてここは複線の今津線があり、この先で神戸線と平面交差していた。


踏切から西宮ガーデン方面を見る、交通整理のガードマンさんがどんどん入って来る車を誘導していた、今回の支線の旅は1日の利用者数が10万人と言う巨大ターミナルの西宮北口駅がある今津南線でとても盲腸線とは言い難いが、その歴史を見ると、南北を分断された今津線を紹介したかったのである「頑張った支線」である。


最後に西宮ガーデンズの北側にある高松ひなた緑地公園に保存されたダイヤモンドクロスの説明板。


その内容。


そして保存されたダイヤモンドクロス。

1日の利用者数が10万人と言う巨大な駅がある支線は支線と呼ばないだれうが、生い立ちを紹介しました。

おわり