春は出会いの季節であると同時に別れの季節でもあります。

いよいよ185系 “卒業” へのカウントダウンが始まってしまいました。 “フリーク” とまでは言わないにしても、それなりに185系に対しては思い入れのあるだけに、やっぱり “卒業” となると、それはそれは寂しいです。父親の田舎である伊豆下田に行く時は、9割以上車だったこともあって (今もそう) 、 「踊り子」 に乗って下田に行ったという記憶はあまりないんですが、E257系に統一されたらもっと乗らなくなるだろうなとは思います。

 

185系を語る際、 「踊り子」 は間違っても外せないのですが、もう一つ、重要な任務がありました。それが普通列車の運用。

185系は特急用車両ですが、塒である田町電車区 (南チタ) の伝統的な車両運用の兼ね合いで普通列車にも使うことが前提とされた設計になったというのは皆さんもご存じのことかと思います。だから、登場当時は 「特急用車両を普通列車に使うなんて・・」 ともの凄い酷評だったのです。でも、民営化後は特急用車両を普通運用に使うなんざぁ、特別珍しいことではなくなったし、JRになってからの特急用車両は 「これが特急用車両?」 と思わせるほど、チンケな造りだというのも一つや二つではないので、185系は 「マルチパーパスな使い方をする」 という意味合いの車両としては時代を先取りしていたのかなとは思います。

 

国鉄時代の185系普通列車はダイヤが決まっていたと思います。登場当時は153系との兼ね合いがありましたので、これを辿っていけばどの列車に185系が充当されるかは自ずと判りました。しかし、 「踊り子」 登場後は、その 「踊り子」 との兼ね合いになるわけですが、案外難しかったかもしれません。単純に11両なら113系、10両なら185系と分けることが出来ますけど、時刻表やダイヤを見ても 「これは185系による運用」 とは書いてませんしね。

 

さて、画像の列車ですが、撮影は昭和56年9月に保土ヶ谷駅でとのこと。

列車番号が 「861M」 と読めますので、東京を10時10分に発車する小田原行きの列車と推察します。土休日やオンシーズンになると熱海まで延長運転されます。そして上りは932Mとして東京に戻ってきますけど、気になることが。

この画像、前述のように保土ヶ谷駅で撮影したとのことなんですけど、確かに保土ヶ谷駅は今も昔も横須賀線の列車しか停まらず、横須賀線にしかホームはありません。横須賀線のホームは山側にありますけど、そうだとしたら、写っている列車は東京行きでなければいけません。にもかかわらず、列車番号は奇数の下り列車を表示しています。考えられるのは実際は932Mなんだけど、折り返しの際、列番を交換しなかった誤表記か、別の列車 (小田原発東京行きの860Mとか平塚発東京行きの1862Mとか) の可能性があるということ。東戸塚も山側の横須賀線にしかプラットホームはないし、戸塚は東海道線にもホームはあるし・・。保土ヶ谷撮影説は間違いなさそうですけど、列番誤表記説か別列車説のいずれかを正論とするべきなんでしょうね。

 

以前にお伝えしたことがあるかと思いますが、私は高校時代、京浜東北線を使っていました。あの頃の京浜東北線は100%103系だったので、毎日同じ電車だと飽きてしまいます (103系自体もその当時は研究対象になっていなかったしね) 。そこで時折、気分を変えて品川まで東海道線に乗っていました。その頃はまだ汐留貨物駅、東京機関区、品川客車区、田町電車区、品川機関区が残存していましたし、車窓風景は今とは比較にならないほど。

通学時間帯の兼ね合いでよく利用していたのが7時53分発静岡行きの325Mと8時05分発平塚行きの741Mで、この741Mに185系が充当されていました。185系の場合、大体乗る車両は決まっていて、2号車 (モハ184) でした。今やヒーリングになっているMT54のモーター音とともに田町-品川間の車窓風景を堪能しながらわずか10分少々の “至福のひととき” を過ごしたものです。因みに、325Mの前は7時44分発の小田原行き739Mなんですけど、これも捨てがたい列車でした。数少ないグリーン車無しの編成で、静岡運転所 (静シス) が担当。111系などを含んだ初期ロットの非冷房車が上京していたんです。たまにモハ110-1+モハ111-1のユニット、そしてクハ111-1も来ていました。

 

新コロの関係で185系のさよなら運転は行われないと思いますが、185系 「踊り子」 の最終列車は時刻表を見れば判ってしまいます。きっと3月12日の東京駅及び東海道線沿線にはまた “地底人” が大挙、現れるんだろうな・・・。

 

【画像提供】

ヤ様

【参考文献・引用】

国鉄監修・交通公社の時刻表 1980年12月号、1985年5月号 (いずれも日本交通公社 刊)